うつ病の時にはうつ場面連続想起が起こり、
過去のうつ場面がマルチメディアファイルとして連続して想起される。それは画像も、超えも、味も、摂食感覚も、内臓感覚も伴った、マルチメディアファイルである。
しかしそれらはそれぞれに分離したものであって、それら全体を一つの物語として意味のまとまりのある物語として構成する働きが作用する。これをナラティブという。
フラッシュバックは断片的であるが、それらをまとめ上げて、一つのストーリーにまとめ上げて、一つ一つのフラッシュバックの意味付けを完成させる。フラッシュバックの意味も、人生の意味も、そのようにして固定してくる。
だが、考えてみなければならないのは、こうしたナラティブ、つまり、物語として全体を構成し、各部分については全体の中で意味を分担するように、つまり、整合された全体と部分が現れるのである。
本人はそのナラティブしかないと思っているだろうが、別の可能性もあるのではないかと考える。部品としてのフラッシュバックについては動かしようがない、一応、しかしここのフラッシュバックについても、記憶の改変の中で、変化することは知られている。
こうしてみると、部品としてのフラッシュバックも変更可能であるし、全体のストーリーとしてのナラティブについても変更可能であるということになる。
執拗なフラッシュバックに悩まされる場合に、こうした観点から考えれば、治療の可能性は開かれるようにも思える。
しかしそれは世間で言う洗脳と同じものだ。
治療目標ならばフラッシュバックの改変も、ナラティブの改変も許されるのか、そして、どのように改変して、最終的にどのような過去の思い出に収めるのか、それについては、治療者の顕在的または潜在的な関与が多きく影響すると考えられる。
また、フラッシュバックとナラティブの改変が、副作用をもたらさないという証拠はないだろう。その人の人生にとって大切なものを捨ててしまうことになる可能性もあるのではないか。それを自分で意識して納得して選ぶなら、苦しみ続けるよりはそのほうがいいとの選択を妨げるものではない。極端に言えば、昔の嫌な思い出はすべて消してしまいたいとの考えもあるだろう。全部消してしまえるならそれもよいではないか。今日から、新しい白板に人生を書き込むのである。しかしそんなことはできるはずもない。現状のテクニックでは、任意の記憶を変更したり、消滅させた李ができるわけでもない。
できることは、フラッシュバックは仕方がない、ただ全体のナラティブの中で、フラッシュバックの意味を変更することである。
例えば、父親は戦争で死んだ。それは悲しいことであったが、国を防衛するために命をささげ、子孫の我々が平和で生きられるのだから、非常にに意味のある戦士であった。父親は靖国で眠っているから、お参りに行きなさい。
というような物語である。
これで慰めを感じなさいというのだろうか。南方で戦闘のためではなく食糧不足のために死んでいった父親を、意味のある死だったとナラティブ変更したところで、何が慰めになるものだろうか。
それは極端な例であるが、傷ついたトラウマ体験の中にも、多面的な解釈を許容するものが確かにある。反対の見方も、斜めからの見方も、可能である。そのようにして解釈の幅を広げることは、確かに人間精神の成熟である。人間として価値のあることだ。トラウマ体験に新しい光を当てる。それは良いことだ。フラッシュバックの抑圧だけを目指いよりも、ずっといい。フラッシュバックの中にも、積極的な意味もあるのではないかと探ること。そのような積極的な意味を探る努力の一つ、大切な一つが、ナラティブの構成である。
ナラティブの典型的な様子としては、絵本である。子供の絵本は、物語の一場面一場面を断片的に描いているに過ぎない。しかし絵本全体には物語がある。挿絵がフラッシュバックにあたり、全体の物語でナラティブに相当する。
同じ絵本でも、違うナラティブを構成することができる。桃太郎の話でも、工夫すれば、別のナラティブが可能である。鬼も幸せになる話だってできないこともないだろう。
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フラッシュバック全般に、そしてとくにうつ場面連続想起について解決がないものかと思っている。
意識状態と関係づけて整理すると、明確に区別できるわけではない。
そして半覚醒状態のアイディアをもとにして明晰状態の意識活動が進行することもある。
(1)明晰意識状態・・現実的な対応。理性的な創造性。
(2)半覚醒状態・・この状態でフラッシュバックが起きやすい。また創造的な発想が出やすい。
(3)睡眠状態・・夢の中で創造性を発揮することがある
不愉快なフラッシュバックを抑制するためには、半覚醒状態を回避すればよい。明晰状態に持っていくか、いっそのこと寝てしまうかで、フラッシュバックは回避できる。