当たり前のことが当たり前にできない不自由な世界をどう生きるか? 高次脳機能障害
青年層の貧困当事者は、困ったパーソナリティの人が多いということをよく感じていました。取材の約束を取り付けても何時間も遅刻する、リスケを何度も繰り返す。
ほかにも、優先順位をつけることが極端に苦手で、今やらなければならないことを決められずに全く違うことをやってしまう人にも多く出会いました。そういう人は、結果的に仕事がうまくまわらなくなり、逃げるように仕事を辞めてしまいます。
そういった姿を目の当たりにして、「これでは貧困に陥るのも仕方がない」というような気持ちになりました。
──9年前に脳梗塞を患い、その後遺症として脳に障害が残りました。その障害によって、貧困層の人に対して抱いていた違和感を身をもって体感することになったとあります。
高次脳機能障害という脳の認知機能障害を負いました。
脳梗塞を起こした直後の私は、あらゆる場面で自分をコントロールできなくなっていました。当たり前のことができないどころか、現実感を得ることすら困難でした。想像しにくいかもしれませんが、「自分で自分をコントロールする」感覚すら失われていました。怒濤の違和感の渦中に放り込まれたかのようでした。
具体的な例として、病棟内のコンビニでの買い物で、会計の際にレジに表示された金額を財布から出すことに四苦八苦したことが挙げられます。
このとき、『最貧困シングルマザー』で紹介した元看護師の女性と自分が全く同じ状態だということに思い当たりました。
彼女もまた、お金の計算にひどく悩まされていました。買い物に行き、レジに表示された値段を見て財布からお金を出そうとすると、自分が出すべき金額を忘れてしまっている。そこで、レジに表示された数字をもう一度確認して財布の中をのぞくと、また金額を覚えていないことに気付く。
彼女が言っていたことは、まさに今の私と同じだという猛烈な「気付き」が立ち上がってきたのです。
もう一つ、当時の私に出ていた症状に、何かに注意をひかれて視線を一点に固定してしまうと、そこから目が離せなくなってしまうというものがありました。
人と話をするときに、人の目をずっと瞬きもせずに見ていたら、気味が悪いと思われるでしょう。高次脳機能障害発症直後の私は、話している相手の顔の特徴的な部分、たとえばほくろなどが気になると、そこばかりを凝視してしまい、視線を外すことができなくなっていました。
ようやく視線を剥がせたとしても、今度は右上の空中に視線が固定されてしまいます。これは、注意障害の一種です。
ヒサくんという、まさに同じ症状の子がいました。彼もまた何かを見たら目線が外せない、何とか剥がしたら今度は空中で止まってしまうという視線の持ち主でした。
そういう目線なので、仲間たちにすごくいじられていて、不良の裏稼業の世界でも最底辺の位置にいました。
ヒサくんと同じ症状が出たときに、私の頭の中に彼の顔が浮かんできました。「ヒサ、俺、やっとお前のことがわかったよ」と思いました。
私の場合は、高次脳機能障害を患ったときに、もちろん違和感もありましたが、「これまでの取材対象者と同じだ」「やっと彼らを代弁できる」という興奮があったことも確かです。
──書籍に登場した女性が、自身のことを「頭の中の紅茶にミルクを落としたみたい」と表現していました。
あれは、視界が濁るというような状態ではなく、頭の中の思考に霧が下りるようなことを表現したかったのだと思います。
人間は会話をしながら、次は何を言おうか、これを言ったら相手はどんな対応をするだろうか、それに対して自分はどう答えようかという脳内シミュレーションをしています。「頭の中の紅茶にミルクを落としたみたい」な状態でそういったシミュレーションをすることは困難です。
必死に人の話を聞こうとしているのに、全く理解ができない。言うべきことを考えているのに思考がまとまらない。そういう状態を彼女は言っていたのでしょう。
私の場合は、日本語の文章の意味がわからないという症状がありました。文章を構成する一つひとつの単語はわかるのですが、それらが連なっているとその文章の意味が理解できないのです。
人との会話でも同じことが起こります。日本語だということはわかっている、単語の意味はわかる。にもかかわらず、文章の意味が頭に入ってこないのです。
──自分の視線をコントロールできない、お金の計算ができない、文章が読めない、会話が続けられないなどの脳の状態を総括して「不自由な脳」「働けない脳」と表現していました。
正確に言うのであれば、「脳の情報処理機能が失調している」ということです。
基本的に脳は情報を入力して処理をし、出力する臓器です。そう言うと、脳内で何か特別なことが起こっていると思うかもしれませんが、そんなことはありません。
例えば、ある場所に行って、周囲の環境の情報を得て、それらを統合して「これは現実だ」という感覚を抱く。会話を理解して、自分がとるべき行動を選択する。
そういったあらゆる日常の「当たり前」の情報を脳は処理しています。脳の損傷によって脳の情報処理機能の失調が引き起こされると、「当たり前」のことができなくなります。それにより、人は「不自由」かつ「働けない」状態に陥ってしまうこともあります。
貧困層に働けない脳の人が多いというのは結果論です。脳が不自由になると、多くの人は仕事を継続するのが困難になります。その結果、家族資源や預貯金などさまざまな資源に恵まれない者は必然的に貧困に陥ります。
──働けない脳の当事者に伝えたいこととして、当事者自身が二つの自己理解を立ち上げることの重要性に言及していました。
一つ目の自己理解では、自身の起きている不自由な状況の原因が「脳の情報処理機能が低下している状態にある」ためだということを理解します。
そしてその延長として、自分の脳に合う対策を考えていく必要があります。頭の中で考えたことがどんどん消えていってしまう症状であれば、とにかく徹底して文字に書き出す。あらゆる行動や思考をフローチャート化する。できないことは積極的に他者に依存する。
不自由な状態に対し「対策が可能だ」とわかっているだけでも、だいぶ気が楽になると思います。
二つ目の自己理解は、不安から脱却すればその不自由が大幅に緩和されると理解することです。
働けない脳になってしまったとき、とにかく一番まずいのは、自分の脳がうまく働かない状態の原因がわからず、今後どのように生きていけばいいのだろうと混乱と不安に陥ってしまうことです。
不安の心理があるだけで、本来できていることまで一気にできなくなってしまうことは、不自由な脳を持つ者の最大の共通症状です。そういう状況を回避するためにも、「自分の不自由は脳の情報処理機能が低下しているために生じている」「この不自由には対策が可能だ」という理解をし、不安を除去することが大切です。
不安を取り除けば、抱える不自由は本来自身の脳が失っている情報処理力の範囲に収まり、対策可能な範囲も大幅に増えます。ですので、まずは1つ目の自己理解である「症状理解」をし、その次に「不安解消のメリット理解」をしていく必要があります。
とにかく、自罰しないでください。
働けない脳の人のほとんどが、もう頑張りつくしている状態です。それなのに、自分の頑張りが足りないと思っている人が大多数だと思います。まず、「自分はまだまだ全然頑張れていない」という自罰はやめてください。
「働けない脳」は他者から見えないものであると同時に、自分自身でも見ることはできません。「働けない脳」の状態は、脚の骨が開放骨折をしていて、骨が出て、血も出ているようなものです。
「働けない脳」のまま、平常時と同じように生きようとすることは、ぐしゃぐしゃに折れた脚で普通に歩き続けることと同じです。いかに無茶なことかおわかりいただけるかと思います。
「働けない脳」になってしまった場合は、いったん立ち止まることが重要です。仕事や家事、学業を休んで、休養をとる必要があります。脚の怪我がそうであるように、「働けない脳」にも治療や休息が必要です。
休息して、「働けない脳」への対処法を考えたり、誰に支えてもらえばできることが増えるのかを試行錯誤してみたり。そうすれば、ゆっくり歩けるようになります。支えがあれば、通常の場合と遜色ないパフォーマンスが可能になるかもしれません。
ですから、「働けない脳」の人にお願いしたいことの二つ目は、そのまま歩き続けようとしないでください、ということです。
また、私は働けない脳になって「こういう症状です」「これが難しくてできないです」ということを、これまで何冊も本にして発信してきました。その過程で、多くの当事者の方から共感の声をいただきました。そのほとんどがホワイトカラー層の方でした。
家族資源に恵まれなかった人、教育資源にアクセスできなかった人のみが「貧困層」「働けない脳」になるというわけではありません。「働けない脳」になり、貧困に陥る可能性は誰にでもあります。
一方、過去の著作への読者からの反応で驚いたのは、PTSD診断があったり、PTSD様の症状を持っていたりする方が、「その不自由は私のものと同じだ」という共感の声を想像以上に多く寄せてきたことでした。
エビデンスベースではありませんが、暴力や過酷な体験、職場でのハラスメントなど、強いストレスでメンタルを壊した人の脳は、私のように後天的な高次脳機能障害を負った人の脳と近しい状態になっているのかもしれません。
今まで努力と労働を継続してきたホワイトカラーの方も「働けない脳」になるリスクを有しているという点を、頭の隅に置いておいていただきたいと思います。