荀子(じゅんし、紀元前313年? – 紀元前238年?)は、中国戦国時代の思想家・儒家の代表的な人物の一人です。本名は荀況(じゅんきょう)とされ、趙の国(現在の中国河北省)の出身と伝えられています。彼は儒家の思想を発展させるとともに、「性悪説」を唱えたことで特に有名です。
1. 生涯と時代背景
荀子が生きた戦国時代(紀元前475年 – 紀元前221年)は、中国が多数の国に分かれて争っていた混乱の時代でした。儒家だけでなく、道家(老子・荘子)、墨家(墨子)、法家(商鞅・韓非・李斯)などのさまざまな思想が生まれ、「諸子百家」と呼ばれる学派が活躍しました。
荀子は、斉の国の「稷下の学宮」(しょくかのがくきゅう)で学び、儒学を深めました。これは当時、学問の中心地の一つで、多くの学者が集まる場でした。彼は斉・楚・秦などを巡り、特に楚の宰相(高官)として仕えましたが、政治の場では成功を収められず、最終的には失脚して晩年を過ごしたとされています。
2. 思想
(1)性悪説
荀子の最も有名な主張は「性悪説」です。これは「人間の本性(性)は悪であり、善は後天的な努力によって獲得される」という考え方です。
- 孟子の性善説との対比
- 孟子(前372? – 前289?)は「人間は生まれつき善であり、環境がそれを損なう」とする「性善説」を唱えました。
- これに対し、荀子は「人間は生まれつき欲望を持ち、それを放置すれば争いが生じる。だからこそ教育と礼によって矯正しなければならない」と主張しました。
- 教育と礼(制度)の重要性
- 人間の本性が悪であるからこそ、社会の秩序を保つためには「礼(社会規範・道徳)」と「学問・教育」が不可欠であると説きました。
- 彼の思想は、後の法家(特に韓非子)に大きな影響を与えました。
(2)礼治主義
荀子は、孔子の「礼」を重視する考えを受け継ぎ、「礼による統治(礼治)」を提唱しました。しかし、彼は孔子や孟子のような「人の徳」による統治ではなく、制度化された「礼」によって社会を規律することを重視しました。
- 「人間の本性は悪だからこそ、規範(礼)を整えることで社会秩序を保つべきだ」としました。
- これは後の儒家と法家の架け橋となる思想であり、法家の理論にも影響を与えました。
(3)天と人間
荀子は、「天(自然界)と人間の関係」についても独自の考えを持っていました。
- 彼は「天(自然現象)は人間とは無関係であり、人間は努力によって運命を切り開くべきだ」と考えました。
- これは、天命を重視した孔子や孟子の思想とは異なり、現実的・合理的な考え方です。
3. 著作
荀子の思想は『荀子』という書物にまとめられています。これは32篇からなる大著であり、以下のような代表的な篇があります。
- 「性悪篇」 – 性悪説を詳しく論じた章
- 「王制篇」 – 理想的な政治制度について
- 「儒効篇」 – 儒家思想の優位性を主張
- 「天論篇」 – 天(自然現象)と人間の関係についての考察
この書物は、後の儒教・法家思想に大きな影響を与えました。
4. 荀子の影響
荀子の思想は、後の思想家や政治家に強い影響を与えました。
(1)韓非・李斯と法家
荀子の弟子には、韓非(韓非子)や李斯がいます。彼らは荀子の思想をもとに「法家」を発展させ、秦の始皇帝の政治に大きな影響を与えました。
- 韓非子:法家の理論を発展させ、「法と権力による統治」を強調。
- 李斯:秦の宰相として、法家の思想を実践し、秦の統一に貢献。
このように、荀子の思想は儒家でありながら法家にもつながる要素を持っていました。
(2)後の儒教への影響
漢代(前漢)の儒学は、基本的に孟子の性善説を受け継ぎましたが、荀子の「礼を重視する思想」も影響を与えました。特に、漢の董仲舒(とうちゅうじょ)が儒学を国家の正統思想として確立する際、荀子の「礼による統治」の考え方が取り入れられました。
5. まとめ
荀子は、戦国時代の儒家の思想家でありながら、孟子とは対照的な性悪説を唱え、「人間の本性は悪であるからこそ、教育と礼によって矯正すべきだ」と主張しました。この思想は、儒家だけでなく法家にも影響を与え、韓非や李斯といった法家の巨頭を輩出しました。
彼の『荀子』は、後の儒学や政治思想に強い影響を与え、中国思想史において極めて重要な位置を占めています。
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コトバンク 日本の辞書・事典サイトで、荀子に関する複数の辞典の解説をまとめて参照できます。
中国哲学書電子化計画 荀子の原文や訳文を閲覧できるサイトです。原典に直接触れたい場合に有用です。
君子曰:學不可以已。青、取之於藍,而青於藍;冰、水為之,而寒於水。
学は以て已むべからず。青は之を藍より取りて藍よりも青し。氷は水之を為して、水よりも寒(つめた)し。
一般には「青は藍より出て藍より青し」、あるいは「出藍の誉れ」として引用される。染料の青は藍(あい)の草から取るが、その色は藍の草よりも青い。氷は水から成るが、水よりも冷たい。その意味は、人間は努力することによって元の自分よりもより高い存在に改造することができる、ということである。荀子はこのたとえによって、君子が自然な低い存在から進んで自らを高め、自然なままの存在である一般大衆を指導する手本となるべきことを説いている。荀子は性悪説の立場にあって、生まれたままの人間はすべて例外なく欲望することしかできない愚かな存在であると考える。しかし人間は、学んで自らをより高い状態に改善する能力もまた持っている。君子とは、志を持って学び自らを凡人から飛び抜けて偉大な状態に押し上げた者を指すのである。
付け加えると、この言葉は「生徒が先生を越えて偉大になること」という意味で引用されるのが普通である。だが、この引用は荀子の原義から外れている。
これはもともと、藍を加工することで青色がさらに際立つことから、人間も人為的なルールによって教育されることで良くなるという、荀子の言葉である。
「人の本性は不定なり」は、人間の性質は定まっておらず、環境によって変化することを意味しています。
雩(う)して雨ふるは、何ぞや。曰く、何も無きなり。猶お雩せずして雨ふるがごときなり。
荀子の合理的自然観を示す痛快な一句である。雩(あまごい)をして雨が降るのは、雩せずに雨が降ることと何の違いもない。雩のような天に祈る儀式は単なる政治の装飾にすぎず、祈りの効果を信じている無知な人民に付き合っているにすぎない、と言い切る。
人の性は悪、其の善なる者は偽(い)なり。
道に従いて君に從わず、義に従いて父に従わざるは、人の大行なり。
荀子の合理的な倫理思想が明確に現れた言葉。君主に従うことよりも、親に従うことよりも、正道と正義に従うことを優先せよと言う。君主に従わず親に従わないことを正当化する、他の儒書には見られない大胆な主張である。
故不登高山、不知天之高也、
不臨深谿、不知地之厚也、
不聞先王之遺言、不知学問之大也。
干越夷貉之子、生而同声、
長而異俗、教使之然也。
故に高山に登らざれば、天の高きを知らず、
深谿に臨まざれば、地の厚きをしらず、
先王の遺言を聞かざれば、学問の大なるを知らざるなり。
干越夷貉の子、生まれたるときは而ち声を同じくするも、
長ずれば而ち俗を異にするは、教へ之をして然らしむるなり
ところで、高い山に登ってみなければ天の高さを知ることはできず、
深い渓谷を間近に見てみなければ大地の厚さを知ることはできず、
古代に聖王の残した言葉を聞いてみなければ、学問の重大さを知ることはできないものである。
干や越、夷や貉といった異民族の子供らは、生まれたときは同じように産声を上げるが、
成長すれば異なった風俗を身に付ける、これは教育がそうさせているのである。
君子博学而日参省乎己、
則智明而行無過矣。
君子博く学びて日に己を参省せば、
則ち智明らかにして行ひに過ち無し。
君子は幅広く学んで一日に我が身を何度も振り返るならば、
物事に通じ行動を誤らなくなるものである。
信仰や神を語らず、合理的に考える流儀はすでにあったが、自然科学的思考にまで洗練されるまでには至らず、ギリシャからイスラムを経由して西洋に自然科学主義が定着するほうが先だった。
なぜと言って、不思議であるが、多分、アラビア数字の使用など、ほんの少しのことだったような気もする。
しかしそのことも、シルクロードでつながっていたのであるら、中国としても、どの時代にもイスラムの文化と接点はあったはずだ。
西洋は、イスラムを進んだ文化として受容した。中国は、イスラムを珍しいだけの文化として処遇した。
儒教などでみられる、徳を強調する教えが大人の教養であって、イスラム伝来の知識など、それに及ばない二流のものと考えられたのではないかと思う。
紙、印刷術、火薬、羅針盤などが中国で発明された。しかし、そこから自然科学にまでは至らなかった。
例えば、漢方医学は、西洋医学に及ばない。数々の旧弊な思い込みが支配している。陰陽の説など。
実験で決めようという精神に至らなかった。
今振り返れば不思議なのだが、やはり中国は自分たちが一番優れている、知恵のいちばん大事な部分は道徳であり、政治である、そんな考えがあったのではないだろうか。
一方で、西洋にしても、錬金術とか魔術、魔女とかいろいろと怪しげなものに何世紀も耽溺していたのだから、未開の文明が続いていた。
しかしなぜだか、ある時から、論争していても仕方がない、実験で決めよう、という考えが定着した。
天体観測の蓄積ができて、ついにニュートンが登場、ライプニッツとともに数学の時代を切り開いた。西洋の圧倒的優位の時代が始まった。
なぜ中国で、西洋のような自然科学と数学が発達しなかったか、いろいろな考察があると思う。
ニュートンは物理学と数学の大功績を成し遂げた後、歴史の法則解明に着手して、成果なく死んだらしい。
ひょっとすれば、マルクスと並ぶような発見を残せたかもしれない。残念なことである。