自意識とは何かという問題と生命とは何かという問題 ひも理論はいわば天動説に例えらる?

自意識とか自由意志とか、そのあたりの問題は、言葉の定義の問題や、また、それぞれの人間が主観的に経験していることで、それについて改めてどのようなものかと定義することも困難があり、さらに、定義のためにもメカニズムを明らかにできればよいのだが、それも現状では困難である。

他人に「本当に」自分と同じように自意識があるのかと考えて、分からないとしか言いようがない。ただ、経験から言って、相手も自分と同じような自意識を持っていると考えて特に実際の不利益はないという程度のことで、言ってみれば、特に問題ないから消極的に肯定している。

自意識の生成メカニズムについては色々な提案もあるのだが、どれも大したアイディアではない。アイディアと言えるほどのものでもないのに発表していることろが何とも、ほほえましい、保護的空間という感じがする。

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昔は生命とは何かという問題があった。

生命と非生命には決定的な違いがあるように思われ、しかもそれは自明と思われた。生命を定義することは難しく、生命と非生命の境界を明確にすることも難しそうだった。しかしまた、われわれが普段出会うものについて、それが生命か非生命かについては、何の問題もなく区別できていいた。

つまり、定義も明確でメカニズムも明確で、そのうえで、生命という言葉を理解して使っていたわけではない。ただ言語習慣として、自明のものだった。むしろ、非生命に生命が宿っていると考えて、アニミズム的な世界観を語り、興味を引く人々もいた。それもまあ、ほほえましい範囲だった。

ところがDNAの二重らせん構造が明らかになり、それ以降、RNAとか塩基配列とか転写とか突然変異とか遺伝子操作の技術とか、もうとんでもないくらい発達した。

現代に至ってみると、生命と非生命の区別を問題にして、動物生気などと言うような実態の知れないものを考える必要は全くないことが、きわめて自然に理解できる。もともと区別など必要ないのだった。

エネルギーを消費して構造を保持するとか、自己複製能力とか、エントロピーが増大してしまわないような仕組みがあるとか、このあたりは時に深遠な、時に宗教的な、超越的な考えは全く必要なく、科学的に納得できるように思われる。

もちろん、細部にわたって言えば、こんなにも精妙なものがどのようにして成立したのかと驚嘆に値するシステムであるが、まあ、偶然にそのようなシステムがある世界だから、われわれ人間も存在で来ているのだ。そのような多成果的解釈で、奇跡的な確率の不思議も説明できそうだ。

もともと、生物と非生物の区別なんか、錯覚だったのである。日常生活の中では、それらを区別することが簡単で有用だっだだけである。だから区別していた。しかし学問的に精密に説明することはできなかった。

フランケンシュタインを作るときも、最後に生命を入れるために雷の電気エネルギーを使ったとか、非生命が生命になるためには、大きなジャンプが必要だった。

現在ならばそのようなおまじないのようなことをする必要はない。まあ、たとえば一時停止した心臓に電気ショックを与えて蘇生させたりするが、それは生命エネルギーを注入しているのではなく、ただ心臓の神経調律を強制的に整えるというだけだ。

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生命とDNAのような関係で、意識を科学的に簡明に説明する何かがあるのだろう、多分。いずれ発見されるのだろう。

遺伝子の発見で、遺伝学も、悪性腫瘍も、生命と非生命の事情も、すっきりしたのだった。それまでの生命哲学愚かさと言ったら。

天動説と地動説も同じだ。素朴な観察を言葉にすれば天動説になり、そのように理解することは自然であったし、不都合もなかった。地動説よりは簡単に理解できた。

しかし観測技術が向上すると、天動説では説明できない観測事実がたくさん積みあがった。それを説明するために、直観的には分かりにくい、複雑すぎる説明がされるようになった。

一方で、地動説は、地球が動いているということを承認すれば、あとは単純で理解し易いものだった。

生命も天動説も、言葉の惰性に縛られて、科学が捻じ曲げられた例である。

自意識や自由意志がどうなるか。多分、生命観や地動説と同じようなコースをたどり、科学的に簡易で明確な答えが与えられるように思う。

簡易というのは、そのレベルまで人間の脳が発達しないといけないことも含んでいるが。

自由意志はない、あると思っているのは錯覚である、各人が明白に自由意志があると信じているだろうけれども、それが錯覚の結果であることは、自由意志が障害されたときに何が起こるか見ればよい。精神科医は毎日それを観察している。

それにしてもどのようなメカニズムがあるのだろう。

私は自分では「時間遅延理論」などと言っているが、もちろん、完全に納得しているわけでもない。数学に頼るのではなく、実際に自意識が破壊される様子を分析すると、このようにも考えられないかという提案である。

たとえば量子力学などひも理論などは人間の直観ではなかなか受け入れがたいのであるが、数学はひも理論を支持している。数学がこんなにも物理学を説明し予言するというのも真に驚きであるが。

ひも理論では、数学に関しても、やや無理ではないかと思われるような話が出てきて、これは天動説を必死で取り繕っているのと似た感じではないかとも感じられてしまう。ひも理論は天動説のようなものではないかと疑うのである。

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数学と物理と人間の脳の関係はすっきりと説明できそうではある。

中国の漢数字で数学を考えるのと、現在の世界のようにアラビア数字で数学を考えるのでは、数学の説得力にかなり違いが出る。和算でも中国の数学でも、非常に精密な理論はできていたのだけれど、微分や積分の段階になるとアラビア数字の優位さが決定的になると思う。もちろん、何か別の表記法が、別の数学的考え方にぴったりである場合もあるのだろうが、いまは思いつかない。

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中国で西洋的な科学が発展しなかったのはなぜかとの問いも面白い。

中国で科学が発展しなかったというのも怪しい話で、航海に使う羅針盤は中国発祥だし、花火もそうだ。印刷と紙も大きな発明だ。製鉄技術も進んでいたし、土木工事や建築、天文観測なども進んでいた。

しかし西洋的な科学定態度はどうか。西洋とは言っても、暗黒の中世を過ごして、錬金術とか、非科学的態度が強かったと思う。そうした中にも科学的態度の萌芽はあったものの。やはりギリシャからアラビア文明、そしてルネサンスにつながる伝承が重要なのだろうか。

西洋も、キリスト教だけが正しい、諸聖人だけが正しい、あるいは聖書だけが正しい、と言っているうちは権威主義であり、古典主義である。中国は清の時代までずっとそうだったかもしれない。中国は別段それ以上を求める必要もなかったのかもしれない。世界一に文明を誇っていたし、多もそれを追認していた。

西洋でアリストテレスが正しかったように、中国でも四書五経は正しかった。でも実験したら違うよという人が先に出たのが西洋なのだろうか。中国人は公式には四書五経的な態度でよいと感じていたのか。科学的とはどのような態度化が問題になる。

はっきりしないことや怪しいことは実験で決めようというのがまず科学の初歩的な精神だと思う。実験できないものも多いし、結果をゆがめる要因を取り除くとか考察することは容易ではないが、それでも、「権威ではなく実験で決めよう」の態度がよろしい。そしてその実験は、一回限りではいけない。「何度も実現可能」であること。さらに、いつでもどこでも誰でも可能であること。つまり、実験により、普遍的に同じ結果が得られる。このようにして事実が積み上げられてゆき、それらを一貫して説明する数学が登場する。

典型例がニュートンの運動方程式と微積分である。当時としては実は魔術の一部であったかもしれないくらい不思議なものであったが、なんと現実世界を見事に説明してしまった。それともこれは正しい理性の働きであったのか、微妙な感じはする。ニュートンは晩年は歴史の法則を見いだそうとして研究していたそうだけれども、それは成功しなかった。

中国で自然科学が遅れたのはなぜかという問題が昔からある。この場合の自然科学とは何かがいつも問題になる。中国にはいろんな発明はあったけれども、落下速度の実験とか振り子の実験とかみたいに、アリストテレスの言葉ではなく、実験で決めようという態度の発明は欠けていたのかもしれない。あまりに権威が強かったのかもしれない。あるいはあまりに豊かだったのかもしれない。あるいは、対人関係で疲労困憊して、科学的態度とか実験とかを考えている場合ではなかっただろう。

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