睡眠不足は英語では「sleep loss」もしくは「sleep debt」と記載されることが多い。後者は日本語では睡眠負債と翻訳され、以前流行語大賞にノミネートされたこともある。負債と表現するのは睡眠不足の悪影響が借金のように蓄積するためである
その借金返済にかかる時間は当然ながら返済額に依存して長くなる。 睡眠不足に陥ると眠気のほか、認知パフォーマンス、免疫、代謝機能の低下など様々な悪影響が生じる。これらの悪影響を残さずに前日の疲労をしっかり回復するのに要する睡眠時間、すなわち「必要睡眠時間」には大きな個人差がある
したがってあくまでも平均であるが、20代、30代の若い世代では毎日コンスタントに8時間30分程度眠る必要があることが私たちの以前の研究で明らかになっている。実際、「譲れない眠り、「必要睡眠量」を測る」で紹介した米国ペンシルベニア大学が同じく20~30代の健康な被験者を対象にして行った研究でも、1日8時間の睡眠では不足で、実験が行われた2週間にわたって認知パフォーマンスが悪化し続け、負債が積み上がることが示されている。
ちなみに私たちの研究に参加した被験者たちは、実験参加前の睡眠時間が平均7時間30分であることがウェアラブルデバイスで確認されており、事前調査では日中に眠気を感じておらず睡眠不足とは思っていないと回答していた。
では、実験で明らかになった必要睡眠時間8時間30分との差1時間にはどのような意味があるのか?
この実験では9日間にわたり音や光などの邪魔の入らない特殊な実験室で毎晩十分な睡眠時間を取ってもらい、睡眠負債を完全に解消させた(回復睡眠)。すると、刺激に対する反応時間や計算能力、ワーキングメモリなどの認知パフォーマンスは向上し、ストレスホルモンは低下し、耐糖能(血糖を下げる力)は強化されていた。つまりこれが元々有している能力であり、実は自分では気付いていないだけで日々1時間の睡眠負債を溜め込んでいたのである。このような自覚できない睡眠不足を「潜在的睡眠不足」と呼んでいる
睡眠負債の解消にかかる時間は睡眠不足の度合い、持続期間、生体機能によって異なり、また個人差もあるので一概には回答しにくい。ただ、先の実験の被験者が抱えていたような軽度の睡眠負債ですら、複雑な認知パフォーマンスやストレス反応、代謝機能の回復には5日~9日を要した。
より重度の睡眠負債ではより長期間かかる。週末の寝だめによって眠気は比較的早く解消されるものの、心身の回復には全く不十分なのである。むしろ「眠気が無いから大丈夫」という思い込みが睡眠負債を溜め込む生活習慣から脱却できない一番の原因となっている。
では睡眠負債解消のために週末に長時間の寝だめをすればよいのかというと、これも困る。 実生活で睡眠不足に陥りがちの人は基本的に夜型が多い。夜型の人は平日に出勤や登校のために頑張って起床し、体内時計を朝型にする効果のある午前中の日照を浴びることで遅れがちな体内時計の時刻を早めに巻き戻している。ところが、週末に寝だめをすると肝心の午前中の光を浴びることができなくなってしまうのである。幾つかのシミュレート研究によれば週末2日間の寝だめで体内時計が30分~1時間近くも遅れてしまうという。これでは夜寝付くのが遅くなって、睡眠負債生活から脱却するのは難しい。
平日の睡眠不足と休日の寝だめを繰り返す睡眠習慣は社会的時差ボケ(社会的ジェットラグ)と呼ばれ、生活習慣病や抑うつ、認知パフォーマンス低下のリスクを高めることが分かっており決してお勧めできない。結局のところ、週末の寝だめを1週間に均等分散して睡眠不足も時差ボケも回避することが理に適っている。土曜の朝にプラス4時間、日曜の朝にプラス3時間の計7時間の寝だめをしていたならば、これを1週間に分散し、日々の睡眠時間を1時間伸ばすのである。