人間が物事を知覚し認識する場合、
例えば、杉の木を知覚する場合、風景のスナップ写真とゴッホの糸杉の絵はかなり違うけれども、
物事のどの側面を重く受け止めるかでかなり違ってくる
このような事情を構成主義と呼んでいる
知覚は物事のすべてを常時感覚しているわけではなく、部分的な把握である。
そらにそのような材料としての感覚が手元にあっても、
それをどのような現実として受け止めるかと考えると、
そこにはかなり脳の側の事情も混入している。
知覚はただ受動的に近くしているのではなくて、
たとえば蝙蝠が超音波を自分で発射して、その反射を知覚しているように、
能動的な要素がある
人間が視覚で何かをとらえるとき、
たいていは、眼球が正確に静止しているわけではない
きょろきょろしたり、体全体が動いたりして、
位置を変えながら、その感覚情報を脳に入力しながら、計算して、立体感覚を形成したりしている
残酷な実験だけれども、生まれてから眼球が1ミリも動かないように固定した哺乳類を育てて
視覚系の発達を観察すると、正常な資格が形成されない、という実験の話を読んだような記憶がある。
切れ切れの感覚をつなぎ合わせるから、
たとえば切れ切れの映画のようなもので、
どの場面とどの場面がどう関係しているかなどは
かなり脳の側の事情が影響する
そのようにして形成されるのが認識である
それならば、変更することもできるだろう、という話になる