ソシュール、レヴィ=ストロース、ラカンなどの時代、構造主義と呼ばれる思潮の時代ですが、
とらえ方によっては、次のように表現できると思います。
単細胞生物から哺乳類まで、すべての生命は、自然の秩序(ピュシス)に従うことが基盤になっています。
(まあ、こういう表現は、同義反復ようなところもあるけれども、次の文化の秩序と対比してのことです。)
存在しているからには、自然の秩序に何かの程度に従っているわけです。
一方で、大脳が高度に発達した人間は言語を獲得し、文化の秩序を構成するに至ります。
(言語がなければ人間ではないという意味ではないです。また、人間以外にも、言語に相当するものを扱う能力のある動物も知られています。言語とは何かの定義によるわけですが。)
留保としては、この場合は、そんなに厳密な話ではないということです。
ネズミの場合を考えましよう。ネズミにも「文化の秩序」の要素は確かにあるでしょう、ネズミの個体同士の何かの規則とか秩序があるのかもしれない。それは大部分は「自然の秩序」に従うもので、例えば、縄張り行動とか、配偶者選択行動とか、だいたいは遺伝子でプログラムされた通りの行動をとるでしょう。しかしそこにわずかに、周囲や親から伝達された「文化の秩序」の要素もあるのだろうと思います。世界中のネズミが、急に引っ越しても、元の場所と新しい場所で、まったく同じ行動をするとも思えない。変化はあるでしょう。その変化は、やはり一種の文化といってもいいものではないでしょうか。
例えば、あるサルが、イモを食べるときに、海水で洗えば、土が取れて、適度の塩分も加えられ、おいしいことを発見した。それを続けてやっていると、周囲のサルも真似をした。それが一種の文化のようになる。
しかしそうしたことは遺伝子に書かれているわけではないので、何かの偶然で失われてしまうこともある。むしろ、失われるのがふつうである。しかし、そのような現象は確かに文化の一種ではないかと思います。
そんな留保はあるとしても、人間のようにあからさまに、「自然の秩序」と対立することさえ可能な「文化の秩序」を構成することはないのではないか。人間はやはりかなり特殊な存在だと思われます。
「文化の秩序」はかなり自由だとの印象を持ちます。例えば、宗教でも、言語でも、婚姻制度でも、子供が大人になる過程についても、それなりに遺伝子的原理もあり原則もあるでしょうが、自由な部分や偶然の部分もかなりある。完全なカオスの中で秩序を作るというのも言いすぎだと思うが、「自然の秩序」が、遺伝子と環境に支配されるのに比較すると、原理的に違ったもののように思われる。
「自然の秩序」ピュシスは必然的であるが、「文化の秩序」はカオスの中から生じ、その秩序は恣意的である。
(また一言挟むと、恣意的というが、個人から見れば、遺伝子に支配された脳が、文化を受容して適応していく部分が大きいので、なにか閃いて、恣意的に新しく制度や方法を始めるというのも、かなりむつかしいことだろうとは思う。しかし、個人ではなくて、集団の、何万年とかいう単位での歴史で見れば、やはり必然というよりは恣意的といったほうがいい。恣意的というより、偶然といったほうがいい。)
以上のように、人間の中に、二つの秩序があるわけです。人間は、下等な哺乳類も持っている呼吸とか血液循環とか消化とかそのような基盤に支えられているが、一方で、その上に立ち、文化秩序を受け入れて生活している。
そして、文化の秩序の特徴としては、恣意的、差異的、共時的であることが挙げられます。
差異的というのは、たとえば言語の特徴として、類似のもの、こと、概念との、違いや差異を表示することで機能することを指します。
椅子というのか、stool,chairというのか。雨の多い日本では雨を表現する言葉が多彩であるが、砂漠の地域の人たちは、いろいろな雨の降り方をそんなには区別しない。色の場合は、本来連続的なものである色を、便宜的に分けて、言葉を当てるわけですが、虹の色は難色でできているかなど、地域によって異なります。これが差異的で、恣意的であるということです。
共時的(synchronic)というのは、歴史的に時間をさかのぼって考えないということです。この言葉はもともとこういう起源があって、だからこういう意味であるべきだとか、あるはずだとか、そのようには考えない。現在の断面で切り取って、言葉同士がどのように関係しているかを考察すればよいという立場です。
箱の中に押し込められている、隙間があったらすぐに膨らんで、隙間をふさいでしまう風船のたとえが有名です。差異的で、恣意的です。
構造主義では、こうした文化の秩序を「象徴秩序」と呼びます。
概略を言って、「自然の秩序」と「文化の秩序」の二重の秩序の下で人間は生きている。
このあと、そのような「文化の秩序」を個人が受け入れるプロセスを分析して、その途中で生じる「病気」を論じたのが当時の精神医学だったわけです。
また一方で、「文化の秩序」がそのような恣意的、差異的、共時的なものであるならば、それ自体が、精神的な病気に関係することがあるのではないかとも考えられます。少なくとも、地域や時代によって、精神の病気の在り方は異なるだろうと思われます。
そうであるならば、それを病気と呼ぶべきなのだろうかとの疑問も生じます。
私の個人的な立場は、病気であるとは、単に現在の生活に不都合がある、生きにくいということではなく、細胞をもってきて、その構造の異変を確認し、機能の異変を確認できる、そのようなものを病気と呼ぶべきであるという立場です。
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このあとには、ラカンの業績などがあって、その内容については現在進行形で、理解されつつあり、編集されつつあるわけです。(ラカンが何を発見したのか、それを読む人たちの理解は正しいのか、それを眺めている自分は何がわかっていて、何がわかっていないのか。この文章の後段に採録した「ソーカル事件」参照。)
しかし、我々としては、この序論である、「自然の秩序」と「文化の秩序」の対比だけでも、大変役に立ちます。頭の整理に役立つ。
例えば、よくあげられるたとえ話としては、コンピュータのハードとソフトの話があります。
半導体回路は最初はそんなにむつかしいことはできなかった。
例えば、こたつで、熱くなったらサーモスタットが作動して、いったんスイッチを切る。そして温度が下がったら、再度スイッチを入れる。
このような回路は原始的な細胞の働きを感じさせます。ミジンコも周囲のPHの差によって行動を決定している。
最近のようにハードが発達してくると、どのようなソフトで動かすかということが重大な問題になる。WinとかiOS、アンドロイドなど、さらにOfficeとかいろいろなソフト、アプリは、さまざまに発展している。
pcのハードは「自然の秩序」に相当し、ソフトは「文化の秩序」に相当する。
そうすると、pcの故障を考えるときに、ハードの故障とソフトの故障を考えることができる。対策も違ってくる。
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ハードが故障しているなら、ハードを修理する。ソフトにバグがあるなら、修正する。ハードもソフトも問題ないけれども、使い方が間違っている場合は、学んでもらう。
それが原則だけれども、実際には、ハードに故障があるときに、ソフトを工夫して乗り切ることもある。
熱で暴走しないように、少数の軽いソフトだけで運用するのは正しいだろう。
ソフトにバグがあっても、修正されるまで、そのバグに触れないように使うこともできる。
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時代は構造主義も終わって、ポストモダンに流れてゆくのだけれども、有名なのがソーカル事件。
Wikipediaの内容がまとまりがよいので引用する。
ソーカル事件
ソーカル事件(ソーカルじけん、英: Sokal affair)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル[注釈 1]が、1995年[注釈 2]に現代思想系の学術誌に論文を掲載したことに端を発する事件をさす[1]。
ソーカルはポストモダン思想家の文体をまねて科学用語と数式をちりばめた「無内容な論文」を作成し、これをポストモダン思想専門の学術誌に送ったところ、そのまま受理・掲載された。その後ソーカルは論文がでたらめな内容だったことを暴露し、それを見抜けず掲載した専門家を指弾するとともに、一部のポストモダン思想家が自分の疑似論文と同様に、数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用していると主張した。
論文の発表につづいてソーカルは、フランスのポストモダン思想家を厳しく批判する著作を発表し、社会的に大きな注目を浴びた。
事件の経緯
ソーカル論文の掲載
1994年、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルは、同じくニューヨーク大学教員のアンドリュー・ロスが編集長をつとめていた学術誌『ソーシャル・テキスト』に、「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」(“Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity”) と題した論文を投稿した。
この論文は、ポストモダンの哲学者や社会学者達の言葉を引用してその内容を賞賛しつつ、それらと数学や理論物理学を関係付けた内容だったが、実際は意図的にでたらめを並べただけの無内容な疑似論文であった。
この論文に使われていた数学・物理学用語は、専門家でなくとも自然科学の高等教育を受けた者ならいいかげんであることがすぐに見抜けるお粗末なもので、また放射性物質のラドンと数学者のヨハン・ラドン (Johann Radon) を混用するなど、少し調べると嘘であることがすぐ分かるフィクションで構成されていた。
ソーカルの投稿の意図は、この疑似論文がポストモダン派の研究者によってでたらめであることを見抜かれるかどうかを試すことにあった。しかし論文は1995年に受理され、1996年5月発行の『ソーシャル・テキスト』にそのまま掲載されてしまった[2]。
暴露・スキャンダル
掲載からまもなく、ソーカルは別の雑誌においてこの論文がまったく無内容な疑似論文であることを暴露し、大きなセンセーションを巻き起こした[3]。『ソーシャル・テキスト』誌自体は、発行部数が当時800部ほどに過ぎなかったが[3]、ソーカルが別の雑誌で自分の行動を告白すると社会的な注目を浴び、ニューヨークタイムズやル・モンドなど有力紙で報じられた[4]。ソーカルは後に「一般向けのジャーナリズムと専門家向けの出版界に嵐のような反応を引き起こした」[5]、と振り返っている。
ソーカルの疑似論文が掲載されたのは、科学論における社会構築主義に対する批判への再反論や、ポストモダン哲学批判への再反論をあつめた特集号で、「サイエンス・ウォーズ特集号」と題されていた[5]。そこにソーカルの疑似論文の無意味さを見抜けず掲載してしまったことを、ソーカル自身は、編集者にとって「考えられるかぎり最悪の自滅行為」だったと嘲笑している[5]。
疑似論文を掲載した『ソーシャル・テキスト』誌は査読制度を採っていなかったために失態を招いたと言われ、事件からまもなく査読制度を取り入れた[3]。
『知の欺瞞』出版
その後、1997年にソーカルは数理物理学者ジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞』と題する著作を発表した(原題は “Impostures Intellectuelles”で「知的詐欺」の意) [6]。この中でソーカルは、ジャック・ラカン、ジュリア・クリステヴァ、リュス・イリガライ、ブルーノ・ラトゥール、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ポール・ヴィリリオといった思想家を俎上にあげ、ポストモダニストを中心に、哲学者、社会学者、フェミニズム信奉者(新しい用法でのフェミニスト)らの自然科学用語の使い方が、自分の作成した疑似論文と同様にいいかげんで無内容だと主張した。
こうした批判の真意は、思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用していることへの批判だった、とソーカルは後にコメントしている。ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダやロラン・バルト、ミシェル・フーコーは、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない(ただし、ソーカルは事件前にデリダの批判を行っている。#反応 参照)。
ソーカルとロスは、2020年現在、ともにニューヨーク大学の教員である[7]。
ソーカルへの批判
ソーカルの一連の行動に対しては、文芸批評家・法学者のスタンレー・フィッシュを中心とする研究者から、学術論文のでっちあげには破壊的な影響があるといった反発が起きて、ソーカルの行動をめぐって大きな論争となった[8]。
上記のようにソーカルは「ポストモダン哲学」において使われる比喩やアナロジーを執拗に嘲笑しているだけで、思想そのものの検討や批評はまったく行っていないため、ソーカルの行為は「単なる揚げ足取りにすぎない」「本そのものを読んでいない」として事件当初から厳しく批判されてきた[9]。
実際に、その後もデリダを中心とする「ポストモダン哲学」の学術的重要性が減じることはなく、現在にいたるまで彼らの思想が重要な研究対象でありつづけているのは、ソーカルによる批判が本質的なものではなかったためだとも指摘される[3]。
また近年では、そもそもソーカルが行った疑似論文発表は本人が言うような「いたずら」「ささやかな実験」といった軽いものではなく、研究者間の信義を裏切るきわめて悪質な行為で、現在ならば間違いなく重大な論文不正として学界追放の対象になるとも指摘されている[3]。また『ソーシャル・テキスト』の編集長がニューヨーク大学におけるソーカルの同僚だったため、ソーカルの単なる個人的な確執が事件の背景にあったとも指摘されている[10][11]。
「知」の欺瞞
ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、著作の目的を次のように述べている:
われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ。しかしはっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。
— アラン・ソーカル & ジャン・ブリクモン 2000, p. 7
ソーカルによれば、彼ら(ポストモダン思想家)が執筆しているのは科学の論文ではなく、従って彼らの科学用語は比喩としての役割以外のものはない。従ってその厳密な科学的意味を求めても意味はなく、イメージを介して表現しにくい物事を語っているだけである。それは「用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な用語を使って見せる」行為であり[12]、ポストモダン思想家たちは「人文科学の曖昧な言説に数学的な装いを混入し、作品の一節に「科学的」な雰囲気を醸し出す絶望的な努力」をしている[13]。
しかしポストモダン思想家たちの科学的なナンセンスぶりは単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではなく、「事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている」[14]。
さらにソーカルは、ポストモダニストの中には、比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいると主張する。ソーカルによれば、ラカンは神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて、「これはアナロジーではない」とはっきり発言している[15]。また、ブルーノ・ラトゥールも、経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて、「隠喩的なものでなく、文字通り同じ」[16]と隠喩でないことを強調している。また、クリステヴァ[注釈 3]は、一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている[17]。
ソーカルとブリクモンはこれらの思想家の著作における「科学」がいかにデタラメか繰り返し批判しているが、比喩や詩的表現そのものを批判したわけではなく、批判の焦点は、ポストモダニストが「簡単なことを難しく言うために比喩を使っている」[18]という点にあった。ポストモダン思想家による数学や物理学のアナロジーは、「場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明」して失笑を買うようなものだ、とソーカルは述べている[19]。
反応
デリダは、ソーカルらが初期の「欺瞞」攻撃を展開しはじめた雑誌論文では、自分のことを標的としていたにもかかわらず、1997年10月19日の「リベラシオン」紙上では「フリリューとリメは我々がデリダに不公正な攻撃を加えたと非難しているが、そんな攻撃はしていない」とし、アルチュセール、バルト、デリダ、フーコーらを取り上げなかったとしたこと、そしてその記事の原文(タイムズ・リテラリー・サプルメント紙)ではデリダの名前を外し、そのフランス語訳においてデリダを標的としなかったことを指摘したうえで、「なんというご都合主義でしょうか。お二人は真面目じゃない」と断じた[20]。また、ソーカルらの批判活動の初期における対象であったデリダの言説は、1966年の講演でイポリットからの質問への即興的な応答のみを扱ったもので、デリダはソーカルらの批判の展開を予期し、議論を準備していたが、そうはならなかったこと、またゲーデルの公理や決定不能性について、デリダは幾度も言及しているにもかかわらず、それを問題としなかったこと、つまり「読む作業をしなかった」と非難[21]した上で、「悪戯が仕事の代わりになるとは、なんとも悲しむべきではありませんか」とソーカルたちの手段を皮肉っている[22]。
しかし、ジャック・ブーヴレスは、ソーカルたちを擁護する立場から、デリダのこの発言を不誠実な対応だと批判している[23]。
また、ソーカルによればクリステヴァは「偽情報」を提供したとしてソーカルたちを批判したという[24]。
ソーカルの『「知」の欺瞞』は、認識論における認識的相対主義も批判の対象にしているが、この分野に関しては「素朴実在論」「クーン以前」と批判する論者も存在する[25]。
イグノーベル賞
1996年、「ソーシャル・テキスト」誌の編集長はソーカル事件の件に関してイグノーベル文学賞を受賞した。
「著者でさえ意味がわからず、しかも無意味と認める「論文」を掲載した」[26]のが受賞理由である。
受賞に際しての「ソーシャル・テキスト」誌の編集長のコメントは「ソーカルの論文を掲載した事を、心の底から後悔しています」[26]であった。
編集長はイグノーベル賞の授賞式に出席しなかったが、ソーカルは祝福のメッセージを寄せ、そのメッセージは授賞式で読み上げられた[27]。
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リチャード・ワイズマン著 文藝春秋発行 『超常現象の科学』34ページ 一九七〇年代に、南カリフォルニア大学のドナルド・ナフテュリンとそのチームがこの現象をあざやかに実証した。数学と人間行動の関係という内容でまったくでたらめの講演草稿を作りあげ、それを教育学会で役者に読み上げてもらったあと、会場に集まった精神科医、心理学者、ソーシャルワーカーに感想を聞いたのだ。(中略)参加者はフォックス博士を「最高にすばらしい講演者」で「きわめて明快」であり、「テーマに関するすぐれた分析」をおこなったと評価した。
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