少し前のこのブログの中で、精神療法のいろいろな流派の統合について、考察した。https://sn0367129474.com/shinagawa4/2024/08/14/2413/
統合するというのは、簡単なようで複雑だ。
単純に、ポストが少なくなる。
目の前にいる患者さんに対して、この部分にはこの治療法がいい、あの部分にはこの治療法がいいと考えもする。
また治療の時期により、今はこれがいいが、もう少しして、ここに変化が見られたら、治療戦略としてはあの方法がいいとか。
皆さん考えることは同じで、
どんな場合に、どんな判断根拠で、どんな治療法を選択するのがベストであるか、という問題である。
この、どんな根拠でというところを深堀すると、また一流派の誕生ということになり、歴史は繰り返すことになる。
そうではなくて、各流派の良いところを生かしたらよいではないかという話。
例えば、フードコートみたいに、いろいろな食べ物を少しずつ食べられる、庶民のプレイランド。
歴史を勉強してきた人たちは、もう理論とか根拠とか、そんなことが大事なわけじゃないと考え、
治療者が知的に興奮していて何になるか、人の迷惑も考えろということになる。
たいそうなへ理屈はあるが、結局治せないんでしょうということだ。
治せないのにずいぶん威張るものではないか?
フロイトの場合は、理論として、精神医学以外の様々な分野に影響を与えた。しかしその後は、他分野から影響を受けるだけで、精神医学からの発信は少なかった。
そのあたりの難しい問題の一例は、精神分析学と認知療法の関係である。
精神分析と大雑把に言うが、たくさんの流派に分かれていて、有名人もいるし、個性的な人もいて、
さまざまである。内部では、精神分析家と自称してよい人を認証する制度を作ったりしていたが、
実際はいろいろな問題があった。
カトリック教会の内部問題と類似の部分があるのではないかと思うが、それはあまりに個人的な感想だから、ここでは詳述しない。
簡単に言うと、精神分析は当時、だんだん勢いがなくなっていた。患者さんにすればやたらお金と時間がかかるし、
一方でお医者さんは一部の人だけれども、やたらにお金が儲かるし、口がうまい人もいるし、やたらに衒学趣味の人もいるし、
長くなると、免罪符を売っていたカトリック教会と何が違うのかとの感想も出てくる。
そんな中で、アメリカの医療制度では民間保険会社が大きな役割を果たしていて、
診断は何、その根拠は何、治療法は何、期間はどれだけ、費用はどれだけ、検査はどれとどれがOK、
というあたりを、主治医に連絡して、保険会社として支払いが可能なのはいつまで、いくらまで、治療と検査の選択肢としてはどの範囲、と伝える。
それ以外は自費である。そもそも医療保険も医療費も高い。
そうなると、短期間で効果があることを客観的に証明することができる認知行動療法が、精神分析よりも優位な立場になった。
支払い側からすれば当然だともいえる。
そこで、精神分析の看板で治療していた人たちの、年上の人たちは、もう年だから、宗旨を変えるのもいい気がしない、このままでいくなどと言う。
若い人たちは、単純に将来の趨勢を読んで、認知行動療法がいいと思い、そちらで勉強する。
難しいのはその中間の年齢の治療者である。医師であれば、薬剤治療の大きな進歩に乗ればいいということもあった。
しかし医師でなければ、精神療法しかないのだし、ではどうするのか。
精神分析の勉強にはお金もかかるし、時間もかかる。やっとそれなりの仕事ができると思ったら、
民間保険会社からは、認知行動療法がいいと言われるし、困った。梯子は外された。
そこで精神分析の内部でも、短期で効果が証明できる方式はないかなどの動きもあったのかもしれない。
しかしそれ以上に魅力的だったのは、精神分析と認知行動療法の統合である。
単純にえば、精神分析は、山のように理屈はあって、他人を黙らせるような難解理論もある、ロマンチックな流派もある。しかし一向に治療成績は向上しない。
普通であれば、治らないなら廃れるのが道理であるが、治らないからほかに行くと言っても、ほかに行ってもどうせ治らないから、
あるいはまともに相手にされないから、精神分析に帰ってくる。だから精神分析としては、絶対に治す必要もなかったし
(これも違いますね、治せるなら治したいに違いないが、どうせ無理だった)、動きは鈍かった。逆に怪しい動きをする人は嫌われるのが、
こうした種類の人間集団の力動である。出ていくなら出ていけ言うわけだろう。
治らない病気を抱える金持ちがどれだけの数いるのか知らないが、どうしても下火にならざるを得ないだろう。
精神分析原理主義者の衰退。
そうこうしているうちに、16回で治療は終了しますと公言している認知行動療法が流行していった。
この時点で、CATのような形で、昔勉強した分析を生かしながら、認知行動療法の良いところを取り入れて統合すればよいと思った人は多かったと思う。
完全に統合するにはかなりの妥協が必要だが、何とかして生活費を確保して、生き残らなければならないだろう。
実際にはCBTでやるとして、理屈は分析でとか、そこまで妥協してもよいと思う人もいただろう。
このあたりは、精神分析の親分たちは子分の面倒見が少し悪かったような気がする。
偉い人たちは全く危機感なんかなかったと思う。それが人間の精神の構造というか、盲点というか、どうしようもなさというか。
ちょっと調べてみるとこんな感じだ。
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精神分析と認知行動療法の統合が広く成功しなかった理由には、いくつかの重要な事情や背景があります。これには、理論的な違い、臨床実践のアプローチ、そして学問的・文化的な要因が影響を与えています。
- 理論的な違い
精神分析: 精神分析はフロイトに端を発し、無意識の働き、幼少期の経験、そして心の深層にある葛藤を重視します。治療は長期にわたり、患者が無意識に隠している問題に焦点を当て、自由連想や夢分析などの技法を用います。
認知行動療法 (CBT): 認知行動療法は、現在の問題に焦点を当て、特に認知の歪みや行動の変化を目指す短期間の治療法です。CBTはエビデンスベースのアプローチを重視し、患者の思考パターンを修正し、適応的な行動を促すことを目的としています。
このように、精神分析とCBTは根本的に異なる理論的基盤を持っており、統合には相当の理論的調整が必要です。精神分析が無意識の働きと長期的治療を重視する一方、CBTは意識的な認知と短期的介入に焦点を当てているため、双方の理論を調和させるのは困難でした。 - 臨床的アプローチの違い
精神分析は長期的な治療を前提としており、治療者と患者の関係における転移や逆転移の問題に対処します。これは、患者が自身の内面を深く掘り下げ、長期間にわたって治療が進行するため、時間的にも費用的にも多くのリソースを必要とします。
一方で、CBTは短期間の治療を基本としており、患者が直面している問題を迅速かつ効率的に解決することを目的としています。この違いが、両者を統合しにくい理由の一つとなっています。 - エビデンスベースド・プラクティスの台頭
20世紀後半から21世紀にかけて、エビデンスベースド・プラクティスの重要性が増し、CBTが科学的研究において強固な証拠を持つ治療法として広く認識されるようになりました。保険制度や医療政策も、短期間で成果を上げやすいCBTを支持するようになり、その結果、精神分析は次第に周辺化されていきました。
エビデンスベースの治療法が支持されることで、精神分析の理論に基づく治療法は効果の測定が難しいと見なされ、認知行動療法の方が医療現場で採用される機会が増えました。 - 文化的および経済的要因
西洋社会において、効率と結果が求められる傾向が強まる中で、短期間で効果を発揮するCBTが広く受け入れられるようになりました。また、治療にかかる時間や費用の面でも、精神分析に比べてCBTの方が一般の患者にとって魅力的であったことも、精神分析が廃れていった一因です。 - 専門家コミュニティ内の分裂
精神分析と認知行動療法の専門家コミュニティは、長い間別々に発展してきました。各陣営がそれぞれのアプローチを支持し、時には競合的な関係にあったため、統合への試みが十分に進展しなかった側面もあります。
結論
CATのような統合的アプローチは、両者の利点を活かす可能性がありましたが、上記のような複数の要因が重なり、その普及は限定的なものとなりました。それぞれのアプローチが異なる理論的背景、臨床的手法、そして文化的・経済的な要因によって形成されており、その違いを埋めることができなかったのが、統合がうまく進まなかった主な理由です。
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こんな解説も繰り返しが多くて困ったものだし、理論的な違いに関しても、理論Aと理論Bがあって、それはどちらも病気Xについてのものであるというなら、理論の違いを調和させることができないなと度ということはないはずだろう。
お互いが愚かであったが、精神分析側が妥協して、CBTのテクニックを取り入れるしか道はなかったと思う。
CATにかかわった人の文章を読むと、その人は最初は精神分析を学んだ。感銘を行けた。そしてその後、CBTを学ぶ機会があった。これも素晴らしいもので、感動した。
それならば、二つの良いところを抽出して、時代の要請に応じた精神療法ができないかと考えた。
大変もっともなことであると思う。しかし現実には小さな波に終わったと思う、実際、その後の精神療法の教科書では、精神分析学と認知療法、それと統合型精神療法の章はあるものの、精神分析とCBTとの統合を論じた項目はない。二者の統合で努力した人の紹介はないし、人物索引にも載っていない。