今見ているこの世界は、本当に世界そのものだろうか?
見えている世界は世界そのものではない
ヒントは意外と身近なところにあります。例えばこの本。皆さんは今、間違いなくこの本を見ているはずですが、皆さんが今見ている本は「本そのもの」ではない、と言ったら驚くでしょうか? ですが、これはまぎれもない事実です。
皆さんの視界に映っているのは、本に反射した(と想像される)光が目に飛び込み、網膜に分布した視細胞が光に反応して電気信号を脳に送り、脳がその信号を処理することによって作り出された、いわば仮想現実です。
本からもたらされるのは視覚情報だけではありません。指がページをめくるときに生じる圧力情報と、その際に発生する音情報と、本から出る糊の成分の情報が、それぞれ触覚、聴覚、嗅覚によって捉えられ、電気信号に変換されて脳に伝わります。
人の脳は、それぞれのセンサーからやってくる電気信号のすべてと整合するように「本と呼ばれる物体の想像図」を構築します。本の存在にリアリティを感じるのは、この想像図が五感を通じて得られた情報のどれとも矛盾しないからです。
これは私たちが認識しているすべての物事について言えます。極論でもなんでもなく、私たちは最初から「世界そのもの」など見てはいません。
見ていると思っているものはすべて、五感を通じて行われた「測定」と矛盾しないように構成された世界の想像図です。
こんなふうに思われるかもしれません。
「まあ、確かにそうかもしれないけどさ。何かがあるからその通りに見えてるんでしょ? だとしたら、見えた物はそこにある【物の本当の姿】だと思っても問題ないじゃないか」
ごもっともです。確かに「見えている本」は感覚器官と脳が生み出した想像の産物かもしれませんが、そこに「本」と呼ばれる何物かがない限り、そんなものが見える道理はありません。自分が見ている本が他の人には見えないというなら(いろいろな意味で)問題ですが、どうやら他の人にも同じ本が見えているようです。
もし五感が信じられないと言うのであれば機械を使っても構いませんが、精度が変わるだけで結果は変わらず、誰が観測しても同じようなものが見えるでしょう。
であれば、現実問題として、
「見えている世界は本当に世界だろうか? う〜ん、考えても答えは出ないし、見えたものはそのまま世界だと思っていても不都合はないし、それでいいんじゃないかな」
と考えても何ら問題はないように思えます。
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量子力学は直観に話することがしばしばあります。
もやもやとした量子ではありますが、その印象とは裏腹に、自然現象を予言するための手続き自体はしっかりと確立しています。
「量子力学」と呼ばれる方法論に従えば、数学の助けを借りることでミクロ世界の現象を正しく予言できます。
科学の目的は、真理の探究などという曖昧なものではなく、現実世界を合理的・定量的に説明することです。曖昧さなく計算を実行することができて、その結果が自然現象と合致する以上、量子力学は自然科学として完全に正しい体系です。
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むしろ、量子力学が、本当は正しい世界観であって、人間が常識的に感じている世界は、人間が日常生活を便利に送ることができるように「構成された」世界であって、科学的には正しくない部分があるわけです。
日常生活では、量子力学的に正しく感じていても、あまり便利ではないのですが、科学を正確に論じるような場面では、量子力学でなくては正確に論じることはできないのです。人間の直観と量子力学のずれは仕方のないものです。生活に便利なのは我々の直観です。
地動説と天動説も同じです。いろいろと考えてみれば、地動説が正しいことは納得できるし、現代では、宇宙にロケットが飛び、飛行船から地球の映像が届くのですから、地球が太陽の周りをまわっているのは当然の事実となっています。しかし、素朴な直観としては、大地は固くてまっすぐで地平線の向こうまでどこまでも平です。何十万年も、その常識で問題はありませんでした。
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脳は各種感覚を通じて情報を集め、世界を再構成しています。いろいろな情報を脳の中で再構成して、世界を作り上げています。
その、再構成された世界が、他人の脳の中で再構成される世界と同じだとはとても考えられません。
むしろ、細部での違いは大いにあるだろうと推定されます。
人間の信条や好みがそれぞれ違うのは、脳の中に再構成される世界がそれぞれ違っているからでしょう。
それでもやはり、人間の手は二本あるし、耳は二つあって、口は一つある、というような共通性もあれば、信号が赤になったら待つ、青になったらわたる、というような共通性もある、ずるいことは嫌われて、公正なことが好まれるという傾向もある。再構成の結果として、共通すると言っても、次元の違いはありそうです。
