デカルト コギト

コギト
デカルト。われ思う、ゆえにわれあり。
方法的懐疑で、いろいろなものが疑われる。今まで確実と思ったものも疑わしい。
夢の世界も参考すると、われわれの経験がどこまで確実か疑問がある。
錯覚や幻覚や考え違いがありそうだ。

でも、いま私が思っていることは確かに思っているのであって、だから私が存在していることは疑いようがない。ここは確かな出発点になるという。

さて、そうだろうか。
私が思うというのは、思考作用のことで、つまりは脳の活動である。「私」がという場合の私とは何かを定義することはなかなか難しい。自明であるがゆえに難しい。

私が存在するというのは、存在の話だ。
この場合、存在するのは「私」または「脳(あるいは脳の活動を可能にする周辺物を含めて)」だろう。
するとまたここでも「私」という謎が出てくる。

脳が活動して自分の脳活動を認識している。だから脳は存在する。
と言い換えたら、正しいのだろうか。
脳が何か考えたら、脳波が動きを見せている。だから脳は存在している。?
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他人から見たコギトと自分から見たコギトを考えてみる。
他人から見たコギトで言えば、
私が思うということは、私の存在を抜きにして合成することもできないわけではないだろう。
物質的基盤のないところに、意識だけを生成する可能性もないではないだろう。

自分から見たコギトは、
人間にとってあまりに自明な体験である自意識があるのだから、私は存在するということらしいが、自意識の作用があることと、私が存在するということとは明白につながるのだろうか。怪しい。
生きている我々が経験する範囲では、私が存在していなければ思考作用も自意識も存在しないだろうとは思う。
それは我々の存在の仕方としてそのような様子であるだけだ。
そしてそもそも、「私」が存在するとはどのような意味なのか。

幻覚妄想状態の時に、「私は、私が存在しないと考えている、私は試行しているのに、私は存在しない」と表現したとして、成立しないわけではない。常識には合わないが、表現はできる。

デカルトの時代は霊魂の問題とか、心身二元論がどうかというような時代だ。
霊魂を問題にするなら、身体的存在がなくても、思考はできるのだろう。だから、「われ思う、ゆえに霊魂あり」とは言えるのかもしれない。

コギト・エルゴ・スムで、主語は隠蔽されているのだが、「私」である。その私はなんであるか、謎が大きい。

自分が私であるとか、私が存在しているとか、錯覚や妄想かもしれない。しかしそれを検証する方法はないように思われる。だからそれは疑いようのない真実かと言えば、そんなことはない。確かめようがないが、間違いだということもあるのではないか。

自意識のことを自分の主観的体験として語るので話が不安定になる。

客観的観測として見ることはできるだろうか。自意識の主観的体験を測定することは難しいと思われる。言葉で聞くことはできるが、その言葉が錯覚や妄想でないことは確かめようがない。

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