重力とケプラーの法則
第1章
楕円軌道の衝撃
古典重力論の元年を1609年にとることができる.この年ケプラー
は,プラハで『新天文学––因果律もしくは天界の物理学にもとづく
天文学』を出版し,惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を一
定の面積速度で運行するという,ケプラーの第1法則と第2法則を世
に問うた. それは科学思想史を画する出来事といってよい.
とくにこの『新天文学』に付いている特異な副題に注目していただ
きたい. 『ヨハンネス·ケプラー全集』の本書が含まれている第3巻
の後記では,この点について編者マックス·カスパーが,
ケプラーをして彼以前に支配的であった見解を克服せしめた指導理念が(現
代的な意味で)物理学的性格のものであるがゆえに,また,副題の「天界の物
理学(Physica Coelestis)」が語っているように彼が天体の運動を力学的に説
明しようとしたがゆえに,本書において天体力学という新しい科学の基礎が与
えられたのである. したがって,本書は天文学研究における真の里程標であ
る.
と評しているが(1),じっさい,火星軌道を解明した本書ではじめ
て,物理学としての天文学が登場したと言えよう.なによりも本書
は,天体間に働く重力––天体の運動の原因としての重力––という
思想を提起したのであった.
通常,ケプラーの法則の歴史的意義は,次の2点に求められてい
る. すなわちそれは,第一に,ティコ·ブラーエの持続的·系統的な
天体観測の結果得られた,統計的観点からも信頼できる多量で精度の
吟味されたデータに裏打されたものであり,第二に数学的言語で厳密
に表現された法則であるという点である. たしかにこの2点は近代の
科学的法則の必須の条件であり,アリストテレス以来自然学は定性的
な議論を事とし,またコペルニクスの理論でさえも,貧弱な観測デー
タにもとづき,観測との一致よりは古代人の文書に理論の裏付けを求
めていることを考えあわせれば,この点だけを見てもケプラーの法則
は画時代的といえよう.それは精密物理学のはじめての法則なのであ
る.
しかし,なによりも重大なことは,その精密な法則の惹き起こした
自然観の根底的な変革にこそある.
もちろん,古代エジプトやギリシャから中世に至るまで,あるいは
他の文化圏においても,天体の運行や物体の運動の理論は存在した.
それはそれで一つの体系だった説明も行なわれていた. いや,日蝕や
月蝕の予報すらかなりの精度でなされていた.しかしそれらは,近代
人の謂う意味での〈力学理論·自然法則〉とは別次元のものである.
物質観や法則観自身が異なっているのだ.古代からの人類の営々たる
努力がそのまま積み立てられ洗練されて近代の力学が出来上ったので
はない. 古代·中世のそれと近代のそれとは別個の自然観,ひいては
別個の世界像に属するものであり,そのちがいは単なる進歩の程度の
-は,可能的存在が現実化したということであり,
差なのではない. たとえ同一の現象を扱い,同一の用語が用いられて
も,概念の枠組みや評価の基準はまったく別物なのだ.
たとえば「重い物体が地面に落ちる.月は地球のまわりを円運動す
る」ということをニュートンが言ったならば,その「運動」は,地球
の重力という〈外的原因〉によって惹き起されたのだが,アリストテ
レスが同じことを言ったならば,その「運動」––所謂「自然運動」
〈原因〉は物体
や月に固有の〈目的〉––すなわち「窮極因(causa finalis)」––に
求められている. というのも,アリストテレスにとっては,小石が地
面に落ちる––正しくは宇宙の中心に向かう––のも,植物の種子が
芽を出しついには花を咲かせるのも,氷が溶けて水になるのも,すべ
ての変化が「運動(kivnais)」にひっくるめられるのであり,「自然
(pbois)」とは「みずからのうちに運動の根拠を持つ事物の本質」を
意味していたからである.「自然」は自発的に変りゆくものであり,
その変化の衝動は各物体の内に潜在する可能態を現実化せしめるとい
う「目的」にある.その意味で,小石が地球に向かうのは,植物の成
長が植物の本質に属するのであるのと同様に,小石の本質に属するこ
とがらなのであり,それゆえ,その原因を物体の外部に求めるという
発想は出てこない.
だが,ケプラーの発見した法則は,とりわけその法則が円軌道と等
速性の双方を放棄したことは,否応なく〈外的原因〉という考え方を
強いるものであった.なるほどいまでは,ケプラーの法則は高等学校
でも教えられ,「惑星の軌道が楕円である」と聞いても誰も驚かな
い. 初等的な代数学と解析幾何学さえ知っていれば,円も楕円も同じ
二次曲線にすぎず本質的なちがいはない. しかし科学思想史上では円
と楕円のちがいは決定的である.
宇宙が球形であることと惑星の軌道が円より成ることは,プラトン
とアリストテレス以来牢固とした固定観念になっていた. 後でくわし
く見るつもりだが,古代から中世まで月より上の世界は生成も消滅も
ない完全な物質––第五元素(エーテル)––より成る均質で不変の
世界であり,そこで許される形状は球と円だけであり,そこに可能な
運動がつねに等速であるということはいわば自明の理と思われていた
のである. コペルニクスの登場まで天文学において最も権威のあった
プトレマイオスの『アルマゲスト』では,「すべての物体のなかで
エーテルは最も純粋にして最も均質な部分であり,しかるに,均質な
部分の表面は均質な部分でなければならず,平面図形のなかでは円の
みが,また立体図形のなかでは球のみがかかるものである」という根
拠にもとづき宇宙の球形性が論証され,また「一般に惑星の運行は,
その本質からすべからく規則的で円形であると考えなければならな
い」とアプリオリに前提されている(2).
したがってまた,現実の惑星の運行に見られる円軌道や等速性から
の偏倚は,すべからく円の合成––周転円,離心円等––によって取
り繕われねばならなかった.
ケプラーまで,この天体の運動の円秩序と等速性の自明性を疑った
者は––ティコ·ブラーエらきわめて少数の例外を除いて––いな
い. 15世紀に運動の相対性を断乎として主張し,地球の中心性を否定
した地動説の先駆者クザーヌスでさえも「無限な線は円形である.と
いうのは,円形においては,始めは終りと一致するからである.それ
それゆえ,地の形態は
優れていて球形であり,その運動は円形である」と語っている(3).
他方,16世紀にコペルニクスがプトレマイオスの天動説を退けた一つ
の理由は,エカント(等化点)の導入が惑星運動の等速性を破壊する
からであり(4),彼も当然のこととして次のように書いている.
ゆえ,いっそう完全な運動は円である.
今度は天体の運動は円形であることを述べよう. 球のなし易い運動は回転で
ある. この運動によってそれ自身の上に一様に運動するとき,その形を現わ
す.その形は最も簡単であって始めも終りも見出すことができず,また互いに
区別することもできない .……
惑星はあるときは南へあるときは北へとさまよい歩く.そこで惑星と呼ばれ
るのである .…… しかしそれらの運動は円形であるか,または多くの円を組み
合わせたものであることを知る必要がある. 何となればそれらの不等は一定の
法則に従って周期的に行われるものであり,それは円運動でなければ不可能な
ことだからである. ただ円だけが物体を元にあった場所に帰らせることができ
る(5).
たしかに,地動説を唱えたとはいえ,コペルニクスの精神はいまだ
に近代人のものではない.むしろコペルニクスは,どちらかというと
「最後の偉大なプトレマイオス主義の天文学者」(クーン)なのであ
る(6).しかしケプラーと同時代人でケプラーよりも近代的な精神の
持主で,通常近代物理学の創始者と目されているガリレイでさえも,
円軌道の呪縛にとらわれていたのだ.
アリストテレス主義者に対抗してコペルニクス説を擁護するために
ガリレイが書いた『天文対話〔二大世界体系についての対話〕』で
は,地球もまた他の惑星と同様に太陽のまわりを回転することが多言
を費して説かれているけれども,その地球や惑星の運動が円であるこ
とは,当然のこととされている.
のみならず,ガリレイにとっては,円運動の普遍性と円秩序の完全
性は,天体にとどまらず地上物体をも含む全宇宙に妥当することで
あった. 四日間にわたる対話形式で書かれた『天文対話』の第1日で
ガリレイは,「もし世界の全体を構成している物体がその本性上動き
うるものでなければならぬとすれば,これらの物体のする運動は直線
であったり,あるいは円以外のものであったりすることは不可能であ
る」と語り,次のように論じている.
ですからぼくはつぎのように結論します.すなわちただ円運動だけが自然的
に宇宙の全体を構成しており,最上の状態におかれている自然的物体に適合し
うるものであり(云々) ……. ここから,世界の諸部分の間の秩序を完全に維
持するためには運動体はただ円に動きうるだけであり,もし円に運動しないも
のがあれば,このものは必然的に不動である,というのは秩序を維持しうるも
のは静止状態と円運動とを除いてはないから,と十分合理的に結論できるよう
に思います(7).
これらのことを考えあわせるならば,ケプラーが逢着した楕円軌道
という観念が,当時の人々にどれほど馴染み難いものであったかがわ
かるであろう. じっさいガリレイは,ケプラーから『新天文学』を贈
呈されていたのに,ケプラーの発見を認めていない(*).たとえ読ん
でいたとしても,楕円軌道というような考え方をまったく非現実的な
ものとして受けつけなかったであろう. ケプラーが2000年にわたる円
軌道の固定観念を見棄てて楕円に到達し,等速性を放棄して面積定理
を見出したことは,それだけで,ロバチェフスキーがユークリッドの
第五公理を放棄したことに,あるいはアインシュタインが平らな時空
を棄ててゆがんだ時空を採用したことに,匹敵することなのである.
『新天文学』よりずっと後の『天文対話』でガリレイは語っている.「それぞれの
(*)
惑星がそれぞれ回転するさいにどのように規制されているか,その軌道の構造が正確
にはどのようになっているかという,一般には惑星の理論とよばれているものは,な
お疑いの余地のないまでには解決できてはいないのです. その証拠は火星で,これに
ついては近頃の天文学者があんなに骨折っているのです.」(9)
Ⅱ ピタゴラス主義者ケプラー
もちろんケプラーとても,楕円を簡単に受け容れたのではない.彼
自身が楕円を受け容れるのにどれほど抵抗したかは,『新天文学』で
著者自身が楽屋裏をぶちまけた火星軌道相手の数年間に及ぶ悪戦苦闘
より看て取れる. ケプラーは,楕円に達するまでに離心円,卵形,そ
の他の軌道などを手当りしだいに試み,その過程で何回も楕円のすぐ
近くにまで来て,それどころか計算の便宜のために事実上楕円を使い