「だが羨うらやましい身分だ」と甲斐は呟つぶやいた。
おのれが曲を作り、気ままに二絃琴をかなで、旅から旅へわたり歩く。恩愛もなく、身辺のわずらわしさもない。そうして、頭のなかでは、好ましい絵を描いている。すでに十幾幅ふくかの絵が、頭のなかにはっきりと描かれている。それらの絵は、人に見せることもできないが、決して悪評されることもない。それでいいのだ、と甲斐は思った。
――それが事実なのだ。
人は誰でも、他人に理解されないものを持っている。もっとはっきり云えば、人間は決して他の人間に理解されることはないのだ。親と子、良人と妻、どんなに親しい友達にでも、――人間はつねに独りだ。
樅の木は残った