「自由」と「支配と服従」を考えてみる
自由と服従が対立概念のように考えられるが、
自由にも服従にも種類があって、簡単ではない。
「支配からの自由」は人間が根本的に求めるものだろうけれども、
支配から自由になってしまえば、価値の根源を自分自身の内部に求めるほかはなくなる。
それはかなり苦しいことだ。
いろいろな種類の規模の集団に所属することで、つまり服従することで、
不自由である代わりに、不安を解消できる。
それは幻想で妄想であるとしても、集団内で共有して、語り合い、歌を歌い踊りを踊ることで、
麻酔効果はある。
一方で、服従があるときに必然的に発生する支配は人間をとても喜ばせる。
群生動物である人間は、集団内での自分の立場に非常に敏感であり、
大抵の人間は、服従する立場であると同時に、支配する立場である。
中間管理職のようなものになる。
たとえば封建的家族主義の場合、国家に服従する必要はあるけれども、
家族内では家長として支配できる。
子供は親に逆らえないけれども、長男は次男に対して支配的にふるまうことができる。
細かな階層構造で見れば、支配の喜びが多少なりとも可能であるようにできている。
女性の立場は弱いけれども、年下の女性に対しては支配的にふるまうことができる。
例えば、ナチスの下でユダヤ人が迫害されたとき、ユダヤ人の内部にも階層が生じて、
他のユダヤ人を支配するユダヤ人が登場する。そこに生きる意味も生まれる。
大局的に見れば、そのような支配の喜びは微細なものと思われるが、
人間の心は、そのような小さな喜びのために、大きな自由を手放しても構わないと考えるようだ。
完全な自由は不安であるし、そもそもそんなものを夢想しても、現実社会では実現不可能である。
目の前に現実にあるものは、
局所的で些細な支配の喜びであって、多くの人間にとっては、それがあれば、生きるに十分である。
誰も根本的な思考はしないものだし、
目の前にいる人間を程度の差はあっても、いずれかの方法で支配できれば、
それでつかの間の心の安定は得られるのだろう。