素朴唯物論でいう実在をxとする。
人間は感覚器が限定されているので、xの真の姿には到達できない。
そこで、人間がとらえることができる範囲でのxをyと呼んで、実在xに対して、現象と呼ぶ。
xは人間の観察に拠ることなく、独自に存在して運動している。
そこのところの詳細は分からない。一応、分からない。しかし、大体はyで推定して、xも似たようなものだろうとみなしても、人間が感覚して観測している限り、問題はない。どうせxはyにしか見えないのだから、yについての法則を論じれば十分である。(ここでいう観測は、量子力学的話題のある観測ではない。単純素朴に、観測である。しかしいろいろなことを言う人はいるもので、月が空にあるけれども、人間が見ていない間に、月がどうなっているか、誰も知らないではないかなどと言う。些細なことであるようだが、まあ、それもそうなのだ。ついでに、月と太陽の視野角が5度でちょうど同じなので、日食の時などはぴったり重なる。これには何か物理的な理由がありそうだけれども、最近読んだ本によれば、偶然なのだろうだ。そして、月の裏側がずっと地球からは見えないままであるのも、偶然なのだろうだ。そんな話を聞くと、私の、偏見に満ちた感覚は、偶然などと言うはずはない、何か理由があるのではないかと、圧倒的に疑ってしまうが、皆さんはいかがだろうか。三体問題などで話題になるが、月と太陽の視野角が一致しているなど、とんでもない話で、偶然であるはずがないではないかと、第一感では思う。)
xとyの関係を比喩的に言えば、色付きと、白黒の違いである。我々の知っている世界は色付きだけれども、白黒写真の中では白黒になる。色つきのヒマワリはxであり、それを白黒写真で撮影した時はyになる。人間にはyしか知りえないのだから、物理法則を論じるときも、yのふるまいについて論じることになる。しかしここで、xとyの関係を規定しているのは、xの側の問題ではなく、観察者である人間の感覚と情報処理の特性である。
また例えば、空を雲が動いていくとして、雲の影は地面に二次元のものとして観察される。三次元のxが二次元のyになって観察されている。我々が五感をフルに動員して調べたとしても、せいぜい五感の範囲であって、それは白黒写真であり、地上を動く雲の影である。Xそのものを知ることはできない。
なぜこんなことを言うかといえば、神の問題があるからだ。キリスト教の人たちは、とても理知的な人でも、やはり神の問題をうまく処理する必要があった。そこで、神は、人間の五感と理性と感覚では把握できない次元の何かであると不可知論を展開した。ヒュームなどが有名である。引用すると、
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不可知論(ふかちろん)は、哲学において、ある事柄の真偽を確実には知ることができない、あるいは知ることは不可能であるとする立場です。特に、神の存在や宇宙の起源など、経験的に検証が困難な問題に対して、肯定も否定もできないというスタンスが特徴的です。
不可知論の誕生と発展
不可知論の概念は、18世紀のスコットランドの哲学者、デイヴィッド・ヒュームによって明確に打ち出されました。ヒュームは、人間の知覚や経験に基づいて得られる知識には限界があり、因果関係や神の存在といった概念は、経験を超えたものであり、確実な知識として捉えることはできないと主張しました。
ヒュームの思想は、後の哲学者たちに大きな影響を与え、不可知論は哲学の主要な立場の一つとして確立されました。19世紀には、イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルも不可知論を支持し、宗教や形而上学的な問題に対して懐疑的な態度を示しました。
不可知論の主な論点
不可知論は、様々な論点を含みますが、代表的なものとして以下のようなものが挙げられます。
- 神の存在: 不可知論者は、神の存在を証明する決定的な証拠がないため、神の存在を信じることも否定することもできないと主張します。
- 宇宙の起源: 宇宙の起源についても、科学的な知見が日々更新されているものの、宇宙がどのように始まったのか、その根源的な問いに対する答えは、まだ完全には解明されていないとされます。
- 人間の心: 意識や心の働きは、科学的に解明されていない部分が多く、人間の心の本質を完全に理解することは不可能であると考える人もいます。
- 道徳の根源: 道徳的な価値観は、どこから来るのか、その根源は何かという問いに対して、不可知論者は、客観的な答えを見つけることは困難であるとします。
不可知論の類型
不可知論は、その立場によって様々な類型に分類することができます。
- 絶対的不可知論: ある事柄の真偽を、原理的に知ることは不可能であると主張する立場です。
- 相対的不可知論: 現時点では、ある事柄の真偽を確実には知ることができないが、将来、より確かな知識が得られる可能性はあると考える立場です。
- 実践的不可知論: ある事柄の真偽を論じることよりも、現実的な問題解決に焦点を当てるべきであると主張する立場です。
不可知論の意義と批判
不可知論は、人間の知の限界を認識し、妄信を避ける上で重要な役割を果たします。また、宗教やイデオロギーに対する批判的な視点をもたらし、多様な価値観を尊重する社会の実現に貢献してきました。
一方で、不可知論は、以下のような批判も受けています。
- 懐疑主義への傾倒: 不可知論は、すべての事柄に対して懐疑的な態度を取るため、知識の追求を阻害する可能性がある。
- 無意味論への陥り: 不可知論は、人生の目的や意味を見つけることを困難にし、絶望感や無力感をもたらす可能性がある。
- 科学との対立: 不可知論は、科学的な探求を否定するものではなく、むしろ科学の限界を認識することを促すものである。
不可知論と現代社会
現代社会において、不可知論は、科学技術の発展やグローバル化に伴い、ますます重要性を増しています。宗教や伝統的な価値観が相対化される中で、不可知論は、多様な価値観を尊重し、共存していくための重要な考え方となっています。
まとめ
不可知論は、人間の知の限界を認識し、妄信を避ける上で重要な考え方です。しかし、すべての事柄に対して懐疑的な態度を取るのではなく、科学的な探求を尊重しつつ、多様な価値観を認め合うことが重要です。不可知論は、現代社会において、より良い社会を築くためのヒントを与えてくれるかもしれません。
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といった具合である。
我々が感覚して測定して論じることができるのはyなのである。
それはつまり、われわれの五感と脳が制約されているからだ。
では、どのように制約されているか調べたくなる。
それが現象学である。
現象学的還元は、まったく不思議な力により、yからxを知ることである。(当然、無理でしょうね。)
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寄り道になるが、作曲家と楽譜と演奏家と聴衆を考えてみる。
この場合、真の実在は作曲家の内面にイメージである。
楽譜は、それを思い出すためのメモである。
だからそこには解釈の余地が生まれる。
たとえば、楽譜の通りにシンセサイザーで演奏するという発想もあるだろうが、
それはあまり面白いこととはとらえられていない。
いまだに、フルトヴェングラーの指揮するベルリンフィルのベートーベンが、
もっともベートーベンの内面に近いのではないかといわれたりする。
楽譜の奥にある、ベートーベンの心の中のイメージに迫る必要があるというのである。
丸山真男は学問そっちのけでブラームスの楽譜を読み込んでいたそうで、枕頭の書は長くブラームスの楽譜であったとの話もある。その時間を少しでも学問方面に向けてくれていたら、後の日本にどんなにプラスになっただろうと嘆く人もいる。
彼にとって演奏家は邪魔だったのかもしれない。
一般には聴衆は演奏家の演奏を通して作品を知る。演奏と楽譜の差を知ることはできるが、楽譜と作曲者の内面のイメージの差を知ることは難しい。勝手に想像することはできるが、それは個人の「偏見と先入観」の入り混じった想像でしかないだろう。
また、作曲家の心の中に形成されるものは、何かという問題もある。時間的要素を伴い、鼻歌で歌えるものなのか、そうではなくて、楽譜の形で一挙に現れて、時間性がないものであるかもしれない。
xは作曲者の心に宿ったものと言えるかもしれないが、楽譜、演奏家、演奏、聴衆と並べると、演奏されて音になって、それを聞く体験がyにあたる。すると、xとyの間にはこれだけの距離がある。xとyの間には楽譜と演奏家が介在して、話がややこしくなっている。しかし実際は、音楽以外の領域で、物事のxを知りたいと思ってyを研究する場合にも似たようなことが起こっている。
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さて、精神現象について調べてみる。
すると、精神現象そのものはxに属するはずであり、それを観察してカルテに書いたりしているのがyに属するはずである。
xが自分について語る時、自己観察のプロセスで、yが登場していて、ということは、患者の語ることは、xについて観察した結果のyを語っているということで、それをさらにいったんxとみなして、それをy化してカルテに書いているのであって、それは、患者本人が自分の内面xを観察してy化していて、そしてさらにそれを医者がy化しているということになる。xにy化が二回施されたものが、カルテである。患者の「偏見」と医師の「偏見」が複合している。
このような難しさがある。