医学の話でいうと、心臓、肝臓、腎臓、血液、血管、筋肉、皮膚、免疫系など、いずれも、原理的には生化学に還元され、さらにそれは物理学に還元される。還元主義で問題はない。ただ、細かいシステムがよくわかっていないだけで、原理的な困難はないだろうと思われている。今はまだ分からないが何かうまい仕組みがあるのだろうとか、あとは測定して、場合に応じて定数を決定すればよいだけだとか、そのようなものだろうと思う。
脳についても、脳腫瘍とかアルツハイマー病とか、大体は物質の科学で説明できそうだ。原理的な困難はない。ただ、脳のはたらきの一部である自意識については原理的な謎があると言わざるを得ない。
そして、スーパーストリングス理論などについても、それは半分は物質の理論だが、ヒトは世界をどのように観察しているかについての理論でもあると考えると、世界を説明する物理学は、人間の脳の働きをも説明すると同時に、ヒトが世界を観察する様態に関しての知見は、物理学の半分だともいえる。
どの科学の分野でも同じだが、原理的な困難に突き当たれば、ニュートン力学の範囲を超えて、相対性理論とか量子力学とか統計物理学とかの助けを求めることになる。それがまた、トンデモ学説であることがほとんどで、時間が惜しい人はあまり真剣に付き合う必要はない種類のものだ。
意識の話も、神経細胞の微細なレベルでは量子力学的な効果が関係していて、意識の発生を説明できるのではないかと考える人もいるようだが、もちろん、成功していない。また、神経細胞の数の多さ、そしてそれらが処理している情報量の膨大さを考えて、複雑さが大きすぎて、新しい数学が必要なのではないかと思う人もいる。どのような数学を用いれば意識が説明できるのかについては現状で謎である。相対性理論はあまり関係がなさそうだ。
よく考えている人は、まだ説明できないと理解しているから、沈黙している。考えの足りない人は軽はずみに何か言ったりする。あるいは、経済的理由や政治的理由、性格的理由で、仲間から尊重されなくなるのも承知で、何か言ってしまうこともあるだろう。そしてそれを目にして時間を無駄にする人もいるだろう。どうせ無駄な人生だから、人に迷惑をかけない範囲で暇つぶししていればよいというのが私の見解だが、そのような無駄から人生の意味が生まれることもあまりないと思うので、そのあたりは注意したほうがいいと思う。
だけど、それにしても、不思議である。
ニューラルネットワークを再現する方向での近年のコンピュータサイエンスの発展が、とか、量子コンピュータの使い道として意識研究があるのではとか言われるだろうが、どれも怪しい。最近のコンピュータサイエンスは、ニューラルネットワークの再現を目指しているのではなくて、再現は複雑すぎてできそうもないから、ディープラーニングをさせて、とりあえず結果だけ一致すればいい、原理は違ってもいいと割り切った考え方である。人間の脳も、どうせ物質でできているのだから、量子力学で説明できるだろうという点では還元主義で正しいように思われるのではあるが、でも一体どのようにして?と考えて、その先が進まない。量子コンピュータは応用が拡大すれば、もちろん、意外な収穫をもたらすかもしれない。超複雑な量子系を説明できるかもしれない。しかしどんなに複雑にしたところで、とびとびのふるまいを想定したところで、確率的な考えをしたところで、意識が発生するとも思えない。
そうすると、何か未知の原理があるのかもしれないと検討することになる。キリスト教などの伝統では魂と身体の二元論的伝統が色濃く残っていて、一般の人々は、たとえば英語を普通に話している限りは、高等教育を受けていない限り、二元論的な思考が自然なのであって、唯物論的な思考がまず変な考えだし、聖書に反するのだろう。唯物論では説明できないから、二元論でいいのじゃないかというのが一般だと思うが、そこで、二元論に対抗するのはよろしくない、唯物論は堅持するが、意識の説明には何かほかの原理も必要なのではないかなどと言えば、そういうなら、さっさとその別の原理を提案してくれ、それを検証したいから、という話になって、前提としては、どうせ説明できないだろう、その理由は、唯物論が間違っているからだ、二元論が自然な思考だとの結論になる。だいたい、そもそも、自由意志のメカニズムはどうなっているかなど、まあ、説明できればいいだろうけれども、ヒトの意識の在り方としてはあまりに自然な前提であって、自由意志はないなどと言われると、この人は何を言いたいのだろうとか思われる。このあたりも、二元論に通じる深い伝統を保持している態度であって、それが自然だということは大いに認める。
精神科医としては、自意識の障害の諸形態を経験しているので、自意識が壊れることは確かにあると言えるし、さらに、結論を急いでいえば、自意識そのものは一種の錯覚であって、その錯覚から目覚めた状態がたとえばさせられ体験とか自生思考とか、そんなものだと思う。錯覚しているのが正常状態で、正常状態が維持できなくなって錯覚から目覚めると、それは病気だという認定になる。必要な錯覚から覚めてしまうことは、たしかに不都合だし、その違和感は非常に不愉快であり、耐え難いので、死んでしまいたいと思うこともあるほどである。失クオリア症といってもいいし、離人症とか現実感覚喪失症といってもいい。自意識の能動感が失われることは確かにつらいようだ。その意味で病的なのであるが、原理的には、錯覚から覚めている状態の方が本来であり、正しいともいえる。みんなと同じように錯覚していないと不都合なのである。このあたりは社会構成主義による病気の定義の一例と言えるのかもしれない。
私は社会構成主義による病気の定義には反対する。機能の異常を裏付ける構造的異常を測定できるときにのみ、病気と言えると考えている。
シナプスとレセプターくらいしかよく分からないから、シナプスに病気の原因があるなどと、なぜ言えるのか、大変不思議な現象である。シナプスとレセプター主義では説明できないことはたくさんあるのに、とりあえず、それでいいでしょうという認定になっている。まあ、何も分からないよりはいいだろうとは思う。
こういった原理的な考察をするには教育の仕方が重要ではないかと思う。たぶん、ヨーロッパ貴族のように、家庭教師をつけて英才教育をするのが一番よさそうである。その場合は教師の当たり外れが怖いけれども。学校に行けば、非効率的な教育で、原理を発見する人ではなくて、軍人になったり、経営者になったりするのに適した教育が待っているのだからよくないに決まっている。
ガウスとかオイラーとか、ニュートンとかアインシュタインとか、東大入試をうまくこなせたかと言えば、怪しいものだ。もちろん、数学や物理の理解は深かっただろうが、点数を取れるかどうかはまた別の話だろうし、ほかの教科もあるのは大きな負担だろう。少子化が進行して、情報化社会になって、その結果としての現在はどうか知らないが、昔でいえば、国語、英語、社会、理科などは高校の卒業試験を60点で通るくらいで十分なはずだ。東大生ほどの点数はいらない。その時点ですでに18歳だから、手遅れだと思う。
プロ野球の佐々木朗希は骨端線が閉じていないから無理をさせられないとか言っている。東大生は無駄な勉強ばかりさせられている。本質的に才能のない人にはそれで構わないと思う。小さなころからの努力の総和を18歳の時点で評価するのだから、それはそれでいい。しかし、数学や物理の原理を発見する人を育ていたのなら、それは間違っている。
現在も、卓球やフィギュアスケートでは早期に才能を発掘して、早期に教育をする。小学校も中学校もろくに勉強しないから、ある種、自然な状態の人間ができる。数学物理に関してはそのような選抜と教育が必要なのだと思うが、教育界は現状ではそれどころではないので、英才教育を本格的には議論していない。
支配層が、自分たちの子供の教育で、天才教育しようと思っても、それほど思うようにはいかない。支配層はたいてい秀才であって、秀才教育を実現している。秀才は器用なので、いろいろなことをこなす。興味さえあればいろいろなことができる。しかし天才はそうではない。それしかできない。しかし圧倒的にできる。例えば、医者になるコースと役人になるコースがあったとして、秀才はどちらでもできる。天才はそのような柔軟性はない。必要に応じていろいろ勉強するなどできない。先天的に脳の内部の設定がそのようにできているので、それは変更できない。
偶然に、脳の回路が、自然の法則を転写している脳がある。その脳が天才である。それは宝石を見つけるように発掘して磨かないと天才にならない。千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらずという。天才はあちこちにいるのだと思う。しかし大人は気が付かない。惜しいことだと思う。そしてそれが18歳の時に発掘されるのでは遅すぎる。
卓球の例えでいえば、18歳の時に、短距離、長距離、障害物、水泳、何かの球技、馬術、剣道、柔道など、総合点で入学を決めて、そのあと、どの専門になるか、決めるというようなものではないだろうか。それでは天才卓球選手は出現しないだろう。短距離走をするにの柔道も何も関係ないだろう。
野球選手は18歳から始めてもいいのかもしれない。
私個人としては教育は全方位の人格的な鍛錬を含むものが望ましく、才能の発掘と開花を目指すなどはあまり意味がないと考えている。ここで言っているのは、脳科学には本質的な原理の発見が必要らしい、そのためには天才が必要で、そのためには18歳選抜ではだめで、卓球選手の発掘と育成と同じようなシステムが必要だという話である。
その場合に問題なのは、そうした天才が、原爆を実験したとして、そのことの意味をどう考えるかである。意味を考えるのは世間の人だというのも考え方であるが、私はそうではないと思う。その点で、全方位の人格的鍛錬が大切だと思う。ヒトに対しての遺伝子操作の倫理的問題とか、人工知能の倫理的問題とか、慎重に考える人材でないと大いに不安である。興味があるからやってしまいました、それでできてしまいましたでは済まない。
話がそれたが、そうした倫理的判断も高度な次元で可能な人間というのは、かなりの程度、現状の人間社会の総合縮図を内部に持っていなくてはいけない。そうすると、時間もかかる。時間をかけているうちに、天才的発想はなくなってしまう。先天的に原理を内蔵している脳を見つけなくてはいけないのに、そうした総合判断をする脳を優先して教育しているのではだめだろうということだ。
原理発見のための脳回路なのに、人間社会の煩雑なことが入力されて汚染されてしまう。たとえば、外国語はもちろんであるが、母国語もとても基本的な部分だけでそれ以上は教えないほうがいいと思う。言語には人間を歴史的な常識に引き寄せてしまい、常識の枠内にとどまる人間になる可能性がある。そうなると、地動説も、相対性理論も、量子力学も、出現しにくくなる。
それはそうとして、次の天才が登場するまでの環境を整える方法を考える。地動説がよい例である。ギリシャ哲学があり、キリスト教があり、天動説が常識で、人間の日常の暮らしでの体験は天動説を支持していた。地面が動くなんて考えられない。しかし天体観測の技術が進歩して、詳しい測定結果が蓄積した。そうすると、天動説では説明できないことがたくさん出現した。その一つ一つに対して、巧妙に説明する、付加的説明がどんどん増えていった。そうすると、地球が動いていると考えれば、しかも、太陽を焦点の一つとする楕円軌道だと考えると、説明がエレガントに単純に美しく可能である。それならば、地動説るぁるではないかとの可能性が高くなってくる。
同じように、今できることは、意識に関してのデータをもっと蓄積することである。これは神経細胞に関してのデータとか、ニューラルネットワークについてのデータとかではない。意識の、たとえば「意識度」の測定のようなものである。これはヒトが十分に意識的に活動しているときに100、石ころで0となるような何かで、(まあ、場合によっては石ころの意識度は1としてもいいけれども)、それをどのように定義できるか、そしてどのような場合にどうなっているかのデータを積み上げる。そのあたりは、凡庸に研究者の仕事である。天体の観測結果があれば地動説が導かれたように、意識度の測定データから、意識の本質が、・・・とここまで書いて、そうはいってもなあと思った。意識度を定義することは、意識の本質をうっすらと知っているということだろう。
言い方を変えて、何を測定するかも大事だが、測定方法が大事だ。ウィルスを探しているのに光学顕微鏡ではダメ。脳波とか、大雑把な測定はできるが、微細レベルでの時間変化を記録できるかと言えば、難しい。ヒトの場合に測定するには倫理的問題もある。ヒトの自意識に相当するようなものを、サルでどのように測定できるか。何か新しい道具がそのうち開発または発見されて、そこから道が開けるという可能性も考えるが、どんな道具が?と考えると、分からない。