失クオリア症

これは私が自分勝手に作った病名で、ほとんどだれにも通じないと思うが、
逆に、通じる人には何も説明しないでも通じるので便利だと思う。
つまり、誤解が少ない。

失クオリア症は、ややこしいのだが、失クオリアが、人間存在の原初の姿である。
ある日突然変異が起こって、遺伝で次々にクオリア症にかかった。
今ではクオリア症が「普通」になったので、失クオリア症が今度は病気と認定されたり、自認したりすることになった。

どのくらいきついのかといえば、死んだほうがましだと言って、自殺する人もいるくらい、つらいもののようだ。
軽度の人は、社会生活に支障のないように仮面をつけて生活している。違和感はあるが、愚痴を言ってもしょうがない。
知能も高いし、運動能力もあるし、一般の人に何か劣るわけではない。
ただ、クオリアが、ない。

なくても生きていけるものがないといって何がそんなに苦しいのか?
なくても生きていけるけれども、クオリアがないと、生きている理由もなくなってゆくのだ。
生きる積極的な理由もないけれども、とりあえず、今日を生きる、それだけで毎日は過ぎてゆく。

失クオリア症になったときには、最初のころは、クオリアの感覚の名残があるので、
自分の異常に気が付く。
そして、誰にも言わなければ、絶対に気づかれない。完全仮面生活ができる。
そして日にちが経つと、失クオリアという事態のクオリアが失われる。
言い換えればメタ・クオリアが失われてゆくので、つらさは減弱する。
しかしそれは固定したものではなくて、双極性障害のように波の性質があって、
自分は失クオリアだというクオリアが再度訪れた時に絶望的になる。

例えで考えると、例えば、右手の小指の触角が失われたとする。
最初はいろいろなところにぶつけて晴れたりして困る。痛みは感じないから、ずっとぶつけ続ける。
しかしだんだんこつを呑み込んで、小指を意識的に守るような生活が身につき、
自分も意識しないし、他人意にも意識されずに過ごしている。

性的不感症でもいい。それだからといって生命の危機があるわけではないが、
一体、生きるとはどういうことなのだろうかと思ってしまうだろう。

失クオリア症は小指の失感覚でもないし性的不感症でもないし、
もっと大事な何かが欠けているのだが、
現代人の生活スタイルは、失クオリア症に便利なようにできているので、
不便もあまりない。
世界のすべては、pcの画面内のことのように小さくて解像度が悪くて音も悪くて生々しさがなくて実感のないものになる。
しかし、赤信号で止まることはできるので、困らない。ただ、赤の実感。赤らしさの感覚はない。

伝わらない?
そうだ。原理的に、他人に伝えることはできない。
ただ比喩的に、文学的に表現できるだけで、
言っている人も、聞いている人も、話していることの内容がなんなのかは確かめようがない。
ただ直感的に、自分と同じなんだろうと思って話を進める。
みんなが自分の内部の感覚だけを信じて(それしか信じようがないから仕方がないのだけれども)、
それを粗雑に単にの精神にも延長して、反省もない。恥じることもない。

そして、失クオリア症の人は泣いたりもする。
しかし悲しいとは何かが実感としてわからない。
社会人として、「共感」はできるし、了解も理解もできるが、それは社会人として学習したものである。
学習の結果でしかない。
思い出したが、だからこそ、広い世界で、どこででも、まあ何とか適応できるのだそうだ。
自分の内部感覚にこだわらない。違うよと言われれば、半面する余地はない。ただ合わせるしかない。
結果として、世界のどこに行っても、しばらくすれば適応できる。
快感もないから不快もない。

シゾフレニーでもないし、その部分症状として出ることはあっても、本質的に関係があるかどうかは分からない。
バイポーラーも同じ。伴うこともあるが、関係は分からない。
パニック障害などの場合や、人格障害の場合もあるが、どのように関係しているかは分からない。
離人症や現実感消失症は教科書に載っているが、
失クオリア症と似てはいるが、異同を確認しようもない。

外部から観察して分かるものではない。
しかし内部感覚をどのように表現するかは、人の勝手なので、それを頼りに何か診断したりするのも考えものだ。
「ああ、この人は、あの人と同じことを言っているな」と確認することはできるが、
それ以上のことを言っても仕方がない。

似たようにことを言っている人はいるが、本当に似ているのか、あるいは同じような本を読んで、
そう思い込んでいるのか、判別もできない。また、判別したとしても、現状では何の利益もない。
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