何のためにカウンセリングをするのか?
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だ、
と言われる。
でもそうじゃない、過去は変えられるんだ、そこに人間が、他人や偶然に支配されないで生きられる根拠があるんだと、言いたいわけです。
だって、脳の中に残っているのは、事件そのものではなくて、情報でしょう。それなら変化するでしょう。いいほうにも悪いほうにも。
悪いほうに変化したとして、それに引きずられるのは残念ですよね。
過去というものについてよく考えてみることによって、新しい道が開ける。
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ポイント:「過去は、変えられる」
過去は、素朴実在論的に確固たる一通りのものとして存在しているのではない。
ニュートン物理学でいう世界は一通りの固い過去である(ついでに未来も一通りである。悩むだけ無駄だ)が、心理的にはそうではない。
我々の心の中では、過去の体験の色々な断片的な要素が、あるいものは採用され、あるいものは捨てられて、現在の心の中に過去の出来事の印象の全体像が出来上がる。過去について、現在再構成していると考えられる。思っているのは現在です。
事実の断片といっても確実さも怪しいし、それらを採用するか捨てるかも、あなたの気持ち次第だ。
通常、こころの中で過去を回想するとき、現在の脳がそれを再構成している。
だからかなりの幅で、過去の事実は変えられる。
(実際、精神療法の世界では、記憶の改変が大問題になりました。心の傷を論じるにあたって、「改変された記憶」を聴取して、それが原因だと考えたとして、それは現在再構成したものであるから、症状形成の原因と言えるのか、疑問があるわけです。むしろ結果だと言える、あるいは症状だと言えるのではないか。)
再構成の仕方を加減してみればよい。過去は可変的で、悪い言葉で言えば、かなりいい加減だということに気づくだろう。
今現在で変化を感じられないとしても、時間がたてば、あなたも成長、成熟、あるいは変化する。
その時には、過去の出来事に対する印象も変化している可能性がある。
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あなたはどのような問題をカウンセリグで解決したいと思っているのでしょうか。
色々な問題がありますが、大きく分類してみましょう。
1.自分を変えたい ⇔ 他人を変えたい
2.未来を変えたい ⇔ 過去を変えたい (現在は未来に含めましょう。羊羹の切り口のようなもので、現在は幅0です。)
ではまず、1.から考えましょう。
1-1.自分を変えたい。
これは髪が伸びたから美容院に行くのと同じです。虫歯が気になったら歯医者さんに行く。
自分の性格や思考の癖や感情の在り方が苦しくて、改善したいと思うとき、カウンセリングをしましょう。
1-2.他人を変えたい。
一番の難問です。
これは自分の側には特に問題はないのに、いまかかわっている他人、または他人たちに問題があり、かといってすぐに立ち去ることもでず、いやおうなしに当分の間、関わらなくてはならない。そのようなとき、他人とどのように調整してゆくか。
これは他人をカウンセリングに読んで、「あなたが変わりなさい」といって解決するものでもありません。
自分が相手に対してどのような態度で接するか、変えられるのはそこだけでしょう。そこから何かつかめるか、やってみるしかありません。
人と人の世の中はいつまでも不変ではあり苦戦。時間がたてば変わるものです。待つ時間を耐えられるように手助けすることもカウンセリングの役目でしょう。
2-1.未来を変えたい。
これは比較的取り組みやすいと思います。これまでの経験をもとに、どのような未来を希望して、そのためにはどうするか、考えましょう。
2-2.過去を変えたい。
過去を変えたいという表現がそもそも違和感がありますね。
過去は変えられない。だからこそ苦しんでいる。
自分に降りかかったとてもつらいことが現在も未来も私を苦しめる。
そのようなとき、どうすればよいか。
だんだん忘れることを期待するのもよい。忙しくして忘れようとするのもよい。
だって、過去の事実は事実だから、動かせない。過去の解釈を変えることはできるけれども、そんなことで解決できる問題とできない問題がある。
例えば、何かの事故で子供の命を失った母親は、その過去にどのように耐えればよいのか。
その場合でも、子供は、汚れたこの世を離れて、天国で幸せに暮らしていると信じられればそれでも良いでしょうが、多くの人はそうは思えません。
子どもの同級生は今生きていて、道ですれ違ってあなたと挨拶したりする。
どうしたらよいでしょうか。みんなどうしているのでしょうか。何か方法は考えられるでしょうか。
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過去の出来事はもう起こったことだから、事実は動かせない。
これは正しいが、一方で正しくない。
幅があります。
例えば、今あなたはテーブルに座っていて、pcを操作している。そばにはマグカップがあり、水が入っている。
そのような状況は疑問もなしに、確実に真実です。
現在のことはおおむね真実というほかはない。
過去についてはどうでしょうか。
子どもが事故で死んだ。いま子供は存在しない。写真だけが残っている。
そのような過去と、
中学生の時に他人に意地悪をされた。心の傷が今も残る。
そのような過去。
これは、現在も、過去が何であったかを示すものがありありと存在する事態と、
過去についてのすべてはただ心の中にだけある事態との違いです。
我々が生活しているときに、ビデオで証拠を取りながら生きているわけではありませんので、
過去については観察が足りなかったり、勘違いだったり、思い込みだったり、
そんなことはよくあることだと思います。
過去のことで誰かに不信感を抱いたけれども、説明されて、またはほかのことがあって証明されて、
誤解だったと知って安心したとかのこともよくあることです。
あの時の渇望は本物で私はそれを本当に心の底から欲していたのだけれども、
今考えると、そんなに欲しいものではなかった。というような場合、
自分自身に変化が起こったので、過去の解釈も違ってきた例になると思います。
それもよくあることではないでしょうか。
つまり、過去は、現在の自分が、現在の自分の脳に残っている記憶の中から取捨選択して構成しているものだと考えられます。
それは現在思っている、過去についての思考や感情なのです。
そう考えると、過去の事実というものも、幅があることだと思います。
留保しなくてはならないのは、思考や緩徐を変化させて、過去を再構成したとしても、
子どもが死んだ事実は動かないことです。
もっと軽い話で言えば、夕べおねしょをしたことは変わらないでしょう。
せいぜい、おねしょしても気にならないと言えるだけで、おねしょしたかどうかについては、
したと言う他はない。
過去がそのように現在に影響を及ぼし、現在にも過去の出来事の痕跡がくっきりと浮かび上がっているならば、そのような過去を再構成することも簡単ではない。
しかしそれでも、多面的な解釈はありうるのではないか。
親が早くに死んでしまって苦労した子供がいたとする。その事実自体は変更できない。しかしそのことで、人生がどうなったのかについては、多少の再構成の余地がある。
過去の再構成をするにあたって、自分一人で考えていたのでは、同じ道をたどることになりやすい。他人の目で、新しい視点が役に立つこともある。
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んー、今一つまとまらず散漫で、言い切った気持ちになれない。
過去は、過去のことなんだから、もう変えられない!との常識を変えよう。