第1章:モデルの概要
メンタライゼーションとMBT(メンタライゼーションに基づく治療)の歴史
はじめに
- なぜ、人は相手の気持ちを直感的に理解できるのか?
- 例えば、パートナーの表情を見て「今日は仕事で大変なことがあったのかな?」と感じることがある。
- あるいは、親しい友人同士が言葉を最後まで言わなくても会話が成立することがある。
こうした「相手の心の中を推測する力」について、哲学者たちは何千年もの間、考え続けてきた。
また、小説家や詩人、歌手などのアーティストたちは、「他人の心の中にいるような感覚」を作品として表現してきた。
- 20世紀以降、心理学者たちは実験を通じて「人の心の働き」を解明しようとした。
- しかし、日常生活の中で私たちは**自然に「他人の心について考える」**ことをしている。
- それは「自分の考えや感情」を振り返ることと同じくらい重要なことだ。
この「心について考える力」には、さまざまな名称がある。
- 「心的状態の推測(mental-state inference)」
- 「心の理論(Theory of Mind)」
- 「意図的スタンス(Intentional Stance)」
- 「反省的機能(Reflective Functioning)」
- 「メンタライゼーション(Mentalizing)」
これらの概念はすべて、目に見えるもの(物体や身体の動き、表情など)とは異なる「心の中の世界」を理解する能力を指している。
この**「他人の心について考える力」**は、
- 社会的な交流
- 文化
- 道徳
だけでなく、 - 政治
- 宗教
- 技術(テクノロジー)
など、さまざまな分野にも深く関わっている。
**メンタライゼーションに基づく治療(MBT)**では、
- この「心を理解する力」をもとに、精神的な問題を整理し、治療の方法を考える
- その結果、新しい形の心理療法が生まれた
メンタライゼーションとは何か?
私たちは普段から「心の状態」について考えている。
例えば、
- 「相手の意図」(何をしようとしているのか?)
- 「相手の信念」(何を信じているのか?)
- 「冗談や皮肉」(本気なのか?冗談なのか?)
- 「知識」(何を知っているのか?)
こうした「心の状態」について、**ドイツの哲学者フランツ・ブレンターノ(Franz Brentano)**は、
「心の状態は、常に何かを対象としている(=何かについて考えている)」と指摘した。
また、「心の状態」は、
- 「私は〇〇だと思う」
- 「私は〇〇を信じている」
といった**「自分の考えを表す表現」**と一緒に使われることが多い。
これは、「心の中の考えは目に見えないため、それが本当に正しいかどうかは分からない」という特性を持っているからだ。
しかし、目に見えなくても「心の状態」は、人間の行動を大きく左右する。
「誤った信念」が生み出す影響
- 人間の「信念」は、行動に強い影響を与える。
- しかし、その信念が「間違っていた」としても、人々の行動を変えてしまうことがある。
実例:魔女狩り
- 1810年、ポーランドのレシェルという街で、ある女性が魔女として処刑された。
- 3年前、その街で大きな火事が発生したが、原因が分からなかった。
- そこで、「以前から魔女だと噂されていた女性」が犯人だと疑われ、拷問を受けた。
- 彼女は罪を認めなかったが、裁判で有罪とされ、火あぶりの刑に処された。
- この判決は当時のプロイセン王(ドイツ)にまで報告されたが、判決は覆らなかった。
これは「誤った信念(=この女性が魔女である)」が、一人の命を奪った例である。
こうした「間違った考え」による被害は、歴史上で数多く繰り返されてきた。
人間の「心の中で生まれた考え」が、時にとても大きな影響を及ぼすことが分かる。
MBTの目的
この本では、
- **「人間の心が、他人の心の内容にどのように影響を受けるか」**を考え、
- それを「精神疾患の治療」に役立てる方法として、MBTを紹介する。
まず、MBTの基本的な背景(第1章・第2章)を説明する。
その後の章では、
- MBTの具体的な方法
- さまざまな患者グループへの応用
を、実践的に解説していく。
「心の理論(Theory of Mind)」と「メンタライゼーション」
- **「心の理論(Theory of Mind)」**という言葉は、約50年前に登場した。
- これは、「他人が間違った信念を持っているとき、その行動を予測できる能力」を指す。
- しかし、この概念が広がるにつれ、さまざまな実験や理論が「心の理論」という言葉の中に詰め込まれてしまった。
- そこで、「Theory of Mind」とは別に、**「メンタライゼーション(Mentalizing)」**という言葉が登場した。
「メンタライゼーション」という言葉は、2人の心理学者によって独立して提案された。
- ウタ・フリス(Uta Frith)
- 認知心理学の立場から、「自閉症の認知的特徴」を説明する際に使った。
- ピーター・フォナギー(Peter Fonagy)
- 精神分析の立場から、「境界性パーソナリティ障害(BPD)の対人関係の困難」について考える際に使った。
- 特に、**「他人の心の内容を考えることが苦痛で、時にはそれが全くできなくなる」**という現象に注目した。
このように、メンタライゼーションは「他人の心を理解する力」を示す重要な概念であり、
それを応用した治療法が**「メンタライゼーションに基づく治療(MBT)」**なのである。
MBT(メンタライゼーションに基づく治療)の誕生
BPD(境界性パーソナリティ障害)の治療の問題点
アンソニー・ベイトマン(Anthony Bateman)とピーター・フォナギー(Peter Fonagy)は、イギリスの医療現場でBPD(境界性パーソナリティ障害)の治療が効果を上げていないことに気づき、深刻に考えるようになった。
- 1990年代の調査によると、アメリカではBPDの患者の 97% が通院治療を受けていた。
- しかし、彼らは平均で 6人もの異なるセラピスト から治療を受けていた。
- さらに、治療開始から 2~3年後の追跡調査 では、
- 治療の効果はわずかにしか認められず、
- ほとんどの患者は改善しなかったか、むしろ悪化していた。
- これは、当時の心理社会的な治療が患者の回復を妨げていた可能性を示唆している。
マイケル・ストーン(Michael Stone)が行った長期追跡調査では、
- 患者の66%が回復するまでに、なんと20年もかかったことが明らかになった。
このような状況を受け、新しい治療法が必要だという考えから、1990年代にMBT(メンタライゼーションに基づく治療)が開発された。
MBTの特徴:実践的で柔軟なアプローチ
- MBTは「現場のニーズ」に応じて生まれた治療法であり、**非常に実践的(=効果を重視)**なアプローチを取る。
- MBTの**もともとのルーツは精神分析(心理力動療法)**にあるが、
- 他の治療法からも「効果がある」と思われる技法を自由に取り入れている。
- 逆に、メンタライゼーション(相手の心を理解する力)を妨げるような方法は慎重に避ける。
- 治療が逆効果になるリスクを最小限に抑えることが重要視されている。
メンタライゼーションとは「難しい作業」
MBTの基本的な考え方は、
**「メンタライゼーションは誰にとっても難しい作業であり、失敗することがよくある」**という点にある。
- 「心を理解すること」は、どんなに頑張っても、しばしば誤解を生む。
- 例えば、「愛」という感情を完璧に理解できる人はいるだろうか?
- 強い感情(怒り・悲しみ・喜びなど)は、メンタライゼーションを妨げることがある。
- 強い感情に流されると、相手の気持ちを正確に読み取るのが難しくなる。(詳しくは第2章で解説)
「他人の心を読むこと」は、そもそも難しい
メンタライゼーションが難しい理由の一つは、
**「人は、自分の本当の気持ちを隠そうとすることが多い」**からである。
- 私たちが手に入る情報は限られているので、相手の考えを正しく理解するのは簡単ではない。
- 時には、誤った推測をしてしまうこともある。
例えば、
- 「彼は、もっと上手に説明できるはずなのに、今日はうまく話せなかった。きっと緊張していたんだろう。」
- 「もしかすると、大勢の前で話すことにプレッシャーを感じていたのかもしれない。」
このような**推測(相手の心を読むこと)**は、日常生活でよく行われている。
- しかし、状況が複雑になると、こうした推測はどんどん難しくなる。
- 「Aさんは、Bさんについてどう思っているのか?」
- 「Bさんは、AさんとCさんの関係をどう理解しているのか?」
- 「Aさんは、私がBさんをどう思っていると思っているのか?」
- こうした**複雑な「心の読み合い」**になると、誤解が生まれやすくなる。
「絶対に正しい」と思い込むのは危険
MBTの重要なポイントの一つは、
- 「自分が100%正しく他人の気持ちを読めている」と思わないこと
- むしろ、「もしかすると間違っているかもしれない」という謙虚さを持つことが大事
「メンタライゼーションがうまくいっていない状態」を見分ける一つの指標は、
- 「自分の考えに対して、強い確信を持ちすぎていること」
例えば、
- 「絶対にこの人はこう思っている!」
- 「彼は絶対に私のことを嫌っているに違いない!」
このように「確信しすぎること」は、実はメンタライゼーションがうまくいっていないサインである。
- 逆に、「もしかしたら違うかもしれない」という視点を持つことが、
より正確なメンタライゼーションにつながる。
まとめ
- 1990年代、BPDの治療法はほとんど効果がなく、新しいアプローチが求められた。
- この課題に対応するために「MBT(メンタライゼーションに基づく治療)」が開発された。
- MBTは実践的なアプローチであり、「効果がある技法」はどんなものでも取り入れる柔軟性を持っている。
- メンタライゼーションは、そもそも誰にとっても難しい作業であり、失敗しやすい。
- 特に「強い感情」や「複雑な人間関係」は、メンタライゼーションを困難にする要因となる。
- 「相手の気持ちを完璧に理解できる」と思い込むことは、逆にメンタライゼーションの失敗を招く。
- 「自分は間違っているかもしれない」という謙虚さを持つことが、メンタライゼーションを正しく行うための鍵となる。
結論(Concluding Remarks)
まとめると、私たちは一見矛盾したことを言っているように思える。
- メンタライゼーションはとても身近で、日常的なものである。
- 私たちは皆、常にメンタライゼーションを行っている。
- 「自分がメンタライゼーションをしている」と意識したことがなくても、実際には誰もがそれを使って生活している。
- しかし、メンタライゼーションは非常に複雑で、多面的なプロセスでもある。
- 誤解や思い込みが生じやすく、失敗することも多い。
- 時には意識して注意深く行う必要がある。
この矛盾こそが、「人間の意識」のパラドックスといえる。
- 意識の本質やその複雑さは、哲学や科学における大きな未解決の謎の一つである。
- しかし、私たちは普段、意識を特別に意識することはない。
- 例えば、週末の予定を立てたり、隣人がなぜあんなに迷惑なのか考えたりするときにも、自然にメンタライゼーションを使っている。
- つまり、私たちは社会の中で生きるために、無意識のうちにメンタライゼーションを活用している。
次の章(第2章)では、さらに詳しくメンタライゼーションについて説明する。
- メンタライゼーションの異なる側面(=さまざまな「次元」)とは何か?
- メンタライゼーションが「機能しなくなる(=オフラインになる)」とき、人はどのように考え、行動するのか?
- なぜメンタライゼーションを理解することが、精神病理(心の病気)を理解する助けになるのか?
こうしたテーマについて、深く掘り下げていく。
References
- Brentano F. Psychology from an Empirical
Standpoint. London, UK: Routledge,1973/1874. - Dennett D. The Intentional Stance.
Cambridge, MA: MIT Press,1987. - Frith U. Autism: Explaining the Enigma.
Oxford, UK: Blackwell, 1989. - Fonagy P. On tolerating mental states:
theory of mind in borderline patients.
Bull Anna Freud Centre 1989; 12: 91-115. - Lieb K, Zanarini MC, Schmahl C et al.
Borderline personality disorder. Lancet
2004; 364: 453-61. - Stone MH. The Fate of Borderline
Patients: Successful Outcome and
Psychiatric Practice. New York, NY: The
Guilford Press, 1990.