相 馬 家 騒 動 の 疑 獄
(解題)黒岩涙香(くろいわるいこう、一八六二~一九二〇年)、明治・大正期の批評家・翻訳家。高知県安芸郡川北村(現・安芸市)生れ。
幼少から和漢の学を学び、後に成立学舎・慶応義塾等に学ぶが中退。明治十三年、「東京輿論新志」で名を知られ、同十六年、「同盟改進新聞」主筆。「日本たいむす」「都新聞」「絵入自由新聞」等にも勤め、翻訳探偵小説の処女作「法廷の美人」をはじめ、いわゆる<涙香物>で好評を博した。二十五年、朝報社を設立、「万朝報」を創刊、新開紙上に新生面を開いたほか、三十五年、<理想団>を組織、社会浄化のほか、霊魂不滅説を唱えて人心警醒に努力。その作風の基底に勧善懲悪的態度を持ち、「鉄仮面」「巌窟王」「噫、無情」等の翻訳小説は読書界を風靡した。
著者・伊藤痴遊(いとうちゆう、一八六七~一九三八年)、明治・大正・昭和期の講釈師、小説家、政治家。
華族の相馬家は、奥州中村の小藩ではあったが、極めて富裕に暮らして居た。明治になってからも、子爵として華族のうちでは、最も富める家であった。
衆議院の正門前にその本邸があって、富み百万と称されて居た。昔は、足尾銅山の経営なぞもやった。小さいながらも、大名の片端に居るものが、銅山の採掘をやる位いだから、貨殖の道には却々抜目がなかったらしい。古河市兵衛は、相馬家から譲受けて、彼の銅山で大きな身代を起した。
相馬家騒動の疑獄は、明治二十四年から二十六年に跨り、一時は、世間を大いに騒がした事件であるが、真に事件の起因は、明治十年からであった。
相馬家の長男・誠胤が未だ慶応義塾に学んで居る頃、薬研堀に屋敷の在った、これも華族の戸田家から、夫人を迎える事になったのであるが、婚礼の夜、誠胤は、新婦が、見合の時の女とは違う、というて、問題を惹起した。それを親戚や家職が総掛りになって抑え付けてしまった。
戸田家には、美醜二人の、娘が在って、見合の時は、美しい方の妹娘であったが、婚礼の際は、醜い方の姉娘であった、というのが、誠胤の主張であった。而かも、迎えた新婦は、先天的に躰に欠陥があった。俗にいう所の、小野小町と同じで夫婦の交りが、完全に出来ぬ女であった。
重ね重ねの不満に、誠胤の心は、乱れて来た。
二十歳の男が、迎えた夫人に、斯うした事情があり、而かも、其憂鬱を漏す可き、何等の自由も与えず、斯くて三四年を通したのであるから、精神的に、誠胤が狂わしくなるのは無理のない事であった。
誠胤の父、充胤には、西田柳と称する、美人の妾があって、既に順胤という子が、生れて居たから誠胤に、万一の不幸があれば、その子供が家督を継ぐ事になるのであった。
而して、家には、百万の富があるという所から、斯うした事件が起って来たのであり、その関係者には、知名の人が沢山に在った。
誠胤は、時発性の精神病に罷った。治療に、手は尽したが、容易に本復せぬのみならず、日に増し量るばかりであるから、邸内に座敷牢をつくって、それに入れて置いた。
東京府庁の役人、多田部純太郎が病の故を以て、職を辞して故郷の中村へ帰った。医薬の手当も届かず、病革まって、いよいよ死に臨んだ時、親戚や知友を集めて「相馬家の内情を語り、華族会の問題にもしたが、どうしても、物にならなかった。けれども、当主の誠胤が、精神病者という事は、猶多くの疑いもあり、此儘にして置けば、腹黒の家職等が、何をするか判らぬゆえ、今後の事は、君等に御願いたす、自分は、明日にも此世を去るのであるから、此事を遺言するが、手箱の内には、之れに関して、日誌もあれば、其他の書類も在るから、それを読んでくれ」といい終って、多田部は、黄泉の客となった。それから、旧臣の間に、大きい問題となって、いよいよ事は、面倒になってゆくのである。
その頃は、末だ旧藩時代の君臣の情誼が幾分か残って居て、誠胤の身を案じるものが、追々殖えて来て、之れが為に、いくたびか集会も開かれたが、兎に角、東京へ出て、屋敷の状況も視て、その上の考にしょうとなって、旧臣総代が、出京する事になった。
幸い、誠胤の病気を、見舞った時、家職の不注意から、座敷牢の前へ、総代を案内して、誠胤を見せた。
病気の時発性と、いう事は知らず、見たところでは、何ともないらしいので、
「どうも是れは変だ」
と、一人がいい出せば、十人が共に、
「何か事情が、あるのではないか」
と、疑惑をもつようになって、それから種々な、風説も、伝えられて来た。
相馬家に、百万の資産が無かったら、決して騒動は、起らなかったのだが、沢山の資産が有っただけに、疑惑や邪推も起る事になる。旧臣のうちに、錦織剛清というものが在った。多少の文筆もあり、口舌も巧みな、風采のよい人であった。これが、旧臣の代表と称して、相馬家へ乗込み、談判を開いたのが、そもそも事件の発端であった。志賀直道、青田剛三を始め、相馬家にも、昔からの家臣で、引続き家扶や家令を、勤めて居る人があって、錦織に応接したが、その話は終に折合わなかった。
錦織は、誠胤に、面会を求めた。相馬家では、之れを拒絶した。喧嘩の火蓋は、之れに依って開かれる。それからの争いは、日一日と、はげしくなるばかりであった。何時か、誠胤は、巣鴨の癲狂院へ入れられて、厳重に監督されることになった。錦織は、此処にも押かけたが、どうしても、面会は、許されなかった。壮士を引連れて、本邸へ乗込み大騒ぎをやった事もある。
此時分に、後藤新平が、ドイツから帰って来て、内務省の衛生局長になって居た。錦織は、後藤を、屡ば訪ねるうちに、とうとう味方に引入れて了った。
錦織が、最初に後藤を訪ねたのは、精神病に就いて、何事かの質問をする為であった。後藤は、詳しい説明を与えて、錦織を、満足せしめたつもりで居ると、錦織は、そんな事を聞いて満足するような、平凡の人間でなく、後藤が、得意になって弁じ立てるのを、感心したように見せかけて、後藤の心へ、喰い込む為の策であった。
その後、錦織は、運動費に窮したから、と称して、二百円の時借を、申込んだ。後藤は、快諾して貸与えた。実は、時借をするほどに窮しては居なかったが、斯うして後藤を、ジリジリ引付けたのである。従って、時借の金は、手を附けずに、十数日を経ると、綺麗に返済した。之れを二三度つづけ居るうちに、後藤は、錦織の薬籠中の物になってしまった。
終には、千円以上の立替金をした上に、三千余円の借用証文へ、保証人として、連署する迄になった。此関係は、やがて後藤が、被告人として、法廷に立つの原因になった。一夜、錦織は、癲狂院へ忍び込んで、誠胤を、背負出して、行方を晦ました。相馬家よりは、警視庁へその取押方を願って出た。誠胤を盗み出したについては、後藤がその尻押である、と伝えられた。錦織は、間もなく抑えられて、誠胤は相馬家へ相渡された。ここにおいて錦織は、裁判所へ廻されて、その取調べを、うける事になった。裁判の結果は、重禁錮の刑に処せられて漸く一段落ついた。
後藤は、錦織を援ける為に、衛生局長の肩書を利用して、先ず中井常次郎を訪うた。中井は、精神病院長として、誠胤を診察した人であるが、中井の診断書に依って、誠胤は、一室内に監禁されたのであるから、それに対する疑問を糺す為であった。
中井の診断書には、法外の礼金が支払われて居たので、その秘密を捉う可く中井を糺問したのである。中井は、答弁に窮して、散々に、油を絞られた。更に岩佐純を訪れた。岩佐は、誠胤の夫人を、診察したのであるが、後藤の質問に対しては頗る窮した容子であった。間もなく洋行したのも、それが為めであるといわれた。洋行に名を借りて、岩佐は、事件の係累を避けたのであろう。此事があってから、錦織は、警視庁へ相馬家の役員と親戚の華族を対手取って不法監禁の告発をした。
此事件が、司法上の問題になったのは、之れからの事であった。警視庁には、野手一郎という保安課長が居た。
野手は、徹底的に、調べ上げる覚悟で、顧問医の長谷川泰をして、相馬家へ乗込ませ職権を以て、誠胤の診察を為さしめた。
相馬家の旧臣で、陸軍大佐の肩書ある人が、少なからぬ金を野手に送って拒絶されたのも此時の事である。
最近に、埼玉県の知事となり、更に和歌山県知事に転じたが、田中内閣の倒潰と共に、職を退いた野手耐は、一郎の長子である。
後藤は、錦織を、松本順に紹介した。松本の援けを得て、病院に誠胤を訪い、委任状へ拇印させて、錦織は誠胤の法定代理人となった。
巣鴨の癲狂院から、誠胤を担ぎ出したのは、それから後の事であった。
錦織は、此事件から、世間に知られて、多少の信者も、出来て居た。刑期が満ちて出獄すると、再び騒ぎ始めて事件は漸く拡大された。その味方には、宮地茂平を得て、事件の扱い方が、頗る上手になり、人気を取る事に努めた。先ず、各政党の本部を訪うて、その救援を求めた。
「司法省の大官が、相馬家から、賄賂を収めて、事件を、曖昧にして困る。警視庁の方も同様であるから、政党の力を以て、之れを剔抉し、公正の取扱いをして、主人誠胤の危急を救うてくれ」
と、いうのであった。
更に事件の内容としては、「相馬家に、百万の富がある為め、悪臣共が打寄って、妾腹の子を押上げ、誠胤を排斥してその富に手をかけようとする。それが為めに、発狂者の取扱いをして誠胤を苦めて居る」
との説明であった。
錦織の弁明は、極めて巧みで、聞くものは皆な、其忠義に感激したが、さればとて、天下の政党が、華族の御家騒動に、立入る事も出来まい、という事になって、此方面の運動は全く失敗に帰した。
政党の本部を、訪問すると同時に、各新聞社を歴訪してその応援を求めた。此時に、万朝報の黒岩周六(涙香)が、錦織に逢うて、一夕の会談をすると、直に共鳴して、錦織を、援ける事になった。その裏面には、斯うした事情もあったから、それを一応紹介する。
黒岩と錦織の会見した家は、京橋の東仲通に、今でも在る、鰻で有名な、小松家であった。
黒岩は、寺家村某と謀って、都新聞を発行し、得意の探偵小説を掲載した。西洋物を、巧みに翻案して、日本人に、向くように書いたが、そうした事には、一種の天才を持って居る黒岩の事であるから、都新聞は、之れが為めに売れ出した。然るに、黒岩には道楽が多く、球突、相撲、カルタ、将棋、五目並べ、囲碁等、苟も勝負を争う遊戯という遊戯は、何でも好きであった。それが為めに、交際費を要する事が非常に多く、且その家庭には、暗い雲が蔽うて居て、之れにも、沢山の贅費を要する所から、社に向って、求むる金は、中々の額であった。終に寺家村と、争いが起って、黒岩は、都新聞から、離れて了った。けれども、都新聞の売行きは、少しの影響も受けず、渡辺黙禅の、卑近な探偵小説が、却て評判よく、社運はますます栄えてゆくのであった。
負けじ魂の強い、黒岩は、之れに対抗す可く、別に新聞を起す事になった明教社の宏虎童と、約束が出来て、元の絵入自由新聞を、其儘継承して、万朝報と改題し、黒岩一流の、筆を揮って、論説も書けば、小説も書く。その奮闘は、実に目覚ましかったが、どうしても、都新聞には及ばず、万朝報の社運は甚だ振わなかった。丁度、此時に、錦織に逢ったので、黒岩は之れを材料に使って社運の挽回を謀った。
黒岩の筆を以て、相馬事件を書くのであるから、錦織は、古今稀れなる忠臣という事になって、その義捐金が盛んに集まって来た。それ等の事務まで、万朝報社で取扱う事にして、頻りに軽佻な、江戸ッ子を煽り立てたので、万朝報の評判は、俄かに良くなって、読者の範囲も、日を逐うて、拡がってゆく。
斯くて、相馬事件は、漸く世間の耳目を引くほどに、大きい物になった。事件屋の宮地は、その智慧袋を逆さにして、さかんに活動した。果ては、告訴状という名義で、要路の大官が、相馬家から収賄して居る、という事を、大々的に発表した。人名も、金額も、明白に書いて出したのだから、誰れも疑うようになった。而して、相馬家の役員に対しては、不法監禁、財産横領の訴えを起して来た。
相馬家は、之れに対して、誣告の反訴を起す事になったが、その代理を引受ける、弁護士が無かった。錦織の方には、角田真平、岡野寛、青木八重八を始め、とに角、有名な弁護士が、附いて居るのだから、相馬家としては、是れに対抗上、相当の人物を選ぶ必要があった。けれども、知名の弁護士ではそれに応ずるものがなかった。弁護士も、矢張り人気商売であるから、評判のよい、錦織を対手に法廷で争うのが厭だ、というて、事件を引受けなかった。無名の弁護士は、いくらでもあるが、それは相馬家でも欲しない。
福島の国事犯で知られた、愛沢寧堅という人が、自由党の代議士であった。相馬家の旧臣であった関係から、愛沢に、頼み込むと、愛沢は、之れを星亨の事務所へ持込んだ。星は、衆議院議長をやって居て、弁護事務は、全く休んで居た時でその依頼を断わったが、愛沢は、
「先生が、引受けて下さらねば、もう外に頼む人は、ないのですから、是非お願いを致し度い。何分にも、錦織の評判が良い所から、名ある弁護士は、すべて避けて居る様子で、此難件を依頼する人は、先生の外にないと極めて来たのですから、せめて名義丈けでも、貸して戴き度い」
と、いうのであった。星は、之れを聞いて、
「苟も、弁護士が、正当の理由なく、世間の人気を憚って、事件を受ない、というのは、甚だ怪しからん、そういう次第なら、我輩が引受けてやろう。但し、我輩は、衆議院議長で居る間は、事件を取扱わぬ事にしてあるから、法廷には、門人を立たせるが、それさえ承知なら宜しい」
というた。愛沢は、満足の旨を答え、一切の書類を、星の手元へ差出した。星は、すっかり調べた上、錦織を誣告罪として訴えた。その時は、此訴状を書いたのは、門人の斎藤二郎であった。後ちに宮城県から、代議士になって出たが、酒の為に死んだ。斎藤が人に知られたのは、此事件からであった。 星が、相馬家の代理者になった、というので、反対党の新聞は、さかんに攻撃をはじめた。一般の人気も、星は、弱い者虐めをするというて、甚だ悪かった。錦織のような、忠臣を訴えるとは、怪しからぬ、とあって、脅迫状を送り、邸内へ石を投げ込むものさえあった。けれども、裁判所は、此訴状を受理し、錦織を、誣告の犯人として、取調べをする事になった。
此前後に於て、誠胤は、終に病死した。錦織は、之れに故障をつけ、誠胤は毒殺されたのである、と主張して、告訴の手続きを履んだ。
哀れ、死したる誠胤は、裁判医の解剖を、受ける事になった。解剖の結果は、毒殺でないという事になり、それが為めに、誣告の審理は、急に進展して、錦織は、いう迄もなく、後藤も、同時に被告人として、投獄される事になった。 予審は、有罪と決定されて、公判へ廻された。多数の弁護人もついて、公判は長引いたが、結局、錦織は、五年の重禁錮に処せられた。
検事の論告に依れば、
「錦織は、全く虚偽の事を云触らして、俗人を欺き、世間を騒がして居るが、相馬家には、錦織のいう如き事は断じてないのである。誠胤は、真に病死であり、相馬家では、親戚立会の上、万事を処理し、誠胤を虐待して居るとか、財産に手をかけんとして居るものがある、というような事は、更にないのである。之に反して、錦織の為めに欺かれ、既に産を破ったものもあり、貞操を汚された婦人もある。実に錦織の如きは、憎む可き詐欺師であるが故に、なるべく厳刑に処するを至当とするが、重禁錮の極度は五年を最も重し、としてあるから、止むを得ず、錦織には、五年の刑を加えるように致し度い」
というのであって、その論告は、辛辣を極めた。之れに依って、裁判長は、五年の刑を言渡し、後藤は無罪の言渡をうけて青天白日の身となった。
相馬事件の結末は、それでついたが、星に対する非難は、容易に止まなかった。此事件で、星の人気は、全く地を払った。その上に、取引所問題が、引ッ懸かって来て、星は、議会から除名された。
錦織は、数年前に死んで、後藤は、其後、内相や外相になり、更に東京市長にもなったが、是れも、最近に故人となったのみならず、事件に、関係のあったものの大半は、此世を逝って、甚だ寂しい感じがするのである。
〔初出〕昭和五年
〔底本〕「明治大正実話全集」)
2011-06-10 03:37