ゲームのルールはすでに変更されたようである。野球で、三回空振りをすればアウトになるのは昔のルールである。現在のルールは三回空振りをすればホームランになる。投手がどんな難しい球を投げても、三回空振りをすれば価値である。権力者は、注意深く、ボールが当たらないようにバットを振ればよい。そのようなゲームをしているのだと考えれば理解できる。
兵庫県知事問題。第三者委員会の文書が出されても、まだなお、いろいろな意見があると強弁する。もちろん、誰も納得しない。どんどん、注意深く、空振りをしている。
昔の菅官房長官流の答弁であるが、会見の設定も違うし、質問者の性質も違う。だから通用しない結果となっている。脱構築的答弁。
彼に関係しての新立法が国会で可決成立している。
事態の全体が理解を超えている。それにもかかわらず、現実は極めてゆるゆると進行している。
なぜ空振りばかりしているのだとマスコミ各紙は書く。
上司とそのまた上司の身勝手な行為によって、望まない行為を強制され、耐え切れず命を絶った財務省職員の報道はまだ記憶に生々しい。これを先例として、同じ軌道を辿っていると見える。
権力者の身勝手に従う代わりに、自身の利益、栄達を確保した上司に見習うしかなかったのだろうかとも思うが、それではあまりに虚しい。水が濁ったら靴を洗えばいいというのか。泥水も飲めということか。
安倍、二階が退場し、菅氏の状態も思わしくないのだろうか、その一派の失速が見えはじめている。安部、二階、菅の負の遺産だ。
こんなにも自尊心を傷つけてしまったら、早く退却しないと出血多量になる。こんな傷にも平気な人間精神があるのだろうか、信じがたい。
そう考えると、守りたい自尊心の焦点が違うのだろうと思う。
タレントが政治家になることはあるが、政治家がタレント風に生きることもあるということと見える。何を守りたいかのポイントがずれているので、どんな攻撃も作戦も通用しない。
論点ずらしのゲームを実行しているだけである。こうすれば権力側は逃げ切れると安倍、二階、菅が実証して遺産として残した。
民主主義的運営の形式は微妙に、壊しきってはいない。十分に壊しているが、壊しきってはいないということなのだろう。
選挙そのものが大きく毀損されている。その点で民主主義は十分に大きく損傷されている。
たとえば、空振りをすればストライクになる野球ゲームをしているようなものだ。
空振りは自由にできるのだから、記者会見では、どんな球を投げても、権力者は自ら空振りをするだけである。
権力者側は、それほど強力な立場にある。
空振りはみっともないとか、自尊心が許さないとか思うなら、勝負になって、民主主義になる。
しかし空振りをして勝つと思うなら、どうしようもない。選挙で勝つしかないのが現実である。
県民は、幸福になる権利を傷つけられていると思うが、県民が自分で選んだのだから、最終的にはそれが幸せなのだと民主主義的に考えるしかない。
短期的に考えず、長期的に、民主主義的プロセスを大切にして、政治的立ち直りを期するしかない。
次の選挙では勝つという方針しかない。
ネット選挙と騒いでいるが、仮にそうだとして、ネット選挙はブラックボックスでもないし、勝てばいいだけだ、相手にその作戦があるなら、研究すれば取り込んで、乗り越えることもできるだろう。それができないなら、次も負けても仕方がない。プーチン状態になる。民主主義の、制度としての敗北である。
リコールもできないなら、自分の地域の県会議員などに働きかけて、県議会を動かすしかないだろう。