新規抗うつ剤の説明で、抗うつ効果についてプラセボとの比較がグラフになって掲載されている。
この場合、例外なく、プラセボの効果は高い印象がある。また、副作用についても、プラセボでも高い数字が出る。これは何を意味しているのだろう。
試験計画を再検討する必要があると思う。
また、プラセボもある種の介入をしているには違いないわけで、比較としては、まったく何の介入もしない場合のデータが必要だ。
しかしそれは人道的には実行困難なので、うつ病だったけれども、治療なしで時間が経過した人を見つけて、治療なしの自然経過としてどうだったか調べたいのだが、当然自己治癒努力もするだろうし、意識しない部分で自己治癒に寄与する行動や考え方を採用する場合もあると思う。また、環境要因が大きかった場合には、時間が経って環境が変化したことが治癒に寄与している場合もある。
その場合、うつ病の定義が問題になる。
環境が変われば治癒する病気をうつ病といっていいのだろうか。このあたりはうつ病の本質がまだ明らかになっていないのだから、どちらともいえない。
しかし、昔からの考えでいえば、環境が変わって治癒するならうつ病と言う必要はない。現代風に言って、うつ病の定義が拡張して、環境要因が大きいものもうつ病に含める立場をとれば、時間が経過して環境が変化して治癒したともいえる。
個人的にはそのようなタイプは環境要因が大きいうつ状態と言うべきだと思う。
もともと100年前のドイツ精神医学では、躁うつ病を循環病と定義していたわけで、自然経過として元に戻るものと定義していた。元に戻らないものをデメンチア・プレコックスと定義していた。
このあたりから考えても、うつ病のかなりの部分は自然回復しているのだろうと思う。回復しないのは、性格の病理とか、神経症のメカニズムが関与しているタイプだろう。そう考えると、ディスチミアの問題もかかわってくるし、ダブルデプレッションも関係してくる。そうすると、治癒するとはどういう意味なのかも問い直す必要がある。
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うつ病診断の大きな目印としては、1.憂うつな気分、2.興味喪失、喜び喪失、である。
2.の興味喪失と喜び喪失が並べられて一項目になっていることも奇異である。
普通に考えて、興味があるないと、喜びがあるないとはかなり違う。
伝統的には感情の喪失という場合もある。
しかしうつ病の語感として、どうしても憂うつ、悲観的、悲しみ、悲嘆などの感情の病気と考えられることが多く、感情喪失は、うつ病とはまた別の話ではないかと考えられることも多い。
そのあたりの事情としては、うつ病は昔から躁うつ病の一部として考えられることが多かったので、躁病とうつ病を対比して考えると、なんとなく大雑把に、プラスの感情とマイナスの感情がそれぞれの特徴であるとも考えられるが、別の考えでは、プラスでもマイナスでも、感情が大きすぎるのが躁病で、感情喪失するのがうつ病であるとする少数意見はありうると思う。しかしやはり少数派だろう。
そもそも躁病とうつ病が逆の状態であると考えるのは誤解だろうと思う。治療薬も逆の作用というわけでもない。
だから逆に、躁とうつは逆ではなく、どうなのかと問い直すことが有効だと思う。そして、一人の人間に、躁とうつが時期を異にして観察されること、また躁うつ混合状態が観察されていることも大切である。
治療薬の観点からは、セロトニン系の抗うつ薬の一部では躁転の可能性があること。気分安定薬はリチウム以外はもともとてんかんの薬であり、うつ病の発生の予防にも役立つことなどが重要である。
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プラセボのメカニズムとして興味があるのは、プラセボで治ったとして、再発率は、SSRIと比較してどうか。
また、SSRIは効果発現まで2w程度を要するが、プラセボの場合は、どうか。心理的な効果だけなら効果発現は2wよりも早く現れるだろうし、心理的な効果が物質的変化(レセプターの調整など)にまで及んでいるとすれば、やはり2w程度かかるように思われる。
プラセボ効果の一部は自然治癒効果だと思うので、完全な自然治癒の経過と、プラセボによる治癒の経過とを比較したい。その差が正味のプラセボの効果だと思われる。
正味のプラセボ効果という言葉もおかしなような気もするが、それは実質、治療者との触れ合いによる効果や、通院による意識の変化、自分が医学的な患者だと受け入れることなどだと思う。
遷延している場合は、疾病利得や環境因子、また性格因子などを考える。
こうして考えてみると、うつ病と診断しました、治療開始しますという場合の、うつ病として一体何を診断しているのか、ここにも問題がある。