この文献は、ナルシシズムという概念を、精神分析学とグノーシズムという二つの異なる視点から深く掘り下げた論考です。第一章では、フロイトやサロメ、グランベルジェ、コフートといった精神分析家たちの議論を基に、ナルシシズムの起源を幼児期の自己・他者融合の状態に求め、それが喪失された後の自我理想の形成や、病的なナルシシズムの様相について考察します。第二章では、古代末期の宗教思想であるグノーシズムにおけるナルシシズムのモチーフを、特にマンダ教の神話を通して分析し、自己と世界の分離、救済の概念との関連性を探ります。この二つの異なる角度からの考察を通して、ナルシシズムという現象の多層的な構造と、人間の根源的な欲動に迫ることを目的としています。
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- 精神分析学におけるナルシシズム論と、グノーシズムにおけるナルシシズム論
- ナルシス神話について、その起源、内容、そして複数の思想家による解釈。
- 「自己愛と他者」について。
- 「自己愛と他者」について。
- 「グノーシズム」について。
- 要約
- ナルシシズム研究ガイド
- 用語集
- ナルシシズムとは何ですか?
- 精神分析学におけるナルシシズム論の主要な論者は誰ですか?彼らはナルシシズムをどのように捉えていますか?
- 「自我理想」とは何ですか?それはナルシシズムとどのように関連していますか?
- ナルシシズムは常に病的なものですか?病的なナルシシズムはどのような特徴を持ちますか?
- ファロスはナルシシズムにおいてどのような意味を持ちますか?
- グノーシズムにおけるナルシシズム論は、ギリシア神話や精神分析学のそれとどのように異なりますか?
- グノーシズムにおける「闇の世界」と「光の国」とは何を指しますか?人間の救済はどのように達成されると考えられていますか?
- ナルシシズム論は、現代社会においてどのような意義を持つと考えられますか?
精神分析学におけるナルシシズム論と、グノーシズムにおけるナルシシズム論
この資料では、ナルシシズム論が多角的に議論されています。大きく分けて、精神分析学におけるナルシシズム論と、グノーシズムにおけるナルシシズム論の二つの章で展開されています。
第一章:精神分析学におけるナルシシズム論
この章では、まずナルシスの神話が、自分の姿への恋慕とそれによる苦悶の末の死という、人間の根源的な性愛(リビドー)の物語として紹介されています。ナルシスが愛したのは鏡に映った自分の像であり、本来の自己(Selbst)を見出すことはなく、むしろ鏡像への恋着は自己愛とは逆の自己解体へと向かう可能性が示唆されています。自己存在感の希薄さ、つまり乏しい生命感情がナルシスが悪を引き起こす所以であるという問いが提示されています。
続いて、ルー・アンドレアス・サロメのナルシシズム論が考察されます。サロメは、ナルシスが自然の鏡(水面)に映る自己と同時に他者をも見ていた可能性を指摘し、ナルシスの恍惚は自己陶酔による一体感への願望から、憂鬱はそれが果たせない孤絶感から生じると考えました。サロメは、この自己陶酔と自己抑鬱のあいだを揺れ動く動態を「ナルシシズムの両面性」と名付けています。
フロイトとサロメの間にはナルシシズムの捉え方に違いがあります。フロイトは、ナルシシズムを性的欲動(リビドー)が自己に向かう状態であり、自我がある程度形成されていなければ生じないとしました。彼は、ナルシシズムを口唇期の乳児が自他の区別なく自分の身体に満足している「自体愛(Autoerotismus)」とは必ずしも同義ではないとします。一方、サロメはフロイトの言うナルシシズムを乳児の「自体愛」と同じとみなし、乳児の対象(特に母親)との一体感、つまり「始原的な融合状態」がナルシシズムであると解釈しました。
この「始原的な融合状態」は、精神分析家のグランベルジェによって、母親の胎内や懐を「大海」に喩えた「大海感情(sentiment océanique)」として捉えられます。これは、胎児や乳児が母親と一体であり、全能感を満喫している状態の隠喩であり、時間的には「完全な恒常的状態(homėostase)」と表現されます。サロメやグランベルジェによれば、このようなナルシシズム的なあり方は、生涯を通じて潜在する生の願望であり、その実現は死に近いものと考えられています。
ナルシシズムは対象との関係性を持つものであり、その反対は対象との関わりがないことではなく、対象愛が欠けていることであると指摘されています。乳児にとって他者は自己のための存在であり、ナルシシズムには所有への渇望が潜んでいます。グランベルジェによれば、ナルシシズムにおいては自己は自己であり続け、相互性がないとされます。
フロイトの言う「一次的ナルシシズム」(乳児の自体愛)が失われるにつれて、それを再獲得しようとする努力が生じ、「自我理想」として投影されます。自我理想は、喪われたナルシシズム的状態の代理であり、精神的外傷に対する防御メカニズムです。グランベルジェは自我理想を子供が自分を測る目安となる存在として「真のオイディプス」と名付けています。コフートは、実在の両親に自我理想の役割を見出し、幼児の対人関係を自己を映し出す鏡像と捉え、「自己・対象」と名付けました。歪んだ鏡像や不十分な自己対象は、病的ナルシシズムの原因となり得ます。自我理想は文化圏や個々の幼児によって異なりながらも、生涯を規定し続けます。
ナルシシズムは必ずしも病的ではありませんが、喪われた楽園の「代理」を見つけることに失敗すると、**病的な「人格障害」**となります。アルフォードによれば、病的ナルシシズムは対象への関心が乏しく、対象を自己の尊大さを映す鏡としてしか見なせない精神現象です。性的倒錯も、満たしえない融合願望を対人関係で満たそうとする虚しい努力と解釈されます。ボスは性的倒錯を、歪められた形ではあるものの、愛の世界内存在の可能性に到達しようとする現れと捉えています。病的ナルシシズムは、正常な融合体験を持たず、統合的な自己像や自己価値づけが脆弱であるため、自己解体の危機に瀕しています。
ナルシシズムの情態はもはや不在であり、それを再所有しようとする営みは不在の現前化です。その代理が「自我理想」であり、フロイトは自我理想を失われたナルシシズムの代理とします。代理はナルシシズムそのものではなく、無なるナルシシズムを代理的に表象するものです。代理作用は隠喩的表現の一種であり、「象徴」の働きと関連付けられます。ナルシシズムは代理を通して完全に解釈することはできず、その解釈は多義的です。
ナルシシズム的願望の充足を象徴するものが「ファロス(Phallus)」であるとされます。ギリシア神話の豊穣神プリアプスがペニスで象徴されるように、ファロスはナルシシズムの身体的隠喩です。ファロスは性器であるペニスを象徴的に表すとともに、「性器前的」な時期の「根源的ナルシシズム」を代理的に表象する象徴でもあります。ファロスは性的差異を超えた全一感や融合感を指し、「父親像」と「ファロスをもった母親像」が自我理想として一体であることからも示唆されます。ファロスの象徴作用は二重であり、一方では所有欲に基づいた病的なナルシシズムの象徴である「歪んだファロス」、他方では全能感や融合感を象徴する「完全なファロス」として機能します。
ナルシシズム的願望が生涯を通じてペニスの「性器的」な対象支配・所有を規定し続けるように、ファロスもペニスの体制を規定しますが、ファロスの象徴する「性器前的」体制は不在であるため、無が「性器的」体制を規定し続けることになります。ペニスは不在の現前化を果たさなければならない一方で、それ自体としては名付けえぬ無を組成としています。プリアプスがペニスを持つ謎は、ペニスが「〈有身体性〉より以上のもの」を象徴していると解釈されます。
個々人の生活史はナルシシズムの精神病理にとっても重要であり、病的ナルシシズムはファロスに象徴される「自我理想」を抱けなかった来歴に潜んでいます。そのため、獲得しえなかった自我理想を埋め合わせようとして、胎児や乳児の全能感に回帰しようとします。ナルシシズムは生活史に由来するとともに生涯に遍在し、生の極限的な高揚と死への親しさを有するため、その時間性は特異です。フロイトは、無意識には時間がないとし、ナルシシズム的神経症が無意識の謎を解き明かすとしました。ナルシシズムの無意識的な状態は**無時間性(Zeitlosigkeit)**を帯び、生の生成発展とは異なる無意味性を持つと考えられます。ナルシシズム的なあり方の無時間性は、生の流れに対する永遠または不壊として捉えられます。
ファロスがナルシシズム的願望を満たす全一感や融合感を象徴することから、ナルシシズム的なあり方の無時間性と無意味性が考察されます。自己充足した神のような状態は、過去や未来に煩わされることのない永遠の現在であり、ルソーが夢想した至福に満ちた状態と類似しています。コフートの言う「静謐なる矜持」は、そのような永遠の現在においてのみ保持できる生の最高の態度かもしれません。しかし、永遠の現在はナルシシズムと同様にそれ自体としては現前しえず、人間の言語的経験となるためには他者との葛藤を含む過去の想起と未来の予期が必要となり、逆説を孕んでいます。
ナルシシズム的願望を満たす永遠の現在は、日常生活とは異なる祝祭の時に似ており、木村敏の言う「いつでも祭りのさなか」という状態が想定されます。男女の愛の法悦や自然との合体は聖性を帯びる可能性があり、神の高処に近づくようですが、それは死の影を伴っています。ナルシシズムの両面性とは、飛翔と死の親しさです。永遠の現在は、祝祭の擬い物に過ぎず、自己の確かな存在を贈与しないという逆説を孕んでいます。愛の法悦も他者との共存において成立するため、個我の法悦意識と他者との共存は連続しがたいという指摘があります。ナルシシズムの本質は神の御座にあるのではなく、そこに就こうとして就きえないことにあり、ナルシスの《傲岸(Hybris)》が生じます。この傲岸は他者への無関心さと表裏一体であり、ナルシシズムの力動性と静態性という相反する両面性を生み出します。ブランケンブルクによれば、ナルシシズムの力動性は「ナルシシズム的・自閉的な〈自分自身への固執〉」から、分裂病性のナルシシズムの静態性は「生活史の停止という意味での佇立」に由来します。ナルシシズムの両面性は、神プリアプスに因んだ無なるファロスに突き動かされ、その御座に就こうとして就きえないことに起因します。ナルシシズムの精神病理は、有限な生の彼岸に価値を置き、神聖な御座に就こうとする病であり、そのために他者との共生の中に自己の居場所と意味を見出せないことと言えるでしょう。
第二章:グノーシズムにおけるナルシシズム論
この章では、ヨナスがマンダ教の教典『ギンザー』に記された神話を「ナルシス -モティーフ」を有するものとみなして考察します。神話の内容は、アバトゥルの水に映る鏡像が息子ブタヒルとして創造されるというものであり、外形的にはギリシア神話のナルシスと類似していますが、内容的には全く異なります。ヨナスは、このような場合、ギリシア神話はグノーシズムの神話の「仮晶(Pseudomorphe)」であると解釈します。
『ギンザー』の神話は宇宙創成以前の神々の系譜を示すものであり、「第一の命」である至高神から、ヨーシャミーン(第二の命)、アバトゥル(第三の命)、そして世界製作神であるブタヒル(第四の命)へと一元論的に流出する様子が描かれています。一方で、『ギンザー』には「黒い水」に映る影像のごとく闇の世界が光の国に対立するという二元論的な世界像も存在します。この光と闇の対峙から、「ナルシス -モティーフ」を有する神話は、人間を翻弄し悪行を引き起こす「欲動」、すなわち「邪欲(Begierde, concupiscentia)」を物語っているのではないかと問いかけられています。
古代末ヘレニズム期の文化の衰退と「ペシミズム」を背景に、グノーシズムは東方から発生し、ギリシア文化を装いながらも独自の「自己(Selbst)」の探求を旨とした宗教運動であり、東西混淆の「シンクレティズム」として特徴づけられます。ヨナスは、これをシュペングラーの「仮晶」の概念で捉えます。グノーシズムは、宇宙を神とみなす自然神学やユダヤ教の創造神学を拒否し、宇宙とそこに生きる生を人間にとって「異邦(das Fremde)」であり、自分はこの世の「余所者(Fremdling)」であるという根本経験を出発点とします。この経験から、故郷である「彼岸(das Jenseits)」への「郷愁(Heimweh)」が生じ、二世界説に基づく二元論の思想体系となります。
グノーシズムは旧来の枠組みを脱し、全否定を志向するため、その至高神は認識不能な「識られざる新しい神」であり、《一者(to ‘en)》を仮晶としています。二世界説は、「識られざる新しい神」の探求と、世界に囚われた肉体と対立する「霊(Pneuma)」、つまり「非世界的な自己(das unweltliche Selbst)」の探求を惹き起こし、「終末論」の色濃い宗教運動となります。グノーシズムにとって、「グノーシス(gnosis)」、つまり救済知は、神を知り、世界という虚無を否定し、「二重に否定する」ことで「自己」を発見することを目指します。
グノーシズムの善悪二元論には、善と悪が対立しているのか、全一なるものから分裂したのかという問いが生じ、ヨナスは前者を「マンダ・イラン型」、後者を「シリア・エジプト型」と分類します。『ギンザー』を含むマンダ教文献は両方の型を含んでおり、ヨナスはマンダ教文献をグノーシズムの関係文献の中で最も包括的で内容豊富であると評価します。マンダ教は、古代末のヘレニズム期の「仮晶」を最大限に取り除いた、グノーシズムの東方的な心的生活を直接的に表現したものと理解できます。
「黒い水」の象徴する闇の世界は、光の国とは全く隔絶した、混乱と喧騒に満ちた「邪悪」な世界として描かれます。『ギンザー』の神々の系譜は、至高神からの流出を示す一方で、ヨーシャミーンの子であるウトラたちが自分の住まいを築きたいという願望を受け入れた結果、「闇の世界」へと下り、ブハク・ジーヴァー(アバトゥルの別名)の奢りや不遜が「欲動」を引き起こす「罪責神話(Schuldmythos)」としてヨナスは解釈します。世界創造の主役であるブタヒルは、「光の国」から「闇」へと下るにつれて、「闇」の力に塗れていきますが、悪逆非道に徹しきれない存在として描かれます。一方、女性のルーハーは、至高神に敵対する「悪霊」であり、肉欲的な「同衾」から惑星界を産み落とすなど、より悪辣な存在として描かれます。人間の創造においても、ブタヒルが身体を作り、マンダ・ダイエーの助けによって魂が入れられますが、ルーハーは人間を情欲に耽らせ「闇の世界」に留めようと策略します。このように、人間は防ぎようもなく「闇の世界」に「被投されている(Geworfensein)」という定めを負っており、それはプロティノスの言う「魂にとっての死」を意味します。この事態を引き起こした端緒は、「黒い水に浮かぶ影像」という隠喩的表現で語られるブタヒルの誕生と、彼の作る世界が「欲動」のうごめく世界であることに示されています。人間の「罪責」はその実存の否定しえない事実であり、その源泉である「邪欲」は体験しえない闇であるとされます。
「大いなる命」の使者であるマンダ・ダイエーは、不安に慄く人間に覚醒を促し、「闇の世界」の悪に怖じけてはならないと呼びかけます。この呼びかけに応えること、つまり聴き従うことがグノーシズムにおける信仰であり、自覚的で主体的な行為です。マンダ・ダイエーの呼びかけは「大いなる命」そのものの啓示であり、呼びかける者と呼び声の内容は区別されません。覚醒は人間が本来「闇の世界」の住人ではないにもかかわらず、その「余所者」であることを自覚し、異郷からの呼び声を「生」からの福音として理解することによって二重性を帯びます。『ギンザー』の「私は生を観たし、生は私を観たのだ」という言葉は、生と知の合致、すなわち「神を知る(gnosis theou)」ことを意味し、これがグノーシズムの目指す救済知です。この覚醒がグノーシズムにおいては救済です。
救済は、人間の本質である「自己(Selbst)が世界よりも高い神性の出自であり、それを家郷とする」という認識に基づいて可能です。たとえこの世界に沈淪していても、人間はその惨めな事態を耐忍し超克することができます。この自覚を実体化したものが「霊(pneuma)」であり、「霊的な自己」は受動的な事態に潜みながら活性的に作動しています。大貫隆によれば、グノーシズムは「人間即神也」という定式で表明されますが、それは死後の生を待ち望む「終末論的意識」においてのみ成就します。マンダ教徒は常にこの終末論的意識を持ち、洗礼と祈祷を日々行いますが、それは生の極限的な高揚を伴う死の訓練です。マンダ教は「人間即神也」という定式で二世界説を克服しているように見えますが、自・他の分裂や存在者一般の分裂を引き起こす「罪責」に対して無傷ではありません。マンダ教は、ユダヤ教に対する「怨恨(Ressentiment)」のために、旧約の神が創った世界や被造物を救済の対象とはしません。グノーシズムは、神が人間に託した被造物の世界を顧みず、被造物の苦しみにも共感せず、善悪二元論的な世界像の結果として、被造物の世界に対して聖戦を起こしかねない危険性を孕んでいます。
結論
ナルシシズムの精神病理は、ギリシアのものであれ、グノーシズムのものであれ、エロスとタナトスの極限的な合致を求めるあまりに、自・他の関係性を超越した「或る一なるもの」という幻想に固執する危険性があります。プラトニズムが「一者」から「多」への下降と、「多」から「一者」への上昇を示唆するのに対し、ナルシシズムは善と悪との両世界の断絶という悪しき意味でのプラトニズムの温床となりかねません。
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ナルシス神話について、その起源、内容、そして複数の思想家による解釈。
まず、ナルシス神話の起源についてです。資料によれば、帝政ローマ時代初期の詩人オウィディウス(Ovidius BC43-AC17or18)が、『変身物語』の中でナルシス神話を記載しているとされています。
次に、ナルシス神話の内容です。それによれば、美しい肢体に非常に強い思い上がりを抱いていた美少年ナルシスは、不幸にも彼を恋慕してしまったこだまの妖精エコーの声(実はこだまとして反響する自分の声)に誘われるままに、泉に映った自分の姿に恋い焦がれてしまい、自分自身への苦悶のために憔悴して死んでしまったと述べられています。
この神話は、端的に言って、人間にまといつく性愛の物語であると解釈されています。男性であるナルシスが、泉に映る自分の肉体美を見て、それを得ようとして恋い焦がれたことから、ナルシスはこの世に生きる人間の「欲動(Libido)」を露呈させたとも言えます。資料は、古今東西、宗教の違いを超えて、パスカルを引き合いに出し、そうした「欲動」は人間が犯す悪行の源であると指摘しています。
では、ナルシスが悪を引き起こすとすれば、それはなぜなのでしょうか。資料は、彼が愛したのはこだまの妖精の反響、すなわち擬いものの他者であったと指摘します。さらに、ナルシスが愛した自分自身とは、泉に映った自分自身、つまり自分の鏡像以外の何ものでもないと述べられています。ナルシスは自分の鏡像に恋い焦がれてしまい、本来の自分、つまり〈自己(Selbst)〉なるものを見つけはしなかったとされます。彼の鏡像への恋着は、確たる自己所有に至るどころか、自己を所有したいという狂おしい〈欲動〉に火をつけたに過ぎません。資料は、そのような欲動を自己愛と解すべきではないとし、むしろ、鏡像の魔性ゆえに、自己愛どころか自己解体に終わるのではないかと問いかけています。より詳しく言えば、ナルシスの恋した自分の鏡像は朧げなものであり、確たる所有感をもたらすどころか、他者や自然からの孤絶、そして自己解体をもたらしたのではないかとされます。
結局のところ、ナルシスが悪を引き起こす所以とは、自己の存在感の希薄、言い換えれば、死と親しい生命感情、つまり乏しい生命感情にあったのではないか、というのがこの資料を通底する問いであると述べられています。
精神分析学におけるナルシシズム論との関連では、ルー・アンドレアス・サロメのナルシシズム論が考察されています。サロメは、ナルシスが人工の鏡ではなく自然の鏡の前に立ったことを想起する必要があると述べています。おそらく彼が見たのは、水中に映った自分の姿だけでなく、自分以外のすべてのものも見たのであり、そうでなければ、彼が留まっておれたはずがないと指摘します。サロメによれば、ナルシスの恍惚は自分の鏡像に魅せられて自己陶酔に陥ったためであり、鏡像が実在のものではない以上、彼の自己陶酔は自己や他者との一体感・融合感への願望から生じたものに他なりません。一方、ナルシスの憂鬱は、彼が他者や自然から孤絶したばかりか、自己との一体感への願望を果たしえなかったためであるとされます。サロメは、生を高揚せしめる自己陶酔と、死に親しい自己抑鬱との両極の間を揺れ動く動態を「ナルシシズムの両面性」となづけています。
フロイトとの比較では、フロイトにおいては、ナルシシズムは性的欲動(libido)が自分を性的対象とするケースであり、自我がある程度形成されていなければ生じないとされます。フロイトの言うナルシシズムは、生後間もない乳児が自・他の区別を意識しないで、自分自身の身体に充足している「自体愛(Autoerotismus)」と必ずしも同義ではありません。これに対しサロメは、フロイトの言うナルシシズムが乳児の「自体愛」と同じだとみなします。なぜなら、ナルシシズムが自我の形成された「自己愛」と解されてしまうならば、乳児のナルシシズム的なあり方、すなわち「ナルシシズムの両面性」が隠蔽されてしまうことを、サロメが恐れたためです。サロメは、フロイトの言う「自体愛」の定義に従って、乳児が対象、とりわけ母親と一体感を保っている状態、つまり「始原的な融合状態」がナルシシズムであると解したのです。
また、グノーシズムにおけるナルシシズム論との関連では、ヨナスがマンダ教の教典『ギンザー(財宝Ginza)』に記された神話を「ナルシス -モティーフ(Narziss-Motiv)」を有するものとみなしています。この神話は、アバトゥルが黒い水の中を見つめると同時に彼の像が水の中に造り出され、それがブタヒルとなるというものです。外形的には泉に映る鏡像という点でギリシアのナルシス神話と同じですが、内容的には全く異なり、ヨナスによればギリシアのナルシス神話はグノーシズムの『ギンザー』の神話の「仮晶(Pseudomorphe)」であると解されます。
このように、資料はナルシス神話の文学的な起源だけでなく、それが人間の根源的な欲動や自己認識、さらには精神分析学やグノーシズムといった思想潮流の中でどのように解釈されてきたかを多角的に論じています。ナルシス神話は、自己愛というテーマを超え、自己と他者との関係、存在のあり方、そして人間の持つ根源的な欲望や苦悩を深く考察するための重要なモチーフとして捉えられていると言えるでしょう。
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「自己愛と他者」について。
ナルシス神話における自己愛と他者
ナルシス神話は、自己愛の極致とその悲劇的な結末を描いています。美しいナルシスは、他者の愛を拒絶し、泉に映った自分の姿に恋い焦がれて死んでしまいます。この物語は、自己への過度な執着が、他者との健全な関係性を築くことを妨げ、孤立と破滅を招く可能性を示唆しています。
ナルシスが恋したのは、**自分の鏡像という、実体のない「擬いものの他者」**でした。彼は、こだまの妖精エコーの声にも惹かれますが、それもまた自分の言葉の反響に過ぎません。このように、ナルシスは他者を真の意味で認識し、関係を築くことができず、自己の中に閉じこもってしまったと言えるでしょう。
資料は、ナルシスの自己愛は、確たる自己所有に至るどころか、自己を所有したいという狂おしい〈欲動〉に火をつけたと分析しています。これは、真の自己愛は自己と他者との健全な関係性の中で育まれるものであり、ナルシスのそれは、自己の存在感の希薄さからくる自己解体への衝動であった可能性を示唆しています。
精神分析における自己愛と他者
精神分析の観点からは、ナルシシズムは発達段階の一つとして捉えられますが、その病的な側面は他者との関係性の欠如や歪みと深く関連しています。
- フロイトは、ナルシシズムを性的欲動が自分自身に向かう状態と定義し、初期の発達段階において見られるものとしました。しかし、健康な自我の発達には、対象(他者)への関わりの獲得が不可欠です。
- サロメは、乳児のナルシシズムを**母親との「始原的な融合状態」**と捉え、自己愛の根源に他者との一体感を見ています。これは、初期の他者との関係が、後の自己愛のあり方を左右する重要性を示唆しています。
- グランベルジェは、対象関係においては自己と他者の間に互酬性があるのに対し、ナルシシズムにおいては自己は自己であり続け、互酬性がないと指摘します。病的ナルシシズムでは、他者は自己の尊大さを映す鏡としてしか見なされず、主体的な他者として認識されないのです。
- コフートは、「自己・対象」という概念を通じて、幼児期の両親との関係が自己信頼の形成に不可欠であることを強調します。**他者からの肯定的な応答(鏡像)**が、健全な自己愛を育む上で重要な役割を果たすのです。病的ナルシシズムは、このような他者からの適切な応答が得られなかった場合に生じやすいとされます。
- 病的ナルシシズムは、「人格障害」として、対象への関心が乏しく、対象を自己の尊大さを映す鏡としてしかみなせない精神現象と定義されています。このような状態では、他者は自己の欲求を満たすための道具として扱われ、真の共感や理解に基づいた関係性を築くことは困難です。
- 正常な愛の世界内存在は、自・他の不断の贈与と受容によって実現されますが、病的ナルシシズムにおいては、この相互的な関係が妨げられています。
グノーシズムにおける自己と他者
グノーシズムの視点からは、現世は悪に満ちた「闇の世界」であり、**自己は本来、この世ならざる「光の国」に属する「余所者」**であるとされます。救済とは、自己の神聖な本質(「霊」)を認識し、この世からの脱却を目指すことであり、現世の他者との関係性は、その本質的な関心事ではありません。
『ギンザー』の神話においても、宇宙の創造は神々の奢りや「欲動」によって歪められたものとして描かれており、現世における他者との関係も、そのような負の力の影響下にあると解釈できるかもしれません。マンダ教がユダヤ教に対して「怨恨」を抱いているという記述からは、他者を敵対的な存在として捉える傾向も示唆されます。
結論
ナルシス神話、精神分析、グノーシズムという異なる視点から見ても、自己愛と他者との関係性は、人間の存在にとって根源的に重要であることがわかります。ナルシスのように自己に閉ざされた過度な自己愛は、健全な自己認識や他者との豊かな関係性を損ない、孤立と不幸を招きます。精神分析は、初期の他者との関係が自己愛の形成に不可欠であり、病的なナルシシズムは他者との関係性の歪みと深く結びついていることを示唆しています。一方、グノーシズムは、現世の他者との関係性を相対化する視点を提供していますが、それでもなお、「自己」の認識という点において、ある種の自己との対峙を求めています。
結局のところ、健全な自己愛は、自己を肯定的に捉えながらも、他者を尊重し、互恵的な関係性を築く能力と表裏一体であると言えるでしょう。自己と他者は対立するものではなく、相互に影響し合い、豊かにし合う存在なのです。
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「自己愛と他者」について。
ナルシス神話における自己愛と他者
ナルシス神話は、自己愛の極致とその悲劇的な結末を描いています。美しいナルシスは、他者の愛を拒絶し、泉に映った自分の姿に恋い焦がれて死んでしまいます。この物語は、自己への過度な執着が、他者との健全な関係性を築くことを妨げ、孤立と破滅を招く可能性を示唆しています。ナルシスが愛したのは、**自分の鏡像という、実体のない「擬いものの他者」**であり、自分の言葉の反響であるこだまの妖精エコーの声に誘われたに過ぎません。資料は、ナルシスの自己愛は、確たる自己所有に至るどころか、自己を所有したいという狂おしい〈欲動〉に火をつけたと分析し、彼の鏡像への恋着は、自己愛どころか自己解体に終わる可能性を示唆しています。
精神分析における自己愛と他者
精神分析の観点からは、ナルシシズムは発達段階の一つとして捉えられますが、その病的な側面は他者との関係性の欠如や歪みと深く関連しています。
- フロイトにおいては、ナルシシズムは**「性的欲動(libido)」が他者ではなく自分自身に向かうケースであり、自我が或る程度形成されていなければ生じません。彼は、乳児の「自体愛(Autoerotismus)」とは必ずしも同義ではないとしました。しかし、自我の発達は対他関係の内へと入り込むこと**であり、「一次的ナルシシズムから或る距離をとることによって成り立つ」と述べています。
- サロメは、フロイトのいうナルシシズムが乳児の「自体愛」と同じだとみなし、乳児が対象、とりわけ母親と一体感を保っている**「始原的な融合状態」がナルシシズムであると解しました。彼女は、ナルシスの恍惚を自己陶酔によるものとしつつ、それが自己や他者との一体感・融合感への願望**から生じたと捉えています。
- グランベルジェによれば、対象関係においては自己は他者に関して主体であり、主体は自己と他者においてお互いに入れ替わる互酬性がありますが、ナルシシズムにおいては自己は自己でありつづけ、互酬性はありません。彼は、病的ナルシシズムを所有欲に基づいた**「歪んだファロス」**の象徴と捉えています。
- コフートは、幼児の対人関係は幼児自身を映しだす鏡像としての役割を果たし、その鏡像が歪みなく曇りないものであれば、幼児の自己信頼を育むとしました。彼は、「自我理想」を両親のイメージのなかに幼児自身の像を造りだす鏡像という意味で**「自己・対象」**と名づけています。病的ナルシシズムは、「自己・対象」が不在であるか、不十分な鏡像であるか、歪みのある鏡像である場合に生じやすいとされます。
- 病的ナルシシズムは、アメリカの精神分析学者C・F・アルフォードによれば「人格障害」であり、対象への関心に乏しく、対象を自己の尊大さを映す鏡としてしかみなせない精神現象です。このような状態では、他者との関係が貧しく、客観的な自己評価を下すことが困難になります。
- スイスの精神科医M・ボスは、正常な場合、愛の世界内存在は自・他の不断の贈与と受容のなかで実現されるのに対し、病的ナルシシズムにおいては、この相互的な関係が妨げられていると指摘しています。
グノーシズムにおける自己と他者
グノーシズムの視点からは、現世は悪に満ちた「闇の世界」であり、自己は本来、この世ならざる「光の国」に属する「余所者」であるとされます。救済とは、自己の神聖な本質(「霊」=「非世界的な自己」)を認識し、この世からの脱却を目指すことであり、現世の他者との関係性は、その本質的な関心事ではありません。ヨナスによれば、グノーシズムは外面的にはギリシアの装いをしていますが、内面的には「自己」の探求を旨とした宗教運動です。マンダ教がユダヤ教に対して「怨恨(Ressentiment)」を抱いているという記述 からは、他者を敵対的な存在として捉える傾向も示唆されます。グノーシズムは、神が人間に託した被造物の世界を顧みることはなく、他者との共感も欠いていると指摘されています。
結論
ナルシス神話、精神分析、グノーシズムという異なる視点から見ても、自己愛と他者との関係性は、人間の存在にとって根源的に重要であることがわかります。ナルシスのように自己に閉ざされた過度な自己愛は、健全な自己認識や他者との豊かな関係性を損ない、孤立と不幸を招きます。精神分析は、初期の他者との関係が自己愛の形成に不可欠であり、病的なナルシシズムは他者との関係性の歪みと深く結びついていることを示唆しています。一方、グノーシズムは、現世の他者との関係性を相対化する視点を提供していますが、それでもなお、「自己」の認識という点において、ある種の自己との対峙を求めています。
結局のところ、健全な自己愛は、自己を肯定的に捉えながらも、他者を尊重し、互恵的な関係性を築く能力と表裏一体であると言えるでしょう。自己と他者は対立するものではなく、相互に影響し合い、豊かにし合う存在なのです。
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「グノーシズム」について。
グノーシズムの歴史的背景と特徴
グノーシズムは、古代末期のヘレニズム期(紀元1世紀から3世紀末頃)に東方で発生し、3、4世紀に隆盛した宗教運動 generally. 当時のローマ帝国は広大な版図を支配していましたが、古代ギリシア文化の影響は残存しており、教養層の規範となっていました. しかし、文化は既に衰退の兆しを見せており、「ペシミズム」の時代精神が漂っていました. ローマ帝国のコスモポリタン的な状況は、古代ギリシアのポリスのような共同生活の具体的な制約を失わせ、多様な民族が統一的に生活規範を習得することも困難でした. このような歴史的・社会的な背景が、「絶対的な、何の慰めもないペシミズム」を推進力とするグノーシズムを生み出したと言えます.
グノーシズムは、外面的にはギリシアの詩文や文型を範として装いましたが、内面的には東方の宗教信条を保持し、自己(Selbst)を革命的に発見しようとしました. ヨナスは、このような東西混淆の宗教運動を**「シンクレティズム(Synkretismus)」と呼び、O・シュペングラーの概念である「仮晶(Pseudomorphe)」**によって特徴づけました. これは、古い枠組み(ギリシア思想)を借りながら、新しい内容(東方の宗教的探求、特に「自己」の探求)を表現しようとしたためです.
グノーシズムの核心的な思想
グノーシズムは、従来のギリシア的な自然神学(宇宙を神とみなす)やユダヤ的な創造神学(創造神の存在を認める)を徹底的に否定しました. 彼らは、宇宙や世界は単に機械的に運行するだけで、人間に何の慰めも与えず、苦痛に満ちた生を送らざるを得ない桎梏であると捉えました. その根底には、人間はこの世の「余所者(Fremdling)」であるという根本経験があり、それは「一体、どこから生まれ、どこへ行くのか」という家郷への探求、ひいては現世を超越した「彼岸(das Jenseits)」への「郷愁(Heimweh)」を引き起こしました. このような世界観から、グノーシズムは此岸と彼岸という二世界説に基づいた二元論の思想体系とならざるを得ませんでした.
グノーシズムの探求する「彼岸」は、認識されえないばかりか、未だ名づけられたことのない「識られざる新しい神」の領域であり、ヨナスはこれをプロティノスの《一者(to ‘en)》の仮晶であると解釈しています. また、世界に囚われた肉体と心魂に対して、「霊(Pneuma)」(「非世界的な自己(das unweltliche Selbst)」)を対置しました. 救済とは、この秘教的な「至高神」を探求する道であり、同時に自己の本質を知る(グノーシス)ことでした. グノーシスの目標は、世界という否定的な虚なるものを否定することであり、それを通じて「神を知る(gnosis theou)」に至り、最終的には神秘的高揚の極限において**「自己」を発見する**とされました. 大貫隆によれば、グノーシズムは「人間即神也」という定式で表明されることもありますが、それは死後の生を待つ「終末論的意識」においてのみ成就すると考えられました.
グノーシズムの多様性とマンダ教
グノーシズムには、善と悪の対立の起源に関する異なる理念型が存在します. ヨナスは、「マンダ・イラン型」(マンダ教、ゾロアスター教、マニ教を含む)では善と悪が元々対立していると考えられ、「シリア・エジプト型」(バシリデース派、ヴァレンティノス派など)では全一なるものから善と悪の分裂が生じたと考えたと区別しています.
ヨナスは、グノーシズムの関係諸文献の中で、マンダ教文献を最も包括的で内容豊富であると高く評価しています. その理由は、マンダ教文献が**「マンダ教の思索と神話的想像の所産であり、閉ざされた言語圏と生活圏の凝集したものであり、ヘレニズム的な教養意識を負荷していない」**と見なされるからです. マンダ教徒は、汚れた身を清める洗礼を重視する「文化世界の片隅に生活する洗礼教団」でした. ヨナスは、M・リツバルスキーの独訳した『ギンザー』と『マンダ教徒のヨハネ文書』を参照して、グノーシズムの救済知の妥当性を考察しました.
『ギンザー』に記されたナルシス神話は、外形的にはギリシア神話と同じく泉に映る鏡像という筋立てを持ちますが、内容的には全く異なります. ヨナスは、この場合、ギリシアのナルシス神話はグノーシズムの『ギンザー』の神話の**「仮晶(Pseudomorphe)」であると解釈しています. 『ギンザー』の神話は、宇宙創成以前の神々の系譜を示す神統記であり、至高神からブタヒルという世界製作神へと一元論的に流出する神々の流れと、光と闇の二元論的な世界像を示しています. この神統記は、神々の奢りや不遜、神に対する嫉みといった「欲動」を露呈させるため、ヨナスはこれを「罪責神話(Schuldmythos)」**と解釈しました.
グノーシズムにおける「欲動」と「悪」
『ギンザー』では、「黒い水」が象徴する闇の世界が悪の世界として、光の国と対立しています. 神々の系譜においても、「第二の命」ヨーシャミーンの子であるウトラたちが闇の世界に下り、ブハク・ジーヴァー(アバトゥルの別名)が奢りによって宇宙創設を願うなど、「欲動」が悪の源泉として描かれています. 世界製作神ブタヒルも、「闇」に下るにつれて「混濁した泥」に塗れていき、悪逆非道に徹しきれない存在として描かれています. 一方、女性のルーハーは、闇の世界の「悪霊」として、肉欲にまみれた「同衾」から惑星界を産み落とすなど、より積極的に悪を行う存在として描かれています. 人間も、ブタヒルの創造とルーハーの策略によって、意図せず「闇の世界」に送り込まれ、「被投されている(Geworfensein)」とされます. この世界の「欲動」、すなわち「邪欲(Begierde)」が、人間を酩酊させ、情欲に陶酔させるとされています.
救済と覚醒
グノーシズムにおける救済は、「大いなる命」の使者であるマンダ・ダイエーの呼びかけを聞き、目覚めることによってもたらされます. この呼びかけは、「闇の世界」に沈淪し不安に苛まれる人間に対して、その頽落から目覚めるよう促すものです. 人間がこの呼びかけを聴き従うことは、福音を信じることと同義であり、自覚的で主体的な行為です. この覚醒は、人間が本来「闇の世界」の住人ではないにもかかわらずその世界にいる「余所者」であることを自覚し、異郷からの呼び声を「生」からの福音として理解するという二重性を帯びています. 『ギンザー』の「私は生を観たし、生は私を観たのだ」という言葉は、生と知の合致、すなわち救済知(グノーシス)を意味します.
グノーシズムの批判的考察
資料は、マンダ教が「人間即神也」という定式で二世界説を克服しているように見えるものの、自・他の分裂、ひいては存在者一般の分裂を引き起こす「罪責」の発生に対して無傷ではないと指摘しています. マンダ教のユダヤ教に対する「怨恨(Ressentiment)」のために、旧約の神が創ったこの世界や、そもそも「欲動」に苦しむ被造物は救済に預かれないとされました. グノーシズムは、神が人間に託した被造物の世界を顧みず、パウロが記した被造物の苦しみにも共感しないと批判されています. さらに、善悪二元論的な世界像は、被造物の世界を悪と断定し、正義の名の下に聖戦を引き起こす可能性すら孕んでいると論じられています.
結論
グノーシズムは、ペシミズムの時代精神を背景に、既存の宗教観を否定し、「自己」の探求と現世からの脱却を目指した特異な宗教運動でした。二元論的な世界観、「識られざる新しい神」の探求、そして知識(グノーシス)による救済といった思想は、当時の人々の精神的な飢餓感に応えようとしたものと言えるでしょう。しかし、その徹底的な現世否定や他者への無関心、そして潜在的な対立性といった側面は、批判的に考察されるべき点も多く含んでいます。
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この資料とこれまでの会話履歴に基づき、「欲動と罪」について議論します。
ナルシシズムにおける欲動と悪
ナルシシズムの起源として語られるナルシス神話において、**人間の「欲動(Libido)」**が重要な要素として捉えられています。美しい少年ナルシスが泉に映った自分の姿に恋い焦がれる様子は、自己の肉体美を得ようとする「欲動」の表れであり、資料では、この「欲動」は古今東西、宗教の違いを超えて、人間が犯す悪行の源であるとパスカルの言葉を引用して指摘されています。
ナルシスが悪を惹き起こすとされる理由として、彼が愛したのは自分の鏡像、つまり擬いものの他者であり、確たる自己(Selbst)を見つけられなかった点が挙げられています。鏡像への恋着は、自己所有に到るどころか、自己を所有したいという狂おしい「欲動」に火を点けたと説明されており、これは真の自己愛とは逆のものであるとされています。
ナルシスの例を通して、「欲動」が自己の確たる所有感の欠如、言い換えれば乏しい生命感情と結びつき、自己解体へと繋がる可能性が示唆されています。
グノーシズムにおける欲動と罪
グノーシズム、特にマンダ教の教典『ギンザー』に記された神話においては、神々の系譜の中で「欲動」が「罪」の起源と深く結びついて描かれています。
- 「第二の命」ヨーシャミーンの子であるウトラたちが自分の住まいを創りたいと願うこと。
- 「第三の命」アバトゥルの別名であるブハク・ジーヴァーが心の中で奢り、自分を強大な者と思い込み、「自分こそウトラたちの父[至高神]だ」と言い、ついには「濁った水に思いを向け、〈一つの世界を作ろう〉」とまで言う始末。
これらの神々の行為は、至高神そのものに自らが成ろうとする奢りや不遜、さらには神に対する嫉みを惹き起こす「欲動」を曝け出したとされ、ヨナスは『ギンザー』の神統記を**「罪責神話(Schuldmythos)」**と解釈しています。
さらに、人間の創造においても「欲動」が悪と結びついて描かれています。ルーハーという悪霊は、アダムをハヴァーとの情欲行為に耽らせ、陶酔と喧騒に沈淪させることで、人類を「闇の世界」に留まらせようとします。この「闇の世界」は、自然的な必然的法則が支配し、平安と自由のない、この地上を指し、「欲動」、すなわち**「邪欲(Begierde)」**のうごめく世界として描写されています。
資料は、人間の「罪責」は実存の否定しえない事実であり、人間の「罪責」をもたらす「邪欲」の源そのものは体験しえない闇であると指摘しています。これは、至高神が「知られざる新しい神」であり、人間が神々の系譜を辿りえないことに起因するとされています。
結論
ナルシシズムとグノーシズムという異なる文脈において、「欲動」は人間の行動原理、さらには悪や罪の根源と深く関連付けられています。ナルシシズムにおいては、自己への過度な執着と所有欲に繋がる「欲動」が自己解体や他者との隔絶を生み出す可能性が示唆されています。一方、グノーシズムにおいては、神々の世界における「欲動」が罪の始まりとなり、人間の世界においては「邪欲」が人間を現世に繋ぎ止め、真の自己や救済から遠ざける要因として描かれています。両者の議論を通して、「欲動」は人間の存在における根源的な力であり、その направленность 如何によっては、自己の破滅や霊的な堕落を招く可能性を孕んでいると言えるでしょう。
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要約
ナルシシズムの概念、精神分析学における議論、そしてグノーシズムにおけるナルシシズムとの関連性について概観するものです。論文は、オウィディウスのナルシス神話を出発点に、ルー・アンドレアス・サロメ、ジークムント・フロイト、ハインツ・コフートといった精神分析家の議論を検討し、さらにハンス・ヨナスのグノーシズム研究におけるナルシシズムのモチーフを分析しています。
主要テーマと重要なアイデア:
1. ナルシシズムの起源と本質
- ナルシス神話の解釈: 論文は、ナルシスが泉に映った自分の姿に恋焦がれ、憔悴して死んでしまう神話を、単なる自己愛の物語ではなく、人間の根源的な「欲動(Libido)」を露呈するものと捉えています。「男性である美少年ナルシスが,泉に映る自分の肉体美を見て,それを得ようとして,それに恋い焦がれてしまったかぎり,ナルシスはこの世に生きる人間の「欲動(Libido」を露呈させたとも言える。」
- ナルシスが愛したのは自己の鏡像であり、本来の自己(Selbst)ではありませんでした。この鏡像への恋着は、確たる自己所有に至らず、自己を所有したいという激しい欲動を引き起こし、自己解体へと繋がる可能性を示唆しています。「彼の鏡像への恋着は,まさにその鏡像の魔性のゆえに,自己愛どころか自己解体に終わるのではないだろうか。」
- ナルシスが悪を引き起こす根源は、自己の存在感の希薄さ、すなわち乏しい生命感情にあるという問いが提示されます。「ナルシスが悪を惹き起こす所以とは,自己の存在感の希薄,言い換えれば,死と親しい生命感情,つまり乏しい生命感情にあったのではないか。これが,本稿をつらぬく問いである。」
2. 精神分析学におけるナルシシズム論
- サロメのナルシシズム論: ルー・アンドレアス・サロメは、ナルシスが自然の鏡の前に立ったことに着目し、彼が自己だけでなく自己以外のすべてを見た可能性を指摘します。「おそらく彼が見たのは,水中に映った自分の姿だけでなく,自分以外のすべてのものをも見たのである。そうでなければ,どうして彼が留まっておれたか。彼は恐怖に襲われて逃れはしなかったか。その顔は,恍惚と同時に憂鬱を表わしてはいなかったか。」
- サロメは、ナルシスの恍惚を自己陶酔、憂鬱を他者や自然からの孤絶と一体感への願望の不充足から生じるものと捉え、「ナルシシズムの両面性」として、自己陶酔と自己抑鬱の間を揺れ動く動態を提唱します。「サロメは,生を高揚せしめる自己陶酔と,死に親しい自己抑鬱との両極のあいだを揺れ動く動態を「ナルシシズムの両面性」(ND 363)となづけている。」
- サロメは、フロイトのナルシシズム概念が自我形成後の「自己愛」と解されることで、乳児のナルシシズム的なあり方、すなわち対象(特に母親)との一体感である「始原的な融合状態」(ND,365)が隠蔽されることを懸念し、フロイトのいう「自体愛」とナルシシズムを同一視します。「端的にいえば,サロメは,フロイトのいう「自体愛」の定義に従って,乳児が対象,とりわけ母親と一体感を保っている状態,つまり「始原的な融合状態」 (ND,365)がナルシシズムであると解したわけである。」
- グランベルジェは、サロメの思想を受け継ぎ、胎児や乳児のナルシシズム的なあり方を母親との融合状態である「大海感情(sentiment ocėanique)」(N,32)と喩え、時間的には「完全な恒常的状態(homėostase)」(N,30)と表現します。これらの状態は、生涯を通じて潜在する生の願望であるとされます。
- フロイトのナルシシズム論: フロイトは、ナルシシズムを性的欲動が自己を対象とする状態と定義し、自我の発達が必要であると考えました。「(α)ナル シシズムは,「性的欲動(libido)」が他者な るものを性的対象として,それに向かうケー スではなく,自分を性的対象とするケースの ことであり,(β)それゆえ自我が発達し, 或る程度に形成されていなければ,ナルシシ ズムは生じない。」
- フロイトは、乳児の自・他の区別がない自己充足である「自体愛(Autoerotismus)」とナルシシズムを必ずしも同義ではないとしました。
- 失われた一次的ナルシシズムを再獲得しようとする激しい努力が「自我理想」(F3,61)を生み出すとフロイトは考えます。「この一次的ナルシシズムを再獲得 しようとする激しい努力を生みだす」(「ナル シシズム入門」F3,66)と言う。自我理想は、喪われたナルシシズム的状態の投影であり、精神的外傷に対する防御メカニズムです。グランベルジェは自我理想を「真のオイディプス」(N,132)と名付けます。
- コフートの自己心理学: コフートは、幼児の対人関係における鏡像の役割を重視し、両親が幼児の自己像を映し出す「自己・対象」としての機能を指摘します。「コフー トによれば,幼児の対人関係は幼児自身を映 しだす鏡像としての役割を果たしており,鏡 像が歪みなく曇りないものであれば,その鏡 像は,幼児の自己信頼という内的感情や,そ の自己信頼の外的確証を産みだす鏡像なので ある。」
- 「自己・対象」の不在や不十分さが、病的ナルシシズムの原因となると考えられます。
- 病的ナルシシズム: 病的ナルシシズムは、対象への関心が乏しく、他者を自己の尊大さを映す鏡としてしか見なせない人格障害と定義されます。「アメリカの精神分析学者C・F・ア ルフォードによれば,病的ナルシシズムとは 「人格障害」であって,対象への関心に乏しく, 対象を自己の尊大さを映す鏡としてしかみな しえない精神現象のことである。」
- 性的倒錯は、自・他の融合感という満たされない願望を対人関係において満たそうとする虚しい努力であり、病的ナルシシズムにおいて生命の火が付くとされます。「つまり病的ナルシシズムは,性的倒錯におい て,いわば生命に火がつくのである。」
3. ナルシシズムの隠喩的表現とファロス
- グランベルジェは、乳児のナルシシズムにおける自・他融合の状態を「大海感情」と隠喩的に表現しました。ナルシシズムの状態は不在(無)であり、それを再所有しようとする営みは不在の現前化であると捉えられます。
- 喪われたナルシシズムの代理として「自我理想」が存在し、フロイトはそれを「彼自身が自己の理想であった幼児の,失われたナルシシズムの代理である」(F3,61)と述べています。
- 代理は、無なるナルシシズムをあくまで代理的に、転移し歪曲しつつ表象するものであり、隠喩的表現の一種とみなされます。「代理作用が,無なるナ ルシシズムという事態を代理物という別のもので隠蔽しつつ「表象する(repräsentieren)」 (筆者強調。「無意識」F3,136)働きとみなさ れるならば,代理作用は隠喩的表現の一種の 働きに含まれる。」
- ナルシシズム的願望の充足を象徴するものが「ファロス(Phallus)」であるとされます。ギリシア神話の豊穣神プリアプスがペニスで象徴されることがその根拠として挙げられます。
- ファロスは、「性器的(genital)」体制だけでなく、「性器前的(prägenital)」な根源的ナルシシズムを代理的に表象する象徴として機能します。「要するにファロスと いう言葉は,《ファロス=ペニス》という等 式を指示するばかりでなく,さらに深く「根 源的ナルシシズム」を代理的に表象する象徴 であるということになる。」
- ファロスは、所有欲に基づいた病的ナルシシズムを象徴する「歪んだファロス」(N,240)と、自己の全能感や自・他融合感を象徴する「完全なファロス」(ibid.)という二重の働きを持つとされます。
4. ナルシシズムの時間性
- フロイトは、「〈無意識〉体系の事象には時間がない」(F3,145)と述べており、ナルシシズムの無意識的な状態は《無時間性(Zeitlosigkeit)》を帯びるとされます。
- ナルシシズム的願望の充足された「大海感情」や「恒常的状態」は、無時間性と無意味性を帯びると考えられます。
- ナルシシズム的願望を充足する永遠の現在は、ルソーが夢想したような過去も未来もない至福に満ちた状態として捉えられます。「このようにナルシシズム的願望 を充たしている永遠の現在は,生活の喧しい 彩りを拒絶した「大海感情」に浸って至福の 情態にあるがゆえに,コフートが言うように, 生に対する「静謐なる矜持」(ZP,161-162)を, おそらくは生に対する最高の態度として保持 することができる。」
- しかし、永遠の現在はそれ自体としては現前しえず、人間の言語的な意味経験になりうるならば、他者との葛藤を含む過去の想起と未来の予期を構成契機として含んでいる必要があり、その夢想自体が逆説を孕んでいます。
- ナルシシズムの本質は、神の御座なる永遠の現在にあるのではなく、そこに就こうとして就きえないところにあり、ナルシスの《傲岸(Hybris)》が生じます。
- ナルシシズムは、天へと飛翔する力動性と、胎児の「恒常的状態」へと退行する静態性という相反する両面性を持ちます。
5. グノーシズムにおけるナルシシズム論
- ヨナスは、マンダ教の教典『ギンザー』に記された神話を、「ナルシス -モティーフ(Narziss-Motiv)」(GS277)を有するものとみなします。この神話は、アバトゥルの像が黒い水に映し出され、息子ブタヒルとなるという内容で、外形的にはナルシス神話と類似しますが、内容は全く異なります。ヨナスは、ギリシアのナルシス神話をグノーシズムの神話の「仮晶(Pseudomorphe)」と解釈します。
- 『ギンザー』の神話は、宇宙創成以前の神々の系譜を示す神統記であり、至高神からブタヒルへと一元論的に流出する形で記述されますが、同時に光と闇の二元論的な世界像も示しています。
- ヨナスは、『ギンザー』の神統記を、アバトゥルの宇宙創設の願望が至高神に対する奢りや嫉みを引き起こす「欲動」を露呈する「罪責神話(Schuldmythos)」(GS283)と解釈します。
- グノーシズムは、古代末ヘレニズム期の文化的衰退を背景に、既存の自然神学と創造神学を否定し、この世界と生を人間にとって「異邦(das Fremde)」であると捉える根本経験から生まれます。
- グノーシズムは、此岸と彼岸という二世界説に基づく二元論の思想体系であり、「識られざる新しい神」と「非世界的な自己(das unweltliche Selbst)」(GS249)の探求を旨とします。
- グノーシズムにおける救済は、秘教的な知「グノーシス」を得ること、すなわち世界という虚なるものを否定し、「神を知る(gnosis theou)」ことであり、究極的には「自己」を発見することです。
- マンダ教のナルシス神話は、宇宙製作者ブタヒルの誕生を「黒い水に浮かぶ影像」という隠喩的表現で記し、彼の製作する世界が人間の「欲動」、すなわち「邪欲(Begierde)」のうごめく世界であることを示唆します。
- グノーシズムにおける覚醒(救い)は、「大いなる命」の使者マンダ・ダイエーの呼びかけを聞き、信じることによってもたらされます。それは、人間が自らの本質である「自己」が世界よりも高い神性の出自であり、それを家郷とすることを自覚することに基づきます。
- マンダ教は「人間即神也」という定式で二世界説を克服しようとしますが、ユダヤ教に対する「怨恨(Ressentiment)」(GS228)のために、旧約の神が創った世界や被造物を救済の対象とはしません。グノーシズムは、被造物の世界を顧みず、善悪二元論的な世界像を容認する結果、聖戦を引き起こす可能性さえ孕んでいます。
結論:
論文は、ナルシシズムの精神病理が、ギリシア的であれグノーシズム的であれ、エロスとタナトスの極限的な合致を求めるあまり、「或る一なるもの」という幻想に固執し、善悪両世界の断絶という悪しき意味でのプラトニズムの温床となりかねないという警鐘を鳴らして締めくくられています。「ナルシシズムの精神病理は,ギリシアのものであれ,グノーシズムのものであれ,エロ スとタナトスの極限的な合致を求めるあまり に,自・他の関係性を超越した「或る一なる もの」という幻想を抱いて,それに固執しか ねない。」
本ブリーフィングは、論文の主要な議論と重要な概念を抽出したものであり、ナルシシズムという複雑な現象を理解する上で有益な情報を提供します。
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ナルシシズム研究ガイド
短答式クイズ
- ナルシス神話において、ナルシスが自分の姿に恋をしてしまう原因は何ですか?また、その結果彼はどうなりましたか? ナルシスは、エコーとして反響する自分の声に誘われ、泉に映った自分の姿に恋い焦がれてしまいます。その苦悶のゆえに憔悴し、遂には死んでしまいます。
- サロメはフロイトのナルシシズム論とどのように異なる点を主張しましたか?彼女の提唱する「ナルシシズムの両面性」とはどのような概念ですか? サロメはフロイトがナルシシズムを自我形成後の自己愛と捉えるのに対し、乳児の対象との一体感をナルシシズムと捉えました。「ナルシシズムの両面性」とは、生を高揚させる自己陶酔と死に親しい自己抑鬱の間を揺れ動く動態を指します。
- グランベルジェは、胎児や乳児のナルシシズム的なあり方をどのような隠喩で表現しましたか?それはどのような状態を表していますか? グランベルジェは、胎児や乳児のナルシシズム的なあり方を「大海感情」という隠喩で表現しました。これは、母親の胎内や懐という「大海」に漂いながら一体となり、全能感に満たされている状態を表しています。
- コフートは、失われたナルシシズムを再獲得しようとする努力の表れである「自我理想」をどのように捉えましたか?その概念を説明してください。 コフートは、「自我理想」を両親のイメージの中に幼児自身の像を造り出す鏡像という意味で「自己・対象」と名付けました。幼児は、自分の素晴らしさや万能感を映し出してほしいと願い、両親を理想化し、一体であろうとします。
- 病的ナルシシズムは、正常なナルシシズムとどのように異なりますか?アルフォードは病的ナルシシズムをどのように定義していますか? 病的ナルシシズムは、失われたナルシシズムの「代理」を見つけることに失敗した状態であり、「人格障害」となります。アルフォードは、病的ナルシシズムを対象への関心が乏しく、対象を自己の尊大さを映す鏡としてしかみなせない精神現象と定義しています。
- ファロスは、ナルシシズムにおいてどのような象徴的意味を持ちますか?「歪んだファロス」と「完全なファロス」の違いを説明してください。 ファロスは、失われた自己の全能感や自・他融合感といったナルシシズム的願望の充足を象徴します。「歪んだファロス」は、所有欲に基づいた病的ナルシシズムの象徴であり、「完全なファロス」は、「大海感情」のような自己の全能感や自・他融合感を象徴します。
- グノーシズムにおいて、人間がこの世を「異邦」と感じる根本経験は、どのような思想体系の成立につながりましたか?その特徴を説明してください。 この根本経験は、此岸と彼岸という二世界説に拠る二元論の思想体系の成立につながりました。特徴として、宇宙や肉体を否定的に捉え、この世ならざる家郷への「郷愁」を抱き、秘教的な知識(グノーシス)による救済を目指します。
- 『ギンザー』に記されたナルシス神話は、ギリシア神話とどのような点で共通し、どのような点で大きく異なりますか?ヨナスはこの関係をどのように捉えていますか? 両神話は、泉に映る鏡像という筋立てを共通させますが、『ギンザー』の神話は宇宙創成神話の一部であり、神々の系譜を示します。ヨナスは、ギリシア神話を『ギンザー』の神話の「仮晶」と捉え、外形は似ているが中身は異なると解釈しました。
- グノーシズムにおける「覚醒」とは、具体的にどのような状態を指し、どのようにして可能になると考えられていますか? 「覚醒」とは、「闇の世界」に沈淪している人間が、自らがその「余所者」であることを自覚し、「生」からの福音を理解する状態を指します。それは、「大いなる命」の使者マンダ・ダイエーの呼びかけを聞き、信じることによって可能になると考えられています。
- ナルシシズムの精神病理は、エロスとタナトスの関係においてどのような特徴を持つと考えられますか?その結果としてどのような問題点が指摘されていますか? ナルシシズムの精神病理は、エロスとタナトスの極限的な合致を求めるあまり、自・他の関係性を超越した幻想に固執する傾向があります。その結果、善悪二元論的な思考に陥り、被造物の世界を顧みないといった問題点が指摘されています。
解答キー
- ナルシスは、エコーとして反響する自分の声に誘われ、泉に映った自分の姿に恋い焦がれてしまいます。その苦悶のゆえに憔悴し、遂には死んでしまいます。
- サロメはフロイトがナルシシズムを自我形成後の自己愛と捉えるのに対し、乳児の対象との一体感をナルシシズムと捉えました。「ナルシシズムの両面性」とは、生を高揚させる自己陶酔と死に親しい自己抑鬱の間を揺れ動く動態を指します。
- グランベルジェは、胎児や乳児のナルシシズム的なあり方を「大海感情」という隠喩で表現しました。これは、母親の胎内や懐という「大海」に漂いながら一体となり、全能感に満たされている状態を表しています。
- コフートは、「自我理想」を両親のイメージの中に幼児自身の像を造り出す鏡像という意味で「自己・対象」と名付けました。幼児は、自分の素晴らしさや万能感を映し出してほしいと願い、両親を理想化し、一体であろうとします。
- 病的ナルシシズムは、失われたナルシシズムの「代理」を見つけることに失敗した状態であり、「人格障害」となります。アルフォードは、病的ナルシシズムを対象への関心が乏しく、対象を自己の尊大さを映す鏡としてしかみなせない精神現象と定義しています。
- ファロスは、失われた自己の全能感や自・他融合感といったナルシシズム的願望の充足を象徴します。「歪んだファロス」は、所有欲に基づいた病的ナルシシズムの象徴であり、「完全なファロス」は、「大海感情」のような自己の全能感や自・他融合感を象徴します。
- この根本経験は、此岸と彼岸という二世界説に拠る二元論の思想体系の成立につながりました。特徴として、宇宙や肉体を否定的に捉え、この世ならざる家郷への「郷愁」を抱き、秘教的な知識(グノーシス)による救済を目指します。
- 両神話は、泉に映る鏡像という筋立てを共通させますが、『ギンザー』の神話は宇宙創成神話の一部であり、神々の系譜を示します。ヨナスは、ギリシア神話を『ギンザー』の神話の「仮晶」と捉え、外形は似ているが中身は異なると解釈しました。
- 「覚醒」とは、「闇の世界」に沈淪している人間が、自らがその「余所者」であることを自覚し、「生」からの福音を理解する状態を指します。それは、「大いなる命」の使者マンダ・ダイエーの呼びかけを聞き、信じることによって可能になると考えられています。
- ナルシシズムの精神病理は、エロスとタナトスの極限的な合致を求めるあまり、自・他の関係性を超越した幻想に固執する傾向があります。その結果、善悪二元論的な思考に陥り、被造物の世界を顧みないといった問題点が指摘されています。
論述式問題
- ナルシス神話は、現代社会におけるナルシシズム理解にどのような影響を与えていると考えられますか?本文の内容を踏まえつつ、考察してください。
- フロイト、サロメ、コフート、グランベルジェのナルシシズム論を比較検討し、それぞれの理論が現代精神分析学に与えた貢献と限界について論じてください。
- グノーシズムにおける「ナルシス・モティーフ」は、その思想体系全体の中でどのような意味を持っていますか?ギリシア神話との比較を通して、考察してください。
- 本文で考察されたナルシシズムの時間性と無時間性は、人間の精神生活においてどのような役割を果たしていると考えられますか?具体例を挙げながら論じてください。
- ナルシシズムが、自己愛という肯定的な側面を持つ一方で、病的ナルシシズムという負の側面を持つのはなぜでしょうか?その両側面が人間関係や社会生活に及ぼす影響について、本文の内容を踏まえて論じてください。
用語集
- ナルシシズム (Narcissism): 自己愛。神話のナルシスに由来し、自己への過剰な愛着や関心を指す。精神分析学においては、リビドー(性的欲動)が自己に向けられた状態としても捉えられる。
- 欲動 (Libido): フロイトの精神分析学における主要概念の一つで、広義の性的エネルギー、生の根源的な衝動を指す。パスカルはこれを悪行の源と捉えた。
- 自己 (Selbst): ドイツ語で「自己」。ナルシシズムにおいては、愛の対象となる自己、あるいは失われた一体感を求める主体として重要な概念。
- 鏡像 (Spiegelbild): 鏡に映った自分の像。ナルシスは泉に映った自分の鏡像に恋をした。精神分析においては、自己認識や他者との関係性を考える上で重要な概念。
- 自己愛 (Selbstliebe): 自分自身を愛すること。ナルシシズムと関連するが、必ずしも病的とは限らない。
- 自己解体 (Selbstzerstörung): 自己が崩壊していくこと。ナルシスの鏡像への恋着は自己愛に至らず、自己解体に終わる可能性が示唆される。
- ナルシシズムの両面性 (Dualität des Narzissmus): サロメが提唱した概念で、自己陶酔と自己抑鬱という二つの極端な状態の間を揺れ動くナルシシズムの動態を指す。
- 自体愛 (Autoerotismus): 性的快感が自分の身体の一部に向けられること。フロイトはこれをナルシシズムの初期段階と位置づけた。
- 始原的な融合状態 (ursprüngliche Verschmelzungszustand): サロメが提唱した概念で、乳児が母親と一体感を保っている状態を指す。
- 大海感情 (sentiment ocėanique): グランベルジェが用いた隠喩で、胎児や乳児が母親の胎内や懐で感じる一体感や全能感を指す。
- 完全な恒常的状態 (homėostase): グランベルジェが、乳児の満たされた自・他融合の状態を時間的に規定する隠喩として用いた。
- 自我理想 (Ichideal): フロイトが提唱した概念で、幼児が自分を測る理想像であり、失われたナルシシズムの投影とされる。
- 真のオイディプス (wahrer Ödipus): グランベルジェが「自我理想」を、子供が追求して止まない存在として名付けた言葉。
- 消極的なオイディプス (negativer Ödipus): グランベルジェが、子供が「自我理想」に従おうとするあり方を名付けた言葉。
- 自己・対象 (Selbstobjekt): コフートが提唱した概念で、「自我理想」を、両親のイメージの中に幼児自身の像を造り出す鏡像という意味で名付けた言葉。
- 病的ナルシシズム (pathologischer Narzissmus): 対象への関心が乏しく、他者を自己の尊大さを映す鏡としてしかみなせないような病的なナルシシズムの状態。
- ファロス (Phallus): ナルシシズム的願望の充足を象徴する身体的隠喩。単なる性器としてのペニス以上の意味を持つ。
- プリアプス (Priapos): ギリシア神話の生殖と豊穣を司る神。ファロス(ペニス)で象徴的に描かれる。
- 根源的ナルシシズム (primärer Narzissmus): 「性器前的」な時期の所有感や全能感と関連するナルシシズムの根源的な状態。
- 仮晶 (Pseudomorphe): シュペングラーの概念で、外見は旧来の形態を保ちながら、内実が新しい文化や思想に置き換わっている状態を指す。ヨナスはグノーシズムの特徴を捉えるためにこの概念を用いた。
- グノーシズム (Gnosticism): 紀元一世紀頃に東方で発生し、隆盛した宗教運動。宇宙や肉体を否定的に捉え、秘教的な知識(グノーシス)による救済を目指す。
- シンクレティズム (Synkretismus): 異なる宗教や思想が混淆し、融合する現象。グノーシズムは東西の宗教や思想が混淆したシンクレティズムの様相を呈する。
- ペシミズム (Pessimismus): 悲観主義。古代末のヘレニズム期に見られた時代精神の一つ。
- 二元論 (Dualismus): 世界を根源的に異なる二つの原理(例:善と悪、光と闇)によって説明する思想体系。グノーシズムは二元論的な世界観を持つ。
- 郷愁 (Heimweh): 家郷を懐かしむ気持ち。グノーシズムにおいては、この世ならざる彼岸への憧憬を指す。
- 彼岸 (Jenseits): この世とは異なる世界。グノーシズムにおいては、魂の故郷である超世界的な領域を指す。
- 霊 (Pneuma): グノーシズムにおける概念で、物質的な世界や肉体から分離した、神的な本質を持つとされる。ヨナスはこれを「非世界的な自己」と表現した。
- 終末論 (Eschatologie): 人類や世界の終末に関する教義や思想。グノーシズムは終末論的な色彩の濃い宗教運動である。
- グノーシス (Gnosis): ギリシア語で「知識」を意味する。グノーシズムにおいては、単なる知識ではなく、救済をもたらす秘教的な認識を指す。
- 罪責神話 (Schuldmythos): 『ギンザー』に記された神々の系譜をヨナスが解釈したもので、宇宙創造の過程における神々の奢りや不遜が「罪責」の源であるとする物語。
- 邪欲 (Begierde, concupiscentia): アウグスティヌスやパスカルが用いた言葉で、人間の不正な欲望や衝動を指す。グノーシズムにおいても、悪行を惹き起こす根源とみなされる。
- 覚醒 (Erwachen): グノーシズムにおける救済のプロセス。人間が「闇の世界」からの脱却を自覚し、真の自己や神性を認識することを指す。
- 怨恨 (Ressentiment): ニーチェの概念で、自己の無力感や不満を他者への恨みや憎しみとして表出する感情。マンダ教のユダヤ教に対する感情として言及される。
- 傲岸 (Hybris): ギリシア語で「傲慢」「僭越」を意味する。神の領域を侵そうとする人間の態度を指す。ナルシスの自己への過剰な愛着も一種の傲岸と捉えられる。
- 無時間性 (Zeitlosigkeit): 時間に左右されない性質。フロイトは無意識の体系の事象には時間がないと述べた。ナルシシズムの無意識的な状態も無時間性を帯びると考えられる。
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ナルシシズムとは何ですか?
ナルシシズムは、自己への愛着や関心を指す言葉ですが、本稿では、単なる自己愛とは異なる、より複雑な概念として議論されています。ナルシス神話に由来し、泉に映る自分の姿に恋焦がれて死んでしまったナルシスの物語を通して、自己の鏡像への執着と、本来の自己(Selbst)を見出せない苦悩が示されます。ナルシシズムは、自己の確たる所有感の欠如、言い換えれば生命感情の乏しさに根源があり、自己解体へと向かう可能性を孕んでいます。精神分析学においては、乳幼児期の自・他融合状態と関連付けられ、成長の過程で失われる全能感や一体感を再獲得しようとする欲動として捉えられます。
精神分析学におけるナルシシズム論の主要な論者は誰ですか?彼らはナルシシズムをどのように捉えていますか?
精神分析学におけるナルシシズム論の主要な論者として、ルー・アンドレアス・サロメ、ジークムント・フロイト、ベラ・グランベルジェ、ハインツ・コフートらが挙げられます。
- サロメは、ナルシシズムを自己陶酔と自己抑鬱の間を揺れ動く「ナルシシズムの両面性」として捉え、乳児の母親との一体感である「始原的な融合状態」をナルシシズムの根源と考えました。フロイトの定義する自我形成後の「自己愛」とは異なり、より根源的な状態を重視しました。
- フロイトは、ナルシシズムを性的欲動(リビドー)が他者ではなく自己に向かう状態と定義し、自我が発達した後に生じると考えました。乳児期の自・他の区別がない自己充足である「自体愛(アウトリビドー)」とは必ずしも同義ではないとしました。しかし、喪失された一次的ナルシシズムを「自我理想」として再獲得しようとする努力も指摘しました。
- グランベルジェは、サロメの考えを受け継ぎ、胎児や乳児のナルシシズム的なあり方を母親との一体感を表す「大海感情」という隠喩で表現しました。また、「自我理想」を喪失されたナルシシズムの投影であるとし、子供が自分を測る目安となる「真のオイディプス」と名付けました。
- コフートは、幼児の対人関係における他者(自己対象)が、幼児自身の鏡像としての役割を果たすと考えました。歪みのない鏡像は自己信頼を生み出すとし、「自我理想」を両親のイメージの中に幼児自身の像を造り出す鏡像という意味で「自己対象」と名付けました。
「自我理想」とは何ですか?それはナルシシズムとどのように関連していますか?
「自我理想」とは、喪失されたナルシシズム的状態の投影であり、ナルシシズムを損なう精神的外傷に対する防御メカニズムとして機能すると考えられます。フロイトによれば、幼児期の自己の理想であったナルシシズムが失われた後、それを再獲得しようとする激しい努力が生じ、「自我理想」はその代理として眼前に投影されます。グランベルジェは、「自我理想」を子供が自分を測る目安となる存在、追求してやまない存在であるとし「真のオイディプス」と名付けました。コフートは、「自我理想」を自己を映し出す他者(自己対象)の中に形成される自己の理想像として捉え、喪失されたナルシシズムの投影や転移であるとしました。いずれにせよ、「自我理想」は、失われた全能感や自・他融合感を部分的に補償し、自己の安定性を保つために重要な役割を果たします。
ナルシシズムは常に病的なものですか?病的なナルシシズムはどのような特徴を持ちますか?
ナルシシズムは必ずしも病的なものではありません。胎児や乳児期の自・他融合状態は正常な発達段階であり、成長と共に喪失されます。しかし、喪われるべきナルシシズムの「代理」(自我理想)を見つけることに失敗した場合、ナルシシズムは病的な「人格障害」となる可能性があります。病的なナルシシズムの特徴として、対象への関心が乏しく、他者を自己の尊大さを映す鏡としてしか見なせない精神現象が挙げられます。他者との関係が貧弱なため、客観的な自己評価を下すことができず、自己誇大妄想や自己卑下、性的倒錯などの症状を呈することもあります。
ファロスはナルシシズムにおいてどのような意味を持ちますか?
ファロスは、ナルシシズム的願望の充足を象徴する身体的な隠喩として重要な意味を持ちます。第一に、性器であるペニスと同様に「性器的」体制を象徴しますが、より深くには「性器前的」な根源的ナルシシズムを代理的に表象する象徴と考えられます。性的な違いを超えて、ナルシシズム的な全一感や自・他融合感といった情態を指し示すのです。グランベルジェは、所有欲に基づいた病的なナルシシズムの象徴として「歪んだファロス」を、自己の全能感や自・他融合感を象徴する「完全なファロス」を区別しました。ファロスは、不在であるナルシシズムを代理的に現前化するものであり、それ自体としては無をその組成としています。
グノーシズムにおけるナルシシズム論は、ギリシア神話や精神分析学のそれとどのように異なりますか?
グノーシズムにおけるナルシシズム論は、ギリシア神話や精神分析学とは異なる独自の視点を持っています。ギリシア神話のナルシス物語は、自己愛の悲劇として描かれますが、グノーシズムでは、宇宙創成神ブタヒルの自己の鏡像への関わりが、悪の根源となる「欲動」と結びつけられます。神々の系譜の中で、自己の像に恋焦がれるモチーフは共通するものの、その内容は宇宙論的な意味合いを持ちます。精神分析学が個人の心理発達におけるナルシシズムを扱うのに対し、グノーシズムは、ナルシシズム的モチーフを宇宙の根源的な分裂や人間の置かれた苦境を説明する枠組みの中で捉えます。自己の像への執着は、光の世界からの堕落や、闇の世界への囚われと関連付けられ、救済は自己の本質(霊)を認識し、この世からの脱出を目指す知識(グノーシス)によって達成されると考えられます。
グノーシズムにおける「闇の世界」と「光の国」とは何を指しますか?人間の救済はどのように達成されると考えられていますか?
グノーシズムにおける「光の国」は、混じりけのない全き光に満ちた、静謐で永遠の善の国を指します。一方、「闇の世界」は、光の国から隔絶した、混乱と喧騒に満ちた、いわば死の世界であり、「邪悪」な世界とされます。「黒い水」の象徴するこの闇の世界に、人間は意図せず「投げ込まれた」存在として苦悩します。人間の救済は、この闇の世界からの覚醒、すなわち自己の本質である「霊」が世界よりも高い神性の出自であり、光の国を家郷とすることを認識する「グノーシス」(知識)によって達成されると考えられます。使者マンダ・ダイエーの呼びかけを聞き、それに聴き従うことが、この覚醒への道であり、救済へと繋がります。グノーシズムは、「人間即神也」という定式で示されるように、自己の神性を認識することを目指しますが、それは死後の生において成就される終末論的な意識においてのみ現実化するとされます。
ナルシシズム論は、現代社会においてどのような意義を持つと考えられますか?
ナルシシズム論は、現代社会における自己中心性、承認欲求、人間関係の希薄さ、情報過多による自己像の不安定さなど、様々な現象を理解する上で重要な視点を提供します。自己愛と他者への関心のバランスの重要性、健全な自己肯定感の育成、共感性の欠如がもたらす問題、SNSなどにおける自己表象のあり方など、現代社会が抱える課題とナルシシズムの概念を結びつけて考えることができます。また、文化や社会構造が個人のナルシシズム形成に与える影響を考察することで、より良い人間関係や社会のあり方を模索する手がかりとなるでしょう。グノーシズムにおけるナルシシズム論のように、自己と世界の根源的な関係性を問い直す視点は、現代人が抱える孤独や疎外感を理解する上でも示唆に富んでいます。convert_to_textソースに変換NotebookLM は不正確な場合があります。回答は再確認してください。