アリストテレス以来続いている考え方として、人間を群れとして、ポリス的動物として、集団生活をするものとして考える。
どの動物がどの程度群生的かについては詳細は知らないが、人間の場合、孤独に生きていくには弱すぎて、群れて役割を分担して生きるようにしたほうが生きる確率が上がる。
しかしその場合、自分の集団内での位置とか役割が過剰に気になってしまう。最近の言葉で言えばマウントを取るなどと言うが、集団内での順位を確認したがる。
その習性の延長として、過剰に他人を気にする。他人が何をしているのか気になり、自分と比較したがる。比較しても大して利益はないが、気にしてしまう。気にして自分を良いほうに変えられるなら有益であるが、そんなことはあまりない。ただ気にして気に病んでいる。
また他人が自分をどう思っているのかについて過剰に気にする。気にするくらいなら、さっさと他人に立派だと思われるような自分になればいいのであるが、その努力はあまり熱心ではない。それなのに、他人からの視線はいつも過剰に気にしている。
こうした、他人のことが気になる、他人が自分をどう思っているか気になるという習性は群生動物では特徴的である。
そんなことを気にしているくらいなら餌を集めたほうがいいし、農作業をしたほうがいいのであるが、群生動物では、他人のことを気にして、他人が自分をどう思っているかを気にすることが、餌をどれだけ確保できるかに大きく影響することがある、だからいつまでも気になる。
しかしそうした習性は現代社会においてはさほど有効ではない。群生動物の習性は、スマホでSNSを常時眺めて反応することにつながっているが、現代社会はある程度豊かになっているので、他人をさほど気にしなくても生きていくには十分である。すぐに飢えてしまうようなこともないだろう。
それでも気になるのは古くからの習性と言う他はない。
中には不必要に過剰に他人を傷つけるものもいる。それも古い習性だ。一種の病気と言ってもいい。脳内の古い回路が支配している。
集団内の順位によって餌の配分やハートナーの配分などが違ってくることもあっただろう。自分の順位が高ければ、クジラのおいしい部分を子供に与えられる。それなら大いに気になるだろう。クジラを取ってくることは難しいが、クジラをどう分配するかの場面で、集団内で政治的にふるまうことは可能性が残されている。2000年代以降の日本のように、誰もクジラを取って来ない状況で、どうしたらいいのか分からず、たいした餌もないのに、相変わらず争奪戦を繰り広げている。ますます小さなことが気になる。