Anthony Ryle
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アンソニー・ライル(1927年3月2日 – 2016年9月29日)[ 1 ] [ 2 ]は、イギリスの医師。オックスフォード大学とユニバーシティ・カレッジ病院で学び、1949年に医学の資格を取得した。北ロンドンで開業医として働き、その後サセックス大学保健サービスの責任者となり、後に1983年から1992年までロンドンのセント・トーマス病院で顧問心理療法士として働いた。開業医として働いている間、彼は多くの患者が心理的な問題や苦痛を抱えていることに気づき、疫学的研究によってそれを確認した。彼は心理療法に興味を持ち、後に国民保健サービスで提供できる時間制限のある療法を開発した。このタイプの療法は認知分析療法として知られている。[ 3 ] 1960年代に彼は妻と4人の子供とともにイースト・サセックス州ルイス郊外のキングストンに移住した。
ライルは2016年9月29日に89歳で亡くなった。トニーの遺族には、2番目の妻フローラ・ナタポフと2人の継子サーシャとサム、離婚に終わったローズマリー(旧姓ラングスタッフ)との最初の結婚で生まれた4人の子供マーティン、シム、コンラッド、ミリアム、そして9人の孫と4人のひ孫がいる。[ 4 ] [ 5 ]
若いころ
アンソニー・ライルはブライトンで、ジョン・アルフレッド・ライル教授とミリアム(旧姓スカリー)・ライルの息子として生まれた。彼はオックスフォード大学哲学教授ギルバート・ライルの甥であった。彼には兄弟が何人かおり、一人はノーベル賞を受賞した天体物理学者のマーティン・ライルで、もう一人の兄弟のジョンも医者であった。彼はノーフォークのグレシャム・スクールからオックスフォード大学とユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに進み、1949年に医学の資格を取得した。彼は生涯の社会主義者として熱烈に支持したNHS発足直後に、ロンドン北部のケンティッシュ・タウンで革新的なキャバーシャム・グループ診療所を共同設立した。彼の政治的関心と非順応主義は、モデルとCATコミュニティに今も浸透している社会的責任感に貢献した。[ 6 ]
10代の頃、彼は有名な哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが彼の父親の家に滞在していた際に、彼と何度か会ったこともあった。[ 7 ]
出版物
章
批判的に関与する CBT: CAT からの視点。批判的に関与する CBTの第 3 章。Del Loewenthal および Richard House (編)。McGraw-Hill: Open University Press (2010)
書籍
Ryle, A. (1990) 認知分析療法:変化への積極的な参加。チチェスター:John Wiley & Sons。
(1995) CATに関する研究。認知分析療法:理論と実践の発展(A. Ryle編)、pp. 174-189。チチェスター:John Wiley&Sons。
(1997) 境界性人格障害に対する認知分析療法:モデルと方法。チチェスター:John Wiley & Sons。
(2014) 『Diary from the Edge – 1940-1944: A Wartime Adolescence』 ロンドン: The Hedge Press。
記事
(1991)「対象関係理論と活動理論:手続き的シーケンスモデルによるリンクの提案」British Journal of Medical Psychology、64、307-316。
(1992)「クラインの症例提示に対する批判」British Journal of Medical Psychology、65、309-317。
(1993)「死の本能への依存?ジョセフの論文『臨死への依存』の批判的レビュー」 British Journal of Psychotherapy、10、88-92。
(1994 a)「投影的同一視:相互役割手順の特定の形式」British Journal of Medical Psychology、67、107-114。
(1994 b)「説得か教育か:CATにおける再定式化の役割」。国際短期心理療法ジャーナル、9、111-118。
(1995)「防衛組織か共謀的解釈か? クライン理論と実践のさらなる批判」British Journal of Psychotherapy、12、60-68。
(1996)「オグデンの自閉症隣接的立場と分析理論構築における解釈の役割」英国医学心理学ジャーナル、69、129-138。
(1998)「転移と逆転移:認知分析療法の観点」British Journal of Psychotherapy、14、303-309。
参考文献
ライル、アンソニー(2014)。『Diary from the Edge』。ザ・ヘッジ・プレス。pp. 27、92、154、230。
Loewenthal, Del; House, Richard, eds. (2010). Critically engagement CBT (PDF) . McGraw-Hill, Open University Press. p. x . 2012年2月25日閲覧。
タリス、フランク(1998年7月1日)。心を変える:人間の苦しみに対する答えとしての心理療法の歴史。カセル。p.160。ISBN 978-0-304-70362-3. 2012年2月23日閲覧。
Van Baars, Susan (2016年9月30日). 「トニー・ライル博士」。認知分析療法協会。 2016年10月4日閲覧。
Kerr, Ian B. (2016年11月15日). 「アンソニー・ライル死亡記事」 .ガーディアン. 2016年11月16日閲覧。
Kerr, Ian B. (2016年11月15日). 「アンソニー・ライル死亡記事」 .ガーディアン. 2016年11月16日閲覧。
モンク、レイ(1990)。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン:天才の義務。ペンギン。
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この人はだいたい1990年から2000年くらいに論文や著作を発表している。
実際の臨床としては「NHS発足直後に、ロンドン北部のケンティッシュ・タウンで革新的なキャバーシャム・グループ診療所を共同設立した」「国民保健サービスで提供できる時間制限のある療法を開発した」とあるように、イギリスの国民保健サービスの範囲内で可能な精神療法を実践して教育した。
1990年から1995年にかけての時期は、精神分析の流れも停滞期に入り、代わって、行動療法や認知療法など、また対人関係療法などの、哲学的ではない系統の、あるいは哲学系に興味を持たれない系統の、治療法が盛んになった時期だと思う。エビデンスとブリーフ・サイコセラピーの時代である。国民保健サービスの仕組みに沿って精神療法を普及させるには、コメディカルを教育して、本流の精神分析ほど難解ではない程度の、実践的な精神療法が求められた。
行動療法、認知療法、対人関係療法、そして認知行動療法などは、そのような流れのもので、知的な刺激には欠けるが、精神療法が必要な人々に少しでも役立つようにという関心で始まっていると思う。
「科学の進歩によって宗教の古い確信が疑問視されている世界では、心理療法は苦しみに対する世俗的な対応である」(フランク・タリス『Changing Minds』)といった考えが底流にあると思う。
精神分析は「宗教に対する古い確信」の態度を引きずるような面があり、それ自身が古い宗教のような趣を呈していて、「疑問視されている」のだが、現代社会で「苦しみに対する世俗的な対応」としての精神療法が求められているのは確かなことで、その際には、「世俗的」で十分なのであって、たとえば資格要件などは大幅に緩和して、例えば、認知行動療法の分野では、療法士を大量に短期間で安価に育成しようとしている。
精神療法というもののイメージも、アメリカ東海岸と西海岸では随分と違いもある。世界を見渡すとさらに多様である。
昔、ICDの世界会議のようなものがあって参加したのだが、各地域で習慣として当然のように、あるいは神聖とみなされている事柄が、欧米流の精神医学的見解では病気として分類されてしまう問題がある。それぞれの伝統の中で個々人のある種の傾向が生かされていることがあり、それを病気として認定するのは何となく問題もあるように思われた。分かりやすいところで言えば、シャーマンの伝統は各地に根付いていて、沖縄のユタなどが有名で、また沖縄にはノロと呼ばれる人もいると記事には出ている、さらに恐山ではイタコが有名である。そのような人たちは、ある種の民間治療者であるともいえる。例えば、亡くなった人が、残された人たちへの言葉を、シャーマンの口を通して語り、残された人たちは涙を流してありがたいものとして聞いて、癒される。
そのような営みと、精神分析学は、ベクトルの向きは違うが、結局隣り合わせに存在しているのだと思う。
最近少しきっかけがあって、昔の精神療法の教科書などを読み直していて、昔のものなので、ルボルスキーが精神分析学の項目を執筆、認知療法はベックが書いていたり、いろいろな分野で、そもそもの創始者とか、第一人者が書いていて、おもしろいものだった。ルボルスキー、ベックのほかにも個人的にはContemplationとかintegralとかの項目が面白かった。いまユングを読み進めているが、相当に毒は濃いようで、ゆっくりしか進まない。
精神療法の分野で統合と言えば、いろいろあるとは言っても、フロイト以来の精神分析学が大きな柱であることには異論がないだろう。
私の周囲では、精神分析学の業績は認めるが、同じ内容のことを、もっと平易な言葉で言えるし、簡単な理屈で説明ができる、との意見が多い。
そこで、統合と言えば、昔のそのまた昔は、精神分析学と行動療法の統合などできたらいいのにねとかの話もあったが、当然実現することはなく、精神療法の大衆化の流れの中で、精神分析学は少し取り残された感じがあったと思う。
その後の精神療法のトピックスとしては、PTSD問題があった。何しろ、シゾフレニーのいくつかの症状までもが、PTSDのメカニズムで解釈できるというので、精神薬理学や脳機能解剖学に対抗できる、画期的なものだった。ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』は、中井久夫翻訳ということもあってか、非常に説得力があった。ここまでは良かった。
しかし、子供時代の心の傷を求めすぎて、性的虐待について、不確実な記憶が語られたりして、精神療法としては色々な問題が露呈した。
だから、昔にさかのぼる精神療法は、あまり信用できないのではないかとの考えにもなり、ちょうどエビデンスを尊重する流れもあって、短期間で効果を実証できないとアメリカの保険会社はお金を出しませんという現実もあって、精神療法は世間的には少し苦しい立場になったと思う。
当然、SSRIの登場は大きなインパクトだった。何でもかんでもセロトニンとかレセプターと言い始めた。以前なら精神分析家と名乗っていたところを、みんな脳科学者と名乗るようになった。
さらに最近では、小児精神医学の分野でいろいろがあって、日本人も多くの人が留学していたタビストックでも、問題が起こったりしている。まだ進行中の問題なのでどう解説していいかも、当面は分からない。
そんな中で、精神分析学と、ブリーフ・サイコセラピーの統合はやはり誰でも考えることだったはずだ。行動療法は確かに納得しやすいもので、学生はストップウォッチを常時首にぶら下げていた。認知療法と行動療法はうまく統合されて、認知行動療法と名乗るようになった。やればできるのである。
なぜ、Cognitive-Analytic-TherapyはCBT(Cognitive-Behavioural-Therapy)ほど成功しなかったのだろう。Behavioural-TherapyよりはAnalytic-Therapyのほうが知的蓄積も人材も巨大だったと思うのだが。むしろ、蓄積の大きさが重荷になったということか。身軽になって、庶民的になれなかった。いや充分庶民的になったが、なぜだか嫌われた。
そんな感じで懐古的にCAT(Cognitive-Analytic-Therapy)のことを思い出し、手元にある関係の本を再度眺めてみている。Ryleの本が何冊かあった。感想としては、こんな素人臭いこと(それがいいところでもあるのだが)をしていたら、それは拡大はしないだろうと納得できたということだ。もう30年も経過しているので、そう言ってもかまわないと思うのだけれども。
『臨床心理学に関する最高の本』(スーザン・ルウェリン)という記事の中で、推薦 2番目に「認知分析療法入門:原理と実践」アンソニー・ライル&イアン・B・カー著と出ていたので、今回、本棚から取り出してみた。
精神療法の中にも、格調高い部類のものもあって、それはそれでいいのだけれども、人々に広く受け入れられるには、簡単で分かりやすいという要素も大事である。認知療法と行動療法は同じくらい簡単で、統合されても、簡単だった。分析療法は格調高いものから親しみやすいものまで、幅が広かった。親しみやすい流派と、認知療法が統合されれば、うまくいくと思ったけれども、うまくいかなかった。
多分、精神分析はある程度知的な興奮を与えるものであるが、それにはある程度の勉強が必要で、誰でも知的に満足するというものではない。現実には、知的にあまり高度ではない、実践的な部分の精神分析と認知療法が統合されてCATとなったと思うが、それでは、精神分析の知的な部分が満たされなかったということではないか。
そして、知的な部分と知的でない部分を仮に、精神分析の高度な部門とフレンドリーな部分と言い換えると、フレンドリー分析と認知療法が統合されてCAT(認知分析療法)と名乗ったが、今一つ人気が出なかった。フレンドリーな部分はすでに認知療法とか行動療法、他対人関係療法などが占拠していて、フレンドリー分析は、今一つ、分析的ではなかったという印象である。
CATの道具立ては実際、現代的ではない。幅広くフレンドリーなものではあるのだろうけれども、知的興奮を呼び起こさない。そして、幅広くフレンドリーであろうとするなら、分析的味わいは良くなかったということなのだろう。
嫌しかし、CBTはこんなにも拡大しているのだら、同じような道具立てのCATも悪くはなかったはずでけれども、CBTがあるなら、CATは必要ないということなのかもしれない。
こうしてみると、精神分析学という看板で活動しているが、実際のところはそんな看板も、専門用語も必要ではなく、常識的に考えればそれでいいのかもしれない。
脳が脳を理解するとは、という、原理的な謎があるような気もするが、そんなことも含めて、素朴に考えればいいのかもしれない。脳が脳を理解するとき、情報圧縮とか省略が起こっているのだろうと思う。ただそれだけのことで、それ以上のことでもないような気がする。熱力学を考えるようなものかもしれない。