個人的には、現在の人間社会において主張される多様性の問題について考えるとき、進化生物学でいう多様性をイメージする。
そこにあるのは人権尊重や生存権ではなく、ただ遺伝子の生き残りである。
ある遺伝子集団の中で、現在の環境に適した個体が子孫を多く残す。メスは生存可能性が高そうなオスの子供を産む。
つまり、短期的な観点から言えば、多様性は排除される。
しかし、環境は未来も同じとは限らない。環境が変化した時には、現在の強い個体が強いままでいられるとは限らない。その時は、遺伝子集団の中で、弱い位置にいた遺伝子が役立つかもしれない。
そのような意味で、遺伝子の多様性を保持することが集団にとって、かなり長い目で見た時に必要である。
身長が高いのが役に立つか、低いのが役に立つかは、環境次第である。
こうしてみると、長男だけでは心配ので、次男もいたほうがいいというくらいの感じもするではないか。長男が健在でいれば、次男は用なしである。スペアである。
環境変化に生き残ったその遺伝子集団も、特段多様性を心掛けていたわけではなく、ただ単に遺伝子が突然変異を起こしたというだけである。そのときそのときの優位な個体が遺伝子を残すことは変わらない。ただ、その選択がある程度緩い方が、環境変化がある時には有利だというだけである。あからさまに厳しい生存競争である。最適な緩さも、環境変化の幅と時間で決められる。
現代の多様性尊重は、例えば、異文化も包摂したほうが、単一文化で考えるよりも、いいアイディアが出そうだということなのだろう。その現場では、採用されないアイディアもあり、それは強い社会のために捨てられる。そのような多様性である。
弱者を包摂する福祉国家的なイメージではないような気がする。
強者が勝ち続けるために、弱者の意見も聞いてみる、そんな感じ。
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多様性を考えると言っても、集団のレベルをいろいろ考えることができるように思う。
・諸国家のレベルで多様性が保持されたほうがいいとの考えもある。いろんな国があってもいい。その反対もある。
・中規模社会での多様性ということもある。例えば、九州各地での県ごとの多様性とか。
・会社レベルでの多様性もある。自動車会社がいくつかあって、それぞれの多様性。
・家族レベルで、他の家族と比較した場合の多様性なども考えられる。多様な家族の在り方で、たとえば夫婦別姓とか、子育ての方針とか。
・個人レベルで多様性がある。
・個人の内部でも、いくつかの価値観を共存させている。時に応じて出したり引っ込めたりする。これも多様性である。一貫性がないと言えば悪く聞こえるが、融通が利くことだ。
いろいろなレベルで多様性が進行すれば、最終的には画一的になる。
たとえば、日本らしさとかイギリスらしさとかエジプトらしさとか、あるように思うが、多様性が支持され続けると、最終的にはどの国も同じような状態になる。
エントロピーが増大すれば、どの部分も同じように乱雑になり、結果として画一的になるのと同じようなものだ。
時間が経つと多様性の主体がどんどん細分化すると言ってもいい。どこの地域に行っても、同じような多様性があるという点で、画一的になる。
多様性が進行すれば最終的には画一的になるというパラドックスがあるように思う。