翻訳について

・翻訳の場合に言われることとして、直訳と意訳があります。
・昔の粗悪なやや学術的な本の場合、意味の分からない直訳をしていて、しかも、もっと分からないところは省略したりしていたものだ。翻訳文化の劣悪さの一例である。
・たとえば、『失われし自己をもとめて』ロロ・メイという翻訳本があって、原著1953、いまは改訳版が出ているので、そんなこともないのだが、昔の翻訳は相当にひどいものだった。
・もともとは、原本である『Man’s search for himself』が手元にあったので、少し読んでみた。よく分からないところがあるので、翻訳が出ているなら、参照しようと思って調べた。すると、私の分からないところは、ほぼすべて、省略されていた。そして、残ったところを日本語で読んでも、意味は漠然としか分からない。そもそも書物のタイトルのつけ方に、この本の作成者たちのこころが現れていると思える。
・自分の理解力の不足を棚に上げて言うのは申し訳ないが、英語の文章はあるのに該当する日本語がない。これはひどいだろう。省略したほうが意味が明確になるというならいいが、そんなわけでもない。
・一部の翻訳は、翻訳家が一般読者に読んでほしいもののほかに、大学の教師が授業で使い、何年かして、読むことが年中行事となり、そうすると大学院生や時には学部学生まで動員して下訳を担当させて、それを教授がまとめるか、出版社の編集者がまとめるか、などをすることもあるらしいと聞いたことがある。実際に見たことはないのだが。
・逆に、自分が英文で読んで分からないところを既存の翻訳出版物で調べて、疑問は解決され、ついでに英文と翻訳文を見比べてみて、意味は良く伝わり、日本語としてもよく工夫され、さすが翻訳家は素晴らしいと思ったこともある。『ソフィーの選択』ウィリアム・スタイロンなどがその例で、大浦暁生の翻訳。

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・そんな中で、思うのであるが、通常、英文は、日本語に翻訳するために読むのではなく、意味を理解するために読むわけだ。そして、それを翻訳するということは、元の英語を伝えるために読むのではなく、英語が言おうとしていること、たとえば人物や事件や思想を伝えるために日本語を書く。それが意訳である。英語が知りたいのではなく、その意味内容が知りたいのだから、正確な意訳があれば、そのほうがいい。

図1 英語から事柄に、そして事柄から日本語に1.これがよい翻訳。英語に縛られない。事柄に忠実。

・翻訳を読むときは、英語を意識することなく、日本語から事柄やイメージに行きつく。それで終了。

・英語を読んで、たとえば映画の場面のように、原著者の書きたいことが映像やイメージになる。それを表現するための最適に日本語を書く。
・こう考えると、英語と日本語の対応なんて、まるでないのだ。英語から、実在を感じ取り、それを日本語にしているのであるから、英語と日本語は実在を迂回してつながっているだけで、関係は切れているのだ。

・現前にある実在を英語で言えばこう、日本語で言えばこう、というのがあるだけで、英語から日本語への直接の経路などはないのである。

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・最近は、その英文文章の内容に私が完全に賛成しているわけでもなく、それでも、一応紹介するために翻訳するという場面もある。その場合に、意味不明の部分については、私が無理解のまま、未熟な日本語に変換よりは、英語をそのまま置いてもよいし、あるいは、この英語のことかなと容易に推定できる日本語を置くこともよいのではないかと思っている。少なくとも、翻訳者としては理解が届かないので、読者が分かるならわかってほしい、そのために、英語の文章を推定できるようにしておく、あるいは英文そのものを置く、それでよい。それで分かる人は分かる。分からない人は未熟な翻訳者の考えで誤った方向に誘導されてもよくないだろう。

図2 日本語から英語を想起する場合。そして想起された英語から、ことがらを知る。やや粗雑な翻訳でははこのようになるが、さらに粗雑な翻訳の場合は、それもできない。

・こちらの考え方は、コンピュータによる機械翻訳などに近い。コンピュータは英文から、何かのイメージを形成するのではない。「イメージを形成する」に相当する演算はあるだろうが、それは相当するというだけだ。英語の並びから日本語が生成されている。それでね相当よい日本語になっているので、英語→ものごと→日本語 の考えが正しいとも言い切れず、英語→日本語 でもいい翻訳ができるのかもしれない。

・英文に間違いがあったときに、それを訂正してしまってよいのかという問題はある。本来は原著者に問い合わせるべきである。

図3 英語から直接日本語に。イメージや事柄は日本語から構成される。人工知能はこれをやって、十分正確に日本語を生成する。人間のやっている初歩的な英文翻訳もこんな感じなのだろう。

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文章は、書いている本人もよく分からないこともあるのだろう。
その中には天才の作品もあるのだろう。人間離れしている。これも本人はよく分かっていないが、結果として傑作ということもありそうだ。
さらに編集者が関与する。編集者のおかげで、ある程度の水準は保たれるが、編集者は一般には天才のきらめきは理解できない。そこで才能の開花を阻んでいることもあるだろうと思う。

翻訳にはさらに複雑な事情が重なる。翻訳者にはほからないが、原著者にはわかっていることであれば、翻訳者は誤解を翻訳するしかない。ではそうしないためには、翻訳者は自分が理解できない部分は、そのまま翻訳しないで残しておいて、読者が英文を読んで判断すればよいだろう。

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ほかに、翻訳に関して言われることとしては、原著者の発想の順番を大事にして、塊で翻訳するという手法がある。これはわたしは割と好きで、しばしば実践している。同時通訳のようなもので、意味の塊ごとに日本語にして、そうした塊同士の関係については、自然に分かるでしょうというくらいでもよい。

確かに、しゃべった順番に訳してゆくのは理にかなっているように思う。

I go to the school which my uncle went to 40years ago.

おじが40年前に通っていた学校に、私は通っている。でもいいが、

私が通っている学校は、おじが40年前に通った学校だ。

というように訳すと、塊で訳してる感じになる。

頭に浮かんだことを、順番に日本語にしていけば、合理的ではないだろうか。

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機械翻訳だと、CATは本当はCognitive-Analytic-Therapyであるが、普通名詞としては『猫』なので、時々猫と翻訳されている。それで意味が通じるはずはないのだけれども、人工知能内部の演算の結果としては問題ないらしく、何度も『猫』と翻訳される。

ずっと以前、ある電気関係のメーカーの研究所のようなところに勤める人が、過労だというので話を聞いたところ、その人は、『mouse』というのが、コンピュータで使う装置だと知らなかったようで、調べてても、『ねずみ』としか出てこない。「わかるわけないじゃないですか!」と怒っていた。非常に極端な例だけれども、CATを「猫』と訳し、ポイントデバイスとしてのマウスを「ねずみ」と訳すのも、まあ大目に見ればいいわけだし、「訳が分からん」などという人は、最初から何もわかっていないのであって、だいたいの流れがつかめている人なら、「猫」といえば何のことかわかるし、「ネズミ」といえば何のことかわかるので、問題はない。

 こんな場合に、マウスを日本語に訳す必要はないのであって、知らない人はそれでいいのだと思う。それを知っている人が、次の段階に進むための文章だと思うからだ。

今後も、最先端部分や最古部分ではそんなことは起こると思うし、にやにやして穏やかにしているのがいいと思う。ネズミ型ポインティングデバイスなどと言うのも、無駄なところにエネルギーを使っている感じがする。

デプレッションなどもそんな言葉で、うつと翻訳すれば、そんなにいつも使う言葉ではない。しかし英語でdepressinといえば、広く使われるし、理解される言葉であって、そこの違いはある。シゾフレニーは、日本語訳を変更したのだけれど、先進諸国ではずっとシゾフレニーであって、日本だけ何か変な感じだ。古い文献の検索とか、統計処理とかで面倒なような感じもする。

今後は面倒な長い書類があったら、AIに、「これを5分くらいの映像にして」とかで処理できそうだ。英語とかドイツ語では特に、速読しにくいので、要約が役立つし、今後は図にするとか映像にするとかが有効な感じがする。

そうなると、抽象的思考が減少するだろう。それはそれで興味深い。具体的思考はいいものだ。

また、シナリオライターが何か書いて、それを映像化してテストすることが容易にできる。音楽はなおさらで、鼻歌で歌って見せて、それを楽譜に変換させて、さらにそれを編曲させて、面白いことが出来そうだ。鼻歌さえ要らなくて、この言葉を歌にしてと言えば、うまくやってくれそうだ。

言葉から音楽にというのも、言葉から映像にというのも、広く考えると翻訳の一種である。

英語からいったん映像に翻訳して、その映像を日本語に翻訳することで、ずっとわかりやすい日本語になりそうだ。

昔の英語はやっぱり読みにくい。ブンガクじゃないんだから、論文に標準的な言葉づかいでいいのに。

言葉は、その意味が分かる人と分からない人を分断する効果を持っている。衒学的な言葉も使うし、その領域での方言のような言葉も使う。それによって、内部者と外部者をより分けたりする。

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