ナルシシズム
Narcissism
帝政ローマ時代初期の詩人オウィディウス (Ovidius BC43-AC17or18)は,『変身物語』 のなかにナルシス神話を記載している。それ によれば,美しい肢体に非常な思い上がりを 隠しもった美少年ナルシスは,不幸にも彼を 恋慕してしまったこだまの妖精エコーの声
―実はこだまとして反響する自分の声―
に誘われるままに,泉に映った自分の姿に恋 い焦がれてしまい,自分自身への苦悶のゆえ に憔悴して死んでしまった。 ナルシス神話は,端的にいって,人間に纏 いつく性愛の物語である。男性である美少年 ナルシスが,泉に映る自分の肉体美を見て, それを得ようとして,それに恋い焦がれてし まったかぎり,ナルシスはこの世に生きる人 間の「欲動(Libido」を露呈させたとも言え る。古今東西を問わず,さらにまた宗教の違 いをも越えて,あえてパスカルを引き合いに 出せば,そうした「欲動」は,人間が犯す悪 行の源なのである 1 )。 ではナルシスが悪を惹き起こすとすれば, それはなぜなのか。彼が愛したのは,こだま の妖精の反響であった。こだまの妖精は,ナ ルシスの言葉を反響するだけであるがゆえ に,他者というならば,擬いものの他者であ る。ではナルシスは自分自身を愛したのか。
ナルシスの愛した自分自身とは,泉に映った 自分自身,要するに自分の鏡像以外のなにも のでもない。だとすれば,鏡像が鏡像である 以上,ナルシスは自分の鏡像から逃れて,鏡 面の背後にあると想定される本来の自分を見 つけ,本来の自分を愛したろうか。否,ナル シスは自分の鏡像に恋い焦がれてしまったの であり,本来の自分,つまり〈自己(Selbst)〉 なるものを見つけはしなかった。むしろ,彼 の鏡像への恋着は,確たる自己所有に到るど ころか,自己を所有したいという狂おしい 〈欲動)〉に火を点けただけであった。そうし た欲動が自己愛だと解してはならない。否, その逆が真であって,彼の鏡像への恋着は, まさにその鏡像の魔性のゆえに,自己愛どこ ろか自己解体に終わるのではないだろうか。 より詳しくいえば,ナルシスの恋した自分の 鏡像は,鏡像であるがゆえに朧げなものであ り,自分自身の確たる所有感をもたらすどこ ろか,他者や自然からの孤絶ばかりか,自己 解体をもたらしたのではないか。つまるとこ ろ,ナルシスが悪を惹き起こす所以とは,自 己の存在感の希薄,言い換えれば,死と親し い生命感情,つまり乏しい生命感情にあった のではないか。これが,本稿をつらぬく問い である。
第一章では,ルー・アンドレアス・サロメ (L.A.Salomé 1801-1937)のナルシシズム論を 主に考察する。彼女は,精神分析学の創始者 S・フロイト(Freud 1856-1939)の女弟子と して,彼の衣鉢を継ぎながらも,彼を凌駕す る論考を著わしたと言ってもよい。ロシア出 身のサロメは,ドイツ語圏で活躍した著述家 であったから,詩人R・M・リルケ(Rilke 1875-1926)の女友達として,時代の精神的 問題としてのナルシシズムの組成たる精神病 理――すなわち自・他融合に恋い焦がれた生 命のいわば飢餓状態――に直に触れえたに相 違ない。ちなみに,P・ヴァレリー(Valėry 1871-1945)に心酔して『ナルシス断章』を 独訳したのは,リルケであった。 第二章では,ユダヤ系ドイツ人の哲学者ハ ンス・ヨナス(Jonas 1903-1993)がグノーシ ズム(Gnosticism)に関する自著『グノーシ スと古代末の精神』(1934年刊)において論 じたナルシシズム論を考察する。この著書は, ヨナスがマールブルクで哲学をM・ハイデ ガー(Heidegger 1889-1976)に,神学をR・K・ ブルトマン(Bultmann 1884-1976)に――ヨ ハネ福音書とグノーシズムの関連を論じた新 約聖書学者――に学び,そのブルトマンに提 出した教授資格論文であり,ハイデガーの実 存論的分析に基づいて,グノーシズムという 古代末ヘレニズム期の宗教思想を考察したも のであるがゆえに,ナルシシズムの精神病理 ――すなわち自・他融合どころか,自・他の 分裂を惹き起こす悪――の宗教的始源へと遡 行しえたと言えよう。
- 第一章 精神分析学におけるナルシシズム論 【α】 ナルシシズムすなわち乳児の自・他融合情態
- 【β】ナルシシズムの隠喩的表現,プリアプス
- 第二章 グノーシズムにおけるナルシシズム 論
- 【α】 古代末ヘレニズム期のグノーシズム, マンダ教
- 【β】闇の世界,悪,欲動
- 【γ】覚醒すなわち救い
- 結論
- ナルシシズムとは何ですか?
- 精神分析学におけるナルシシズム論の主要な論者は誰ですか?彼らはナルシシズムをどのように捉えていますか?
- 「自我理想」とは何ですか?それはナルシシズムとどのように関連していますか?
- ナルシシズムは常に病的なものですか?病的なナルシシズムはどのような特徴を持ちますか?
- ファロスはナルシシズムにおいてどのような意味を持ちますか?
- グノーシズムにおけるナルシシズム論は、ギリシア神話や精神分析学のそれとどのように異なりますか?
- グノーシズムにおける「闇の世界」と「光の国」とは何を指しますか?人間の救済はどのように達成されると考えられていますか?
- ナルシシズム論は、現代社会においてどのような意義を持つと考えられますか?
第一章 精神分析学におけるナルシシズム論 【α】 ナルシシズムすなわち乳児の自・他融合情態
ロメは,ナルシスについて,こう述べて いる。すなわち,「伝説上のナルシスは人工の鏡の前に立ったのではなく,自然の鏡の前 に立ったということを想起する必要がある。 おそらく彼が見たのは,水中に映った自分の 姿だけでなく,自分以外のすべてのものをも 見たのである。そうでなければ,どうして彼 が留まっておれたか。彼は恐怖に襲われて逃 れはしなかったか。その顔は,恍惚と同時に 憂鬱を表わしてはいなかったか」(ND 396), と。サロメによれば,一方で,ナルシスの恍 惚は,自分の鏡像に魅せられて自己陶酔に 陥ったためである。鏡像が実在のものではな い以上,彼の自己陶酔は自己や他者との一体 感・融合感への願望から生じたものに他なら ない。他方で,ナルシスの憂鬱は,彼が他者 や自然から孤絶したばかりか,自己との一体 感への願望を果たしえなかったためである。 サロメは,生を高揚せしめる自己陶酔と,死 に親しい自己抑鬱との両極のあいだを揺れ動 く動態を「ナルシシズムの両面性」(ND 363)となづけている 2 )。
ナルシス神話が性愛の物語であるならば, 性愛をどうみなすかによって,ナルシシズム 論に違いが生じることになる。現に,フロイ トと弟子のサロメとのあいだには,見解の相 違がある。フロイトにおいては,(α)ナル シシズムは,「性的欲動(libido)」が他者な るものを性的対象として,それに向かうケー スではなく,自分を性的対象とするケースの ことであり,(β)それゆえ自我が発達し, 或る程度に形成されていなければ,ナルシシ ズムは生じない。(δ)要するにナルシシズ ムは,「性器前的(prägenital)な時期の第一 段階,すなわち口唇期の生後間もない乳児が 自・他の区別を意識しないで,自分自身の身 体に充足している「自体愛(Autoerotismus)」 (「ナルシシズム入門」F3,44)と必ずしも同 義ではない。それに対してサロメは,フロイ トのいうナルシシズムが乳児の「自体愛」(E,156)と同じだとみなす。というのは,ナ ルシシズムが自我の形成されてある「自己 愛」と解されてしまうならば,乳児のナルシ シズム的なあり方,すなわち「ナルシシズム の両面性」が隠蔽されてしまうことを,サロ メが恐れたためである。端的にいえば,サロ メは,フロイトのいう「自体愛」の定義に従っ て,乳児が対象,とりわけ母親と一体感を保っ ている状態,つまり「始原的な融合状態」 (ND,365)がナルシシズムであると解したわ けである。こうした自・他の融合状態が,「性 器前的」な乳児や,さらに遡って胎児のあり 方を規定する。乳児や胎児は,母親に寄生し ながらも,母親から一切を摂取し,母親の懐 にありながらも全能感を満喫している。母親 という存在――乳児が,ましてや胎児が自分 に対峙している対象を自覚しているわけでは ないから,自分を包み込んでいる存在――へ の,つまり自己の鏡像とでもいうべき存在へ の寄生と自己の全能感,母親との融合状態に おける自・他の一体感と悦ばしい自己解体感 こそ,サロメがナルシス神話から「ナルシシ ズムの両面性」として際立たせたものに外な らない。最近では,精神分析家のB・グラン ベルジェ(Grundberger 1903-2005)が,サロ メから想を汲んで,胎児や乳児のナルシシズ ム 的 な あ り 方 を「 大 海 感 情(sentiment ocėanique)」(N,32)に喩えている。なぜなら, 胎児や乳児は,母親の胎内や懐という「大海」 に漂いながら「大海」と一つになっており, 「大海」が自分の世界の全体であり,その世 界に浸りきって全能感に充たされているから である。述べるまでもなく,「大海感情」とは, 胎児や乳児の心理状態を指すのではなく,彼 らのあり方を指す隠喩なのである。より詳し くいえば,「大海感情」は,胎児や乳児のナ ルシシズム的なあり方を規定する空間的な隠 喩であって,乳児の充たされた自・他融合のあり方を時間的に規定すれば,それは「完全 な恒常的状態(homėostase)」(N,30)となづ けられる。というのも,胎児や乳児には,成 人した大人が抱かざるをえない生々流転など の時間意識はよもや存在しないであろうし, ましてや時計で測られるような物理的時間を 習熟しているわけがないからであり,それゆ えにナルシシズムの状態は無時間的であり, 無規定という意味で無限であるからである。 サロメやグランベルジェによれば,「大海感 情」や「完全な恒常的状態」なる隠喩は,胎 児や乳児の「性器前的」な体制を指すとは いっても,しかし正常な成人でさえ密かに 願っている情態である。それゆえ,こうした 隠喩の指すナルシシズム的なあり方は,生涯 を貫き生涯のどこにでも潜んでいる生の願望 である。ただし,永遠の眠りという隠喩が示 唆するように,それの実現を叶えるとすれば, 死であるか,死に親しいものでしかなかろう。 だとしても,ナルシシズムは病的だと決め付 けられてはならない。 胎児や乳児のナルシシズム的なあり方は 自・他の融合状態であることは,論を俟たな い。がしかし,そもそもナルシシズムは,た とえこの子たちが対象として自覚していない にしても,やはり例えば母親という対象に関 係しているのであって,ナルシシズムの本質 が没・他者関係や没・対象関係にあるとは言 えない 3 )。繰り返しを厭わずにいえば,乳児 が母親に寄生しながらも母親から一切を摂取 できるのは,母親との関わりがあるからこそ である。その逆をいえば,ナルシシズムの反 対は,対象への関わりが無いことではなく, 対象愛が欠けていることなのである。胎児は もちろんのこと,乳児にしても,母親に依存 し母親に面倒をみてもらってはいても,母親 を大切にして,慈しんでいるわけがない。そ れゆえに彼らにとって,そもそも母親のような他者なるものは,いわば自己のための存在 であり,自己による存在である。だとすれば, こうした乳児のナルシシズム的なあり方に, 所有への渇望がもともとから潜んでいるとも 言える。より詳しくいえば,ナルシスが激し く対象を恋慕したように,また乳児が母親の 胸を求めるがゆえに,ナルシシズムは休みな く,そして激しく対象を追求する。そのよう な対象追求にこそ,自己と他者の互酬性に基 づいた対人関係の倒錯が生じてくる源がある と言える。グランベルジュによれば,「対象 関係においては,自己は他者に関して主体で あり,主体は自己と他者においてお互いに入 れ替わる。ナルシシズムにおいては,自己は 自己でありつづけ,互酬性はない」(N,137) のである。 「性器前的」な時期の乳児が自分自身に充 足している「自体愛」――フロイトのう「一 次的ナルシシズム」――が有している,自・ 他の融合感に浸った全能感は,乳児がエネル ギーを備蓄し対他関係の内へと成長してゆく とともに喪われるべくして喪われざるをえな い。それゆえにナルシシズムを損なう精神的 外傷に対して,防御メカニズムが構築されな ければならない。フロイトは,自我の発達は, 対他関係の内へと入り込むことであるから, 「一次的ナルシシズムから或る距離をとるこ とによって成り立つ」といいながらも,その 一方で,「この一次的ナルシシズムを再獲得 しようとする激しい努力を生みだす」(「ナル シシズム入門」F3,66)と言う。ナルシシズ ムを「自我理想」(F3,61)として再獲得しよ うとするのが,その努力である。従って「自 我理想」は,喪われたナルシシズム的状態の 投影であり,ナルシシズムを損なう精神的外 傷に対する防御メカニズムであるわけであ る。グランベルジェは,子供が自分を測るさ いの目安となる存在,それゆえ子供が追求して止まない存在であるような「自我理想」を 「真のオイディプス」(N,132)と名づけてい る。また子供は,「自我理想」に従おうとも するし,現に従う。グランベルジェは,その ような「自我理想」を「消極的なオイディプ ス」(ibid.)と名づけている。彼のいう「オ イディプス」とは,真であるか消極的である かにかかわりなく,喪われたナルシシズムの 投影たる「自我理想」として,「ナルシシズ ム的な全能者の代理(reprėsentant)」(N,132) のことなのである。 そうした代理は実在の父親であろうか。グ ランベルジェによれば,実在の父親は,「オ イディプス」と同じである必要はないが,し かし「ナルシシズム的な全能者の代理」とし て,「オイディプス」の役割を荷なうととも に,恋慕の対象である実在的な人格である。 ところが,オーストリア出身の精神分析学者 H・コフート(Kohut 1913-1981)は,グラン ベルジェに与みしながらも,実在の両親に 「自我理想」」(ZP,143)の役割を見る。コフー トによれば,幼児の対人関係は幼児自身を映 しだす鏡像としての役割を果たしており,鏡 像が歪みなく曇りないものであれば,その鏡 像は,幼児の自己信頼という内的感情や,そ の自己信頼の外的確証を産みだす鏡像なので ある。それゆえコフートは,「自我理想」を, 両親のイメージのなかに幼児自身の像を造り だす鏡像という意味で「自己・対象」と名づ ける。もっとも,そう名づけられるにせよ, 「自己・対象」も,喪われたナルシシズムの 投映や転移に他ならない。つまり幼児は,自 分の素晴らしさとか万能感とかを映しだして ほしいし,父であれ母であれ,性別に拘わり なく,父や母をまさに「自我理想」として極 端に理想化したいし,「自我理想」の役割を 荷っている他者と一体でありたいわけであ る。もしも「自己・対象」が不在であるか,それとも願望を充たしえない不十分な鏡像で あるか,または歪みがあり曇りのある鏡像で あるならば,病的ナルシシズムの症状を呈し て,自己称賛や,理想化された「自己・対象」 を追い求めることになってしまう。だとすれ ば,「自我理想」が「オイディプス」か,そ れとも「自己・対象」か,いずれに名づけら れようと,「自我理想」は,喪われたナルシ シズムの「代理」として必要不可欠なもので あるわけである。それに一言注意を加えれば, 「自我理想」が必要不可欠だとはいえ,それ がだれにでも,どこでも均一で普遍的に妥当 であるはずはない。「自我理想」は文化圏の 違いによって異なってくるであろうし,同一 の文化圏のなかでも,個々の幼児が抱く「自 我理想」は微妙な差異を含んでいるはずであ る。その逆をいえば,「自我理想」が必要不 可欠な「代理」である以上,乳児の全能感, 自・他の融合感を具えた情態であるナルシシ ズムが喪われて無に等しいにもかかわらず, こうした代理が人間の生涯を規定しつづける ことになる。 ナルシシズムは必ずしも病的ではない。し かしナルシシズムという喪われるべきして喪 われた楽園の「代理」を見つけることに失敗 したとき,ナルシシズムは病的な「人格障害」 となる。アメリカの精神分析学者C・F・ア ルフォードによれば,病的ナルシシズムとは 「人格障害」であって,対象への関心に乏しく, 対象を自己の尊大さを映す鏡としてしかみな しえない精神現象のことである 4 )。言い換え れば,病的ナルシシズムは,他者との関係が 貧しいがゆえに客観的な自己評価を下しえな いのであって,遠藤周作が『白い人』で描い ているように,自己の誇大妄想や,その逆に 自己卑下の症状を呈して,同性愛の空想や行 為に走ってしまうことにもなるのである 5 )。 性的倒錯もまた,自・他の融合感という充たしえない願望を,対人関係において充たそう とする虚しい努力であって,当の本人にもそ の相方にも悲惨な事態をもたらしかねないの だと言えよう。それゆえにスイスの精神科医 M・ボス(Boss 1903-1990)は性的倒錯を, 歪められた形においてではあるが,愛の世界 内存在の可能性に到達せんとすることの現わ れだと解している 6 )。なぜなら,正常な場合 においては,自・他の不断の贈与と受容のな かで愛の世界内存在が実現されうるのに対し て,病的ナルシシズムにおいては,自・他の 贈与と受容が妨げられてしまっているのであ り,自・他の融合体験は性的倒錯において獲 得され,享受される他に術がないからである。 つまり病的ナルシシズムは,性的倒錯におい て,いわば生命に火がつくのである。だとす ると,病的ナルシシズムは,正常な自・他の 融合体験を持っていないばかりか,統合的で 確たる自己像を保有してもいないし,自己価 値づけも脆弱であるということになる。それ ゆえ,病的ナルシシズムは,ナルシス神話が 物語るように,自己の確たる所有を渇望しな がらも自己解体の危機に瀕している生の情態 だといっても言いすぎではない。
【β】ナルシシズムの隠喩的表現,プリアプス
上述のようにグランベルジェは,乳児のナ ルシシズムにおける自・他融合の情態を巧み に「大海感情」と隠喩的に表現した。その理 由は明らかであろう。すなわち,ナルシス神 話が物語るように,自己所有への渇望や自・ 他の融合への願望があるだけであって,自己 の確たる所有や自・他融合の情態という「大 海感情」が現に在るわけがないのである 7 )。 端的にいえば,ナルシシズムの情態は,もは や不在つまり無である。だとすれば,ナルシ シズムを再所有しようとする営みは不在の現 前化だということになる。そして,その営みにとって選択肢はただ二つしか残されていな いことになる。すなわち,それを再所有しよ うと飽くことなく求めてゆくか,それの代理 を所有するか,いずれかである。前者を採れ ば,自己解体の危険に晒される。後者を採れ ば,代理に甘んじざるをえない。その代理が 「自我理想」である。フロイトは,「自我理想 として眼前に投影するものは,彼自身が自己 の理想であった幼児の,失われたナルシシズ ムの代理である」(F3,61)と言う。実際われ われは,平凡だが危険のない暮らしを営んで いるなかでは代理で満足している。その裏返 しを精神分析の症例が証ししているように, 被分析者は,精神分析家という「鏡」に彼の 「自我理想」を投影するのである。彼の投影 する像は,転移・隠蔽・歪曲といった形態を とってはいても,ナルシシズムを出自とする その代理に他ならない。一方で代理は,代理 である以上,それが代理するもの,つまりナ ルシシズムでは決してない。しかも,喪われ たナルシシズムは,それ自体としては現前し えない,不在つまり無である。それゆえ代理 は,無なるナルシシズムをあくまで代理的に, 転移し歪曲しつつ表象している何らかのもの に他ならない。他方で代理は,客体的な存在 者であるにもかかわらず,それ自体の客体性 を有すると同時に,その客体性を失う。なぜ なら,代理はナルシシズムの代理であるがゆ えに,代理それ自体のもつ客体性を介して, ナルシシズムという客体性以上のものを指示 しなければならないからである。ナルシシズ ムの「代理(Repräsentant)」を産むメカニズ ムは説明を要しない。代理作用が,無なるナ ルシシズムという事態を代理物という別のも ので隠蔽しつつ「表象する(repräsentieren)」 (筆者強調。「無意識」F3,136)働きとみなさ れるならば,代理作用は隠喩的表現の一種の 働きに含まれる 8 )。代理によって無を表象し現前化する働きが,フロイトやサロメのいう 「象徴」(ND,376)の働きに他ならない。た だし注意すべきは,客体的な存在者たる代理 がそもそも客体化しえない無なるナルシシズ ムを隠喩的に表現する以上,ナルシシズムは 代理を介して解釈しつくしえないのであり, たとえ解釈されるとしても,その解釈は多義 的であらざるをえないし,解釈の妥当をめ ぐって議論されなければならないということ である。いまや,ナルシシズムの象徴性,隠 喩性が問われる。 ナルシシズム的願望とは,自己の全能感・ 全一感や自・他の融合状態という喪われた状 態への願望のことである。そうしたナルシシ ズム的願望の充足を象徴するものは,何と名 づけられるだろうか。それは,ナルシシズム の身体的隠喩である「ファロス(Phallus)」 であろう。現にギリシア神話は,豊かな生殖 と豊穣を司る神をファロスつまり性器官ペニ スで象徴的に描き,「プリアプス(Priapos)」 と称していた。しかしながら神を識ること, 名づけることは,人間の傲岸ではないのか。 ヴァレリーは,「エロスはプリアプスを知っ てはならぬとされていた」9 ),と書き残して いる。だが人間は,瀆神の罪を負おうとも, それを名づけざるをえないのはないか。なぜ なら,ファロスの象徴的な身体的=精神的機 能がナルシシズムの代理を果たすならば, ファロスの象徴的な身体的=精神的機能のな かに,ナルシシズムの象徴性,隠喩性を透視 することができるからである。 ファロスという言葉は,第一に,性器官で あるペニスと同様,「性器的(genital)」体制 を象徴的に言い表わしている。しかし「性器 前的」な時期においても,一個の性器官がだ んだんと自我形成に影響を与えてゆく。男児 は,父親のペニスを所有しようという心理的 葛藤を演じるようになるし,また自分のペニスが去勢されないかという恐怖感を抱くよう になる。また女児にとっては,ペニス獲得の 心理的葛藤は,ペニス羨望やペニス嫉妬とし て現われる。それはペニス所有の裏返しであ るがゆえに,女性的なものの像は《女=去勢 された男》という等式によって表わされる。 コフートによれば,男児と女児の違いに拘わ りなく,幼児が恥じらいもなくペニスを曝し たり眺めたりしている「男根期」(ZP,220-221)においては,ペニスが幼児の感受性の 中心に位する。なぜならペニスは,幼児が後 年になって劣等感を抱いたり,露出症などの 病的ナルシシズムに陥ったりする一因でもあ るからである。ただし注意すべきは,去勢恐 怖やペニス嫉妬はその本質上,「男根期」に 先行する「肛門期・攻撃期」の自我形成に属 しているということである。グランベルジェ によれば,女児におけるペニス嫉妬が男児の ように排尿したいという願望に基づいている という仮説は「肛門期・攻撃期」の性欲を考 察した結果として生まれたものであり,その 仮説はペニス嫉妬のきわめて表面的な捉え方 である。そこでグランベルジェは,「肛門期・ 攻撃期」に関する「別の仮説」(N,244-245) を付け加える。その仮説によれば,「肛門期・ 攻撃期」における対象関係は,対象支配を保 証する「力関係」を目的としているのであり, その目的のために,対象を所有するか,それ とも喪失するかが去勢恐怖やペニス嫉妬を惹 き起こすのである。だとすると,ファロスつ まり身体器官としてのペニスの獲得と喪失, 去勢恐怖やペニス嫉妬という「精神的外傷」 は,ペニスという純身体的器官を有するか否 かに関わるのではなく,むしろそれ以前の 「性器前的」な時期の「根源的ナルシシズム」 (N,121)にあったはずの所有感や全能感に関 わっていることになる。要するにファロスと いう言葉は,《ファロス=ペニス》という等式を指示するばかりでなく,さらに深く「根 源的ナルシシズム」を代理的に表象する象徴 であるということになる。 ファロスという言葉が「性器前的」な「根 源的ナルシシズム」の象徴だとなれば,その 言葉は第二に,「性器的」な性の違いを越え てナルシシズム的な全一感や自・他融合感と いった情態を指すことになる。グランベル ジェは,ファロスがその象徴であることの論 拠として,「父親像」と「ファロスをもった 母親像(l’ imago de la mėre phallique)」(N,321) とが「自我理想」としては一体であることを 挙げている。その場合,「ファロスをもった 母親像」は,男親と女親という実在的な相関 関係を越えたものである。またサロメは,「母 性」(ND,368)が能動性と受動性とを具えて おり,母親が我が子を産み保護し支配し,そ の子に対して責任を負う以上,母性と父性と は相通ずることを指摘している。要するに 「母性」は,父親と母親という実在的な相関 存在より以上のものを意味する。とすれば, 「ファロスをもった母親像」におけるファロ スという言葉は,ペニスという身体器官にま つわる「性器的」体制を指すのではなく,ま た何らかの実体あるものを指すのでもなく, ペニスという身体器官でもって,「性器前的」 ないわゆる根源的ナルシシズムを代理的に象 徴しているのである。その場合にペニスは, ナルシシズムを連想せしめる身体的象徴と なって,その純粋に性衝動的な実質を失って いるのである。 ファロスの象徴作用は,正常でも病的でも ありうるナルシシズムに発して,二重の働き をなす。一方でファロスは,ナチスが対象を 暴力的に支配するために用いた「血と大地」 という政治宣伝上の言葉と同様,そしてまた ペニスから連想される剣や槍と同様,暴力的 で攻撃的なもの・サディズム的なものを象徴している。それは,《ファロス=ペニス》と いう等式の病的な側面を象徴している。グラ ンベルジェは,このような象徴としてのファ ロスを,所有欲に基づいた病的ナルシシズム の象徴という意味で「歪んだファロス」 (N,240)と名づけている。他方で,「ファロ スをもった母親像」が自我理想であるように, ファロスは,「大海感情」の情態,つまり自 己の全能感や自・他融合感といった情態を象 徴している。グランベルジェは,この意味で のファロスを「完全なファロス」(ibid.)と 名づけている。その場合,ペニスは「性器的」 な実質を失って「性器前的」状態を代理的に 表象するものであるがゆえに,その客体的な 実在性は虚ろなものになる。 自己の全能感とか自・他の融合感とかへの 願望,つまりナルシシズム的願望の充足を象 徴するものがファロスであるならば,生殖と 豊穣を象徴する神,プリアプスがなぜペニス を具えているのかが明らかになる。ともかく, 「性器前的」なナルシシズム的願望が生涯を 貫いてペニスの「性器的」な対象支配・対象 所有を規定しつづける以上は,「性器前的」 なナルシシズムの象徴であるファロスは,ペ ニスの「性器的」体制を規定しつづける。と ころが,ファロスの象徴する「性器前的」体 制とは不在つまり無であるがゆえに,無が 「性器的」体制を規定しつづけるわけである。 ファロスの象徴する無に対して客体的に在る ものは,身体器官であるペニスに他ならない。 しかし,《ファロス=ペニス》の内部を透視 してみるならば,その内部は真っ暗な空洞で あろう。なぜならペニスは,一方で,「性器 前的」体制を代理せざるをえない,いわば不 在の現前化を果たさなければならないが,し かし他方で,まさに不在の現前化のゆえに, それ自体としては名づけえざる無を組成とし ているからである。それゆえサロメは,神プリアプスがペニスを具えている謎を,このよ うに解する。すなわち,神プリアプスは,ペ ニスという身体器官でもって,「〈有身体性〉 より以上のもの」を象徴している。しかし逆 に,ペニスが代理以外の何ものでもないにも かかわらず,代理以上の実在感と所有感が渇 望されるならば,ナルシシズムに纏わる性愛 の悲喜劇ばかりか,人間の傲岸をも産むので ある,と(ND,371)。 個々人の生活史は,個々人の来歴を物語っ ている。個々人の来歴,つまり歴史的かつ空 間的に――しかも地域文化的に――制約され た来歴が,それぞれの存在体制を形成してい るのであり,だからこそ自己と世界への否応 のない親密なる感情をもたらしているのであ る。ナルシシズムの精神病理にとっても,そ れが生活史に由来する以上,来歴は等閑に付 されるべきではない。なぜなら,病的ナルシ シズムの由来は,ファロスに象徴される「自 我理想」を抱きえなかったがゆえに自己を恋 慕するに留まって自己を所有しえなかった来 歴に潜んでいるからである10)。それゆえに病 的ナルシシズムは,獲得しえなかった「自我 理想」を繰り返し埋め合わせようとして,胎 児や誕生間もない乳児の全能感に繰り返し回 帰しようとする。しかし,そもそもナルシシ ズムは,その生活史に由来するにもかかわら ず,それぞれの人の生涯を貫き,生涯のどこ においても襲ってくるものである。別の言い 方をすれば,自・他の融合感を表わす「大海 感情」や,自己の全能感を維持している「恒 常的状態」は,それぞれの人がその来歴に拘 わらずナルシシズム的願望として抱くもので あろう。では,ナルシシズムが時間的・空間 的に制約された来歴に由来するとともに,生 涯に遍在し,生の極限的な高揚をもたらすと ともに,死への親しさを有しているのであれ ば,ナルシシズムはどのような時間性を有するのであろうか。 フロイトは,「〈無意識〉体系の事象には時 間がない。・・・経過する時間によって変更さ れないし,要するに時間との関係をもってい ない」(F3,145)と記した後で,「ナルシシズ ム的神経症が無意識の謎を解き明かす」(「無 意識」F3,149)と表わしている。だとすれば, ナルシシズムの無意識的な状態が《無時間性 (Zeitlosigkeit)》を帯びることは,確かである。 それにまた,生の意味内容が時間的かつ空間 的な性格をもたざるをえないのに対して,ナ ルシシズムの無意識的なあり方は無意味とい う徴しを帯びるであろう。すなわち,ナルシ シズム的願望の充足された「大海感情」や「恒 常的状態」というあり方は,無時間性と無意 味性とを帯びるであろう。それならば,ナル シシズムの無時間的なあり方は,生の生成発 展とか生成流転とかの彼岸であるのか。だと すれば,そのあり方は,人生の終わりの延長 から考えられているがゆえに,時間に関わっ てしまう。それとも,或る状態の永続である のか。だとすれば,永続は或る状態の恒久化 として無限に連続するものだとみなされるが ゆえに,やはり永続は一次元の直線を進行す る時間から考えられており,時間に関わって しまっている。とにかく,ナルシシズムの無 時間的なあり方は,流れ去り流れ来る生の儚 さに対比され,その対比において永遠または 不 壊 と称されよう。いまや,神プリアプスに 因んだファロスがナルシシズム的願望を充た した自己の全一感や,自・他の融合感を象徴 していたことからして,ナルシシズム的なあ り方の無時間性と無意味性が考えられよう。 かりに,ナルシシズムの自己の全一感や, 自・他の融合感が人間の生のなかに現にある と想定してみよう。その生のナルシシズム的 なあり方は,さながら神プリアプスのように, 「自分自身と自分以外の何ものでもない」という状態,「人はあたかも神のように,自ら 充足した状態になっている」はずである。し かもその状態は,至福に包まれ動きも滅びも ないがゆえに,「過去を呼び起こす必要もな く未来を思い煩う必要もない状態,時間が魂 にとってなんの意義ももたない状態」である はずである。そのような状態においては,た とえ過去があるとしても過去の精神的外傷は 全く拭い去られているはずであるし,たとえ 未来があるとしても未来に予期や希望を,ま してや懸念を抱く必要がないはずである。そ のような状態は,現在として「いつまでも続 く」(筆者強調。ルソー『孤独な散歩者の夢 想』,岩波文庫87-88頁)かどうかは別として, J・J・ルソー(Rousseau 1772-1778)が孤独 な散歩の道すがら夢想した永遠の現在,すな わち過去も将来もなく至福に充ちた永遠の現 在である11)。このようにナルシシズム的願望 を充たしている永遠の現在は,生活の喧しい 彩りを拒絶した「大海感情」に浸って至福の 情態にあるがゆえに,コフートが言うように, 生に対する「静謐なる矜持」(ZP,161-162)を, おそらくは生に対する最高の態度として保持 することができる。だが,そのような態度は, 有限的時間のなかで,それに囚われて生きて いる人間にとって,言葉とその意味を絶した ナルシシズム的願望の充たされた永遠の現在 においてしかないと言えよう。だからこそ, 永遠の現在は人間を魅了して余りあるものな のである。しかしながら,ナルシシズムがそ れ自体としては現前しえず,その代理つまり 《ファロス=ペニス》を必要とせざるをえな いように,永遠の現在はそれ自体としては現 前しえない。かりに永遠の現在が,人間の言 語的な意味経験になりうると想定してみれば, 永遠の現在は他者との葛藤が織りなす過去の 想起と未来の予期とを構成契機として含んで いなければならない。ということは,永遠の現在を夢想することそのものが,そもそも逆 説を孕んでいるということである。永遠の現 在は,ナルシス神話が性愛の物語であるよう に,生の《欲動》に惹き起こされて,エロス のもつ生の極限的な高揚がタナトスつまり死 を招来するという,エロスとタナトスとの両 面性から考えられるべきではないだろうか。 ナルシシズム的願望を充たしている永遠の 現在は,日常生活の労苦にみちた時間とは異 なるがゆえに,たしかに祝祭の時に似ている。 というのは,自己の全一感や,自・他の融合 感は,木村敏の言葉でいえば,「いつでも祭 りのさなか」12)にあらねばならないからであ る。自己が祭りのさなかに浸っている全一感 や,自・他の融合感は,たしかに男女の愛の 法悦や自然との合体という情態のうちにあっ てはあり得るかもしれないし,G・バタイユ (Bataille 1897-1962)がいうように,愛の法 悦においては聖なる刻印を帯びるかもしれな い。聖性の刻印を帯びれば帯びるほど,人間 の有限的生から飛翔して,神の高処に近づく であろう。がしかし,それは死の翳をひきずっ ているのである。まさにそれ,すなわち飛翔 と死の親しさがナルシシズムの両面性に他な らない。かくて永遠の現在は,木村敏の言葉 でいえば,「祭りのさなかの輝かしい面」と 「死の冷え冷えした面」とを併せ持っている のである。 ナルシスズム的願望がたとえ不壊の願望で あろうとも,その願望を充たしているはずの 永遠の現在は,人間の有限的な生のなかで壊 れるべくして壊れる夢想以外の何ものでもな い。そしてまた,永遠の現在がたとえ祝祭の 時に似ているにしても,それは祝祭の擬いも のでしかない。例えば,キリスト教のキリス トの降誕や復活といった祝祭を見聞してみれ ばよい。たとえその祝祭が世俗化した時世に おいては,人びとの感興を喚起しえなくなるにしても,その祝祭は,至高者から賜る聖な る贈与,人びとが共にその贈与に授かるとい う共通感覚,そして他者との共存在という, 祝祭たる特質を具えているのに対して,夢想 されるだけの永遠の現在はそれを欠いてい る。それゆえ,永遠の現在は自己の確かな存 在を贈与しないという逆説を孕まざるをえな い。愛の法悦も,同じ逆説を帯びる。愛が他 者との共存在において成立するものである以 上,哲学者の J・ヴァール(Wahl 1888-1974) がバタイユに対して指摘したように,個我に おける愛の法悦の意識と他者との共存在とは 連続しがたいのである13)。ナルシシズムの本 質は,神の御座なる永遠の現在にあるのでは なく,神の御座に就こうとして就きえざると ころにある。なぜなら,伝説上のナルシスは 自己に恋いこがれたにもかかわらず,自己と 「自我理想」を所有することができなかった がゆえに,神の御座に就こうとするナルシス の《傲岸(Hybris)》が生じてくるからである。 こうしたナルシスの傲岸が他者への関わりを 超絶した無関心さと表裏一体をなしているこ とは,繰り返すまでもない。その傲岸のゆえ に,力動性と静態性というナルシシズムの相 反する両面性が産みだされるとも言えよう。 つまりナルシシズムは,天へと飛翔する力動 性を帯びもするし,逆に胎児の「恒常的状態」 へと退行して,その「恒常的状態」のうちに 留まらせる静態性を帯びもするのである。精 神病理学者W・ブランケンブルク(Blankenburg 1928-2002)によれば,ナルシシズムの力動 性は「ナルシシズム的・自閉的な〈自分自身 への固執〉」から生じるし,分裂病性のナル シシズムの静態性は「生活史の停止という意 味での佇立」に因るのである14)。ナルシシズ ムは自己および世界――他者や他なるものの 総体――との関係の裏返しとして,「まさに ナルシシズム的・自閉的に自己自身に固執し」,自我の幻想を激しく追い求めたり,そ の幻想に浸ったりする。しかし,ナルシシズ ムが力動的にも静態的にもなりうる両面性の 原因がナルシスの《傲岸)》であるとみなす のは,表面的な捉え方である。実は,彼の《傲 岸)》に起因するどころではない。神プリア プスに因んだファロス――純身体的器官で もってしか現前しえないがゆえに,それ自体 としては現前しえない無時間的かつ無意味な ファロス,つまり無――に突き動かされ,逆 に神プリアポスの無なる御座に就こうとして 就きえざるところに,ナルシシズムの力動性 と静態性が起因するのである。だとすれば, ナルシシズムの精神病理とは,(α)有限的 な生の彼岸に価値を措いて,その御座に就こ うとしたが,(β)神聖なるその御座に就こ うとする病に罹ってしまったために,(γ) その裏返しとして,他者と共にあるという儚 い共生の時間性のうちに己れの家郷と意味を 見出しえないことだと言ってよかろう。次章 において,その精神病理の更なる展開が見ら れるはずである。
第二章 グノーシズムにおけるナルシシズム 論
ヨナスは, グノーシズムの一つ,マンダ 教の教典『ギンザー(財宝Ginza)』に記され た神話を,「ナルシス -モティーフ(Narziss-Motiv)」(GS277)を有するものとみなして いる。その神話は,下記の通り。 「命,すなわち私の父がそう[アバトゥ ルが水に映る鏡像を息子とする,と]語っ たとき,アバトゥルは立ち上がり,門を 開け,黒い水の中を見つめた。すると同 時に,彼の像が水の中に造り出された。 ブタヒルが造り出されて,上なる世界と の境目まで昇って行った。アバトゥルはブタヒルを探るような目で見つめてから こう言った。〈来るがよい,来るがよい, ブタヒルよ! お前は私が黒い水の中に 見つめた者だ〉」([]内筆者挿入GS277-278また346)15)。
見られたように『ギンザー』の表わす神話 は,その「ナルシス・モティーフ」のゆえに, 外形的には,つまり泉に映る鏡像という筋立 てを,ギリシア出自のナルシス神話と同じく する。しかしながら前者の神話は,内容的に は,このナルシス神話と全く異なるものであ る。それゆえ,ギリシア出自の神話の筋立て を借りて,中身をマンダ教の『ギンザー』の ものに,いわば換骨奪胎したとも言える。こ のような場合,ヨナスによれば,ギリシアの ナルシス神話はグノーシズムの『ギンザー』 の神話の「仮晶(Pseudomorphe)」であると 解される。 上記の『ギンザー』の表わす神話は,宇宙 創成以前における神々の系譜を示すマンダ教 のいわば神統記である。上記の引用文に記さ れている「命,すなわち私の父」は,「アバトゥ ル」の父であるヨーシャミーンと称せられる 第二の命である。『ギンザー』によれば,「第 一の命」または「大いなる命」は至高神,し かも世界を超絶し,世界製作に関わらない, いわば宇宙創成より以前の至高神であり,こ の神がヨーシャミーンを産み,それに続いて, この第二の命が「アバトゥル」と称せられる 第三の命を産む。そしてアバトゥルが,黒い 水に映る自分の像を「ブタヒル」と称せられ る息子,つまり第四の命を造る。それゆえブ タヒルも,神々つまりウトラたちの一人で あって,世界を創設する――プラトンの 『ティマイオス』における宇宙製作者デーミ ウールゴスに相当する――者である16)。彼の 造る万物がどのようなものかは,そもそもブタヒルのうまれた「黒い水」が暗示している。 このように『ギンザー』の神話では,マン ダ教のいわば宇宙論的な神統記は,神々の系 譜が「第一の命」つまり至高神からブタヒル へと一元論的に(流出(emanatio))として 記されている。その一方で,同じ『ギンザー』 のなかで,「黒い水」に映る影像のごとく闇 の世界が光の国に対立するという,二元論的 な〈世界像(Weltbild)〉が現前していること も,否定しえない事実である。だとすると, 光と闇(=善と悪)との二元論的な対峙から して,「ナルシス -モティーフ」を有する『ギ ンザー』の神話は,やはり人間を翻弄し,悪 行を惹き起こす「欲動」,すなわちアウグス ティヌスやパスカルのいう「邪欲(Begierde, concupiscentia)」(GS118,334)を物語ってい ることになるのであろうか。
【α】 古代末ヘレニズム期のグノーシズム, マンダ教
古代末のヘレニズム期は,紀元一世紀から 三世紀末までの,ほぼ二百年余の古代ローマ 帝国――北アフリカ沿岸やオリエントまで版 図としたローマ――の支配した時代である。 ローマの政治的支配下にありながらも,古代 ギリシア文化がなおもその影響を保持してい たがゆえに,現に古代ギリシアの詩文や文型 が,その当時の教養層が範例とした時代で あった。それゆえに古代末の時代もまた,ヘ レニズム期に組み入れられる。しかしながら, 時代は古代文化の隆盛どころか,すでにその 衰退を表わしており,「ペシミズム」(GS35) の症状を兆していた。文化が人間の共同生活 を精神的かつ物質的に秩序づけるものである とすれば,ローマ帝国が版図を広げた,いわ ばコスモポリタンの時代は,古代ギリシアの それぞれの都市国家,ポリスが住民の共同生 活を具体的かつ実際的に制約する時代ではなくなっている。そればかりか,その版図に生 きる,多様な諸民族の人びとが,自らの生活 規範を一様に,つまり統一的にギリシア文化 から習得できるわけがない。要するに,古代 末期のヘレニズム文化は,歴史的・社会的に, 諸民族の生活を精神生活と物資生活の両面に おいて実質的に規定する,いわゆる具体的普 遍性を堅持しえなくなっていた,時代の「ペ シミズム」の病因がこれである。 こうした古代末ヘレニズム期の紀元一世紀 頃に,東方から発生し,三,四世紀に隆盛し た宗教運動が,一般的にグノーシズムと呼ば れている。グノーシズムも,その時代精神と 向きあわざるをえない。すなわち,古代末ヘ レニズム期が文化的衰退を兆している以上, グノーシズムはその時代精神を背負い込んだ 「絶対的な,なんの慰めもないペシミズム」 (GS35)を,いわば推進力とした宗教運動で あらざるをえない。一方で,古代ギリシアの 詩文や文型が当時の宗教信条を表現する範例 である以上,例えばパレスチナ出自のキリス ト教の正典『新約聖書』がギリシア語で記さ れたように,東方出自のグノーシズムはギリ シアを範として,それを装うことを諒とした。 他方で,グノーシズムは,東方の宗教信条を 内実としている以上,まさに自らの独自性を 堅持する。否それのみか,堅持しなければな らない。なぜなら宗教が人間の存在理由を証 しする以上,グノーシズムは,ギリシア古来 の枠組みを突き破って,「自己(Selbst)を革 命的に発見せん」(GS239)としたからであ る。それゆえヨナスによれば,グノーシズム は,外面的にはギリシアの装いをして,内面 的には「自己」の探求を旨とした宗教運動で あり,東西混淆の「シンクレティズム (Synkretismus)」である。ヨナスは,こうし た類いの「シンクレティズム」を,O・シュ ペングラー(Spengler 1880-1936)がその著書『西洋の没落』において用いた「仮晶」 (GS73ff)の概念でもって特徴づけたのであ る17)。 旧来の枠組みを突破するとは,旧来の世界 像を超克することである。それゆえグノーシ ズムは,宇宙(cosmos)すなわち神とみなす ギリシア的な自然神学に反旗を翻すし,まさ に宇宙のなかに生まれる肉体ばかりか,肉体 に制約されざるをえない心(psyche)をも嫌 悪の対象とする。それどころではない。こう した万物を創造した神,つまりユダヤ教の創 造神をも否認せざるをえないがゆえに,ユダ ヤ的な創造神学を拒絶する。このようにグ ノーシズムは,既存の自然神学と創造神学を 容認しえないがゆえに,宇宙ないし世界はた だ機械的に運行するだけで,人びとになんの 慰めももたらさないで,そのなかに生まれ, そのなかで痛苦にみちた生を送らざるをえな い桎梏であると解する。要するにこの世界と, そこにある生は,人間にとっては「異邦(das Fremde)」であって,それゆえ自分はこの世 の「余所者(Fremdling)」(GS96)だという 根本経験が,グノーシズムの源にあるわけで ある。その源から,グノーシズムの神・世界・ 自己の体系構想が生まれ出る。 この世の「余所者」という根本経験は,「一 体,どこから生まれ,どこへ行くのか」とい う,自らの家郷の探求を惹き起こすし,ひい ては,何処とは定めがたい家郷への「郷愁 (Heimweh)」(GS96また109)を抱かざるを えなくする。その家郷とは,この世ならざる, この世から超絶した「彼岸(das Jenseits)」 (GS97)のこと,郷愁とは彼岸を欣求するこ と,それはグノーシズムにとって帰郷するこ とに外ならない。つまるところグノーシズム は,此岸と彼岸という二世界説に拠ってたつ 二元論の思想体系であらざるをえない。 ギリシア・ローマの西方に対して,グノーシズムは東方の生まれとはいえ,バビロニア の占星術的運命論を遵守するものではありえ ない。また,古代ギリシアの自然神学もユダ ヤ教の世界創造神話をも否認することを,自 らの思想の骨格とすることは,繰り返すまで もない。それゆえヨナスによれば,キリスト 教の否定神学の志向に酷似して,グノーシズ ムは,旧来の枠組みを脱して,全否定を志向 するがゆえに,その至高神は認識せられえな いばかりか,未だ名づけられたことがないと いう意味で「識られざる新しい神」であり, その神は,プロティノス(Plotinus 205?-270) の《一者(to ‘en)》を仮晶としている」(GS246, 251)と解せられる。それゆえ,グノーシズ ムの二世界説は,「識られざる新しい神」と いう観念の探求を惹起することになる。 グノーシズムの二世界説は,世界に囚われ た肉体と心魂に対して,超世界的な神を対置 するばかりか,「霊(Pneuma)」をも対置する。 というのも,そもそもグノーシズムにおいて は,「霊」は客体的に実在するものではない からである。それゆえヨナスは,「霊」を「非 世界的な自己(das unweltliche Selbst)」(GS249) と言い表わす。当然,「自己」とは何なのか, どのような方途で知られるのか,が問われる。 とすれば,神観念と同様,自己の観念もまた 探求されるべき案件であり,こうしてグノー シズムは「終末論」(ibid.)の色濃い宗教運 動だということになる。 グノーシズムにとって,秘教的な「至高神」 の探究は,家郷への不可避な途であるがゆえ に,とりもなおさず救済知の探求である。ギ リシア語の「グノーシス(gnosis)」が知る ことを意味するがゆえに,(α)神は世界に 対して否定的という意味で,「神は世界の無 である」と表わされる。(β)「グノーシスの 神秘的高揚の目標」とは,世界という否定的 なる虚なるものを否定すること,つまり「二重に否定する」ことであり,それが「神を知 る(gnosis theou)」こととなり,ひいては神 秘的高揚の極限において「自己」を発見する ことになる(GS151,249)。だが,その探求 は妥当な方途と論拠を有しているかどうか。 それが問題である。 繰り返すまでもなくグノーシズムは善悪二 元論の思想体系であるが,その二元論の成立 に関して,そもそも善と悪が対立しているの か,それとも全一なるものから善と悪の分裂 が生じたのか,という問いが生じる。それら の二つの理念型を造ってみて,それに照らし て,グノーシズムの諸形態を識別することが できる。ヨナスによれば,前者のグノーシズ ムはマンダ教ばかりか,ゾロアスター教やマ ニ教をも含めた「マンダ・イラン型」であり, 後者のそれはエジプト,シリアで隆盛を誇っ たバシリデースやヴァレンティノス派などの 「シリア・エジプト型」である(GS256)。と ころが,先に取り上げた『ギンザー』のナル シス神話が神々の系譜の一元論的な流出を も,また光と闇の二元論的な世界像をも示す ように,マンダ教の伝承された文献は,両方 の型を含んでいる(GS267)。それゆえヨナ スは,「現代まで[『グノーシスと古代末の精 神』を公刊した1934年の時点まで]保存され た形態からみて,グノーシズムの関係諸文献 のなかで包括的で内容豊富な収集はマンダ教 文献である」([]内筆者挿入GS95)と高く 評価する。なぜなら,その文献は,「マンダ 教の思索と神話的想像の所産であり,閉ざさ れた言語圏と生活圏の凝集したものであり, ヘレニズム的な教養意識を負荷していない」 (ibid.)と看做されるからである。ちなみに, マンダ教徒の小さな宗教共同体は,汚れた身 を日々繰り返し清める宗教儀礼としての洗礼 を重んじるがゆえに,「文化世界の片隅に生 活する洗礼教団」(ibid.,Anm.1)であった。
それゆえ,「古代末のヘレニズム期の「仮晶」 を最大限に取り除いたならば,グノーシズム の東方的な心的生活を直接的に表現したもの」 (GS95)として,マンダ教文書を理解しつつ 解釈できるというわけである。ヨナスが参照 する文献は,M・リツバルスキー(Lidzbarski 1868-1828)の独訳した『ギンザー』と,『マ ンダ教徒のヨハネ文書(Johannesbuch der Mandäer)』である(GS99)。いまや,『ギン ザー』に記されたナルシス神話を検討して, グノーシズムの救済知の妥当性を考察してみ なければならない。
【β】闇の世界,悪,欲動
「黒い水」の象徴する闇の世界,それに対立 する光の国 光の国は,混じりけのない全き光に満ちた, 静謐で平穏なる,それゆえに永遠の善の国で ある。それに対して闇の世界は,光の国から 全く隔絶している。『ギンザー』においては, 「黒い水から[ウルと称される]闇の王が, 自分自身の邪悪なる本性によって形造られ て,現れ出た」のであり,「闇が自分の邪悪 なる本性の中に存在し,唸り声を上げる闇, 荒涼たる暗黒,初めも終わりも知らない」(以 下,[]内筆者挿入GS268[223]),そういう 世界として描かれている。すなわち混乱と喧 騒にみち,陶酔状態にあって安らぎのない, いわば死の世界,まさに「邪悪」なる世界に 外ならない(GS103)。
神々の系譜,悪を惹き起こす「欲動」の物語
上述のように,『ギンザー』の記した神々 の系譜では,「至高神」の「第一の命」から, 「第二の命」のヨーシャミーンへ,さらにこ の神から「第三の命」のアバトゥルへ,そし て世界制作神のブタヒルへと連なってゆく。 ここでは,「第二の命」に注目しなければならない。 「第二の命」のヨーシャミーンは,彼の子 供であるウトラたちが自分のシュキーナー [住まい]を創りたいという願望を聞き入れ て,ウトラたちに自らの「光」を分かち与え た。するとウトラたちは,「闇の世界」へと 下り,シュキーナーを築いた。ブハク・ジー ヴァー[「第三の命」のアバトゥルの別名]は, 心の中で奢り,自分を強大な者と思い込み, 「自分こそウトラたちの父[至高神]だ」と 言い,終には「濁った水に思いを向け,〈一 つの世界を作ろう〉」とまで言う始末である ([]内筆者挿入GS264-265[226-228])。と すれば,ヨーシャミーンが承諾したアバトゥ ルの宇宙創設の願望は,「大いなる命」つま り至高神から命を賜ったにもかかわらず,至 高神そのものに自らが成ろうとする奢りや不 遜,さらには,神に対する嫉みを惹き起こす 「欲動」を曝け出したのである。それゆえヨ ナスは,『ギンザー』の記す神統記が「罪責 神話(Schuldmythos)」(GS283)だと解する。 ところが,やはりブタヒル・ウトラが宇宙 創設の主役であり,造物主(デーミウルゴー ス)である。ブタヒルはその父のアバトゥル に呼び出され,「自分に一つの世界を造り出 せ,お前が見た救いの子らと同じように。一 つの世界を創造し,整えよ,自分に世界を創 造し,その中にウトラたちを形造れ」と命じ られる。そこでブタヒルは,「光の国」から 下って,その国の存在しない場所に出た,つ まり「[闇に]足を踏み入れた。汚物まみれ の泥の中,濁った水の中へ。彼が語り始める と,彼の活ける火が変化した・・・なぜ私の活 ける火は変わってしまったのか」(筆者中略 GS271-272[228-230])と自問する。ブタヒ ルは,そもそも光の国の一員であるが,その 家郷を出て,「闇」へと下るにつれて,「闇」 の力である「混濁した泥」に自ら塗れてゆく。
注意すべきことに,ブタヒルは悪逆非道に徹 しきれない存在だとも言えよう(GS272)。 ところが,『ギンザー』が物語る女性のルー ハーは,闇の世界において至高神に敵対する 「悪霊(Geist)」であるだけに,ブタヒルよ りも悪逆非道をおこなう。上述のようにブタ ヒルが自問したときに,彼の輝きに欠乏と過 失が生じてきたことに,ルーハーは力を得て, 奢り高ぶってしまう。彼女自身が力を振るう 機会を得たというわけである。こうして傲慢 と化した彼女は,「悪しき者」と同衾し,七 つの惑星を産み,さらに「自分の兄弟」と同 衾し,黄道十二宮を産み,続いて「自分の父 親」と同衾して,太陽と月を除く惑星を産み 落とす(GS272[230-233])。このように『ギ ンザー』の宇宙創成物語では,ブタヒルが独 りで世界を創設するという物語と,ルーハー が肉欲にまみれた「同衾」から惑星界を産み 落とすという物語とが混在している。留意さ れるべきことに,彼女のこうした悪辣な性状 がアダムとハヴァー[『旧約聖書』のエバに 相当する者]の創造においても,同様に展開 されるのである。 ブタヒルがアダムの身体を作ったが,それ に「魂」を入れられなくて,アバトゥルに相 談すると,マンダ・ダイエー[命の認識,「大 いなる命」が下界に送る使者]が,「悪しき 者たちが魂について何も知ることのない」よ うにブタヒルの気づかない密かなやり方で, アダムに「命の香り」を嗅がせて初めて,ア ダムが創造され,続いてハヴァーが創造され る。ここまでが,ブタヒルによる人間創造の 物語である。ルーハーはアダムに対して,そ れ以上の策略をめぐらす。すなわち,ルーハー と惑星たちは,アダムを自分たちの支配下に 置いておきたいために,彼をハヴァーとの情 欲行為に耽らせて,陶酔と喧騒に沈淪させて, アダムとハヴァーに連なる全種族,つまり人類を,動植物などのあらゆる存在者とともに 「闇の世界」に留まらせておこうとする。「闇 の世界」とは,自然的な必然的法則が支配し ており,「光の国」のような平安と自由のな い,この地上である(GS117,275)。 見られたように,ブタヒルの世界創造ばか りか,ルーハーの策略が加わって,人間は防 ぎようもなく,欲しもしない「闇の世界」に 送りこまれ,そこに沈淪している,このよう な意味で,世界のなかに「被投されている (Geworfensein)」(GS106)ことが人間の定め に外ならない。その定めとは,プロティノス のいう「魂が盲者となって冥府に住みつき, そこで今までと同じように影と交わりながら 暮らすこと」,端的にいって「魂にとっての 死」のことなのである18)。それをもたらした 端緒を想起してみよう。そもそも『ギンザー』 の記すナルシス神話が,「黒い水に浮かぶ影 像」という隠喩的表現でもって,ブタヒルな る宇宙製作者の誕生を記し,そして彼の製作 する世界が,人間を酩酊させ,情欲に陶酔さ せもする「欲動」,すなわち「邪欲(Begierde)」 (GS118)のうごめく世界であることを記し ていたのである。 ヨナスが『ギンザー』の記す神々の系譜を「罪責神話」(GS283)として解したことは繰 り返すまでもない。ただし,それに一言付け 加えなければならない。すなわち,( á)人 間の「罪責」はその実存の否定しえない事実 であるし,( â)人間の「罪責」をもたらす「邪 欲」の源そのものはまさに体験しえない闇で あるということである。なぜなら,至高神は 「知られざる新しい神」でありつづける以上, そもそも人間が神々の系譜を辿りうるもので はないからである。
【γ】覚醒すなわち救い
マンダ・ダイエー[生の認識]は,「大いなる命」の遣わした使者として,人間に呼び かける。すなわち,「どうしてお前は不安に 慄くのか。私はお前の蒙を開くために来たの だ,この世の悪に怖じけてはならぬ」 (GS110),と。この言葉は,人間が「闇の世界」 に沈淪して,不安に苛まれてさえいる実存の 頽落から目覚よ,と呼びかける声であること は,説明するまでもない。むしろ,人間が,「闇 の世界」に好んで浸っているがゆえに,いか にして目覚めるかが重大な案件である。それ ゆえヨナスによれば,福音書に「聞く耳のあ る者は聞きなさい」(「マルコ伝」4-9)と記 されているように,「大いなる命」の使者, マンダ・ダイエーの呼びかけが「大いなる 命」の福音である以上,人間がそれを聞くこ とはその福音を信じることと一つである,端 的にいって,聴き従うことは信ずることであ り,自覚的で主体的な行為なのである (GS121)。留意すべきことに,こうした聴従 においては,使者のマンダ・ダイエーは呼び かける者として人間の許に来るけれども,し かし,その者と呼び声の内容とが区別される わけではない。というのは,その呼び声その ものが「大いなる命」そのものの啓示である からである。 だとすれば,マンダ・ダイエーは,目覚め よ,と呼びかけるがゆえに,人間に覚醒をも たらすことになる。その覚醒が二重性を帯び ることは,理解に難くはない。なぜなら,人 間はそもそも「闇の世界」の住人であらざる をえないけれども,しかしその世界の「余所 者」であることを自覚するとともに,その世 界の彼岸から到来した,まさに異郷からの呼 び声を「生」からの福音として理解するから である。『ギンザー』が「私は生を観たし, 生は私を観たのだ」と記した事柄は,端的に いって,生と知のいわば合致を意味する (GS125)。この合致が,グノーシズムが宗教として目指す救済知,すなわち「神を知る (gnosis theou)」(GS151,249)ことに外なら ない。グノーシズムにおいては,こうした覚 醒がすなわち救済であるわけである。 合致はいかにして可能か,それが問題であ る。その可能性は,人間の本質である「自己 (Selbst)が世界よりも高い神性の出自であり, それを家郷とする」(GS145)ことに基づく。 人間は,たとえこの世界の内に沈淪していて も,しかしその実存の惨めな事態を耐忍する ことも,超克することもできる。その自覚は 否定しがたい。その自覚を実体化したのが 「霊(pneuma)」であるが,「霊的な自己」は, 「余所者」として暴圧を被っている受動的な 事態に潜んでいながら,活性的に作動してい る事態だとも言えよう。こうした意味で,「神 を知る」ことに賭けるグノーシズムは,大貫 隆によれば「人間即神也」19)という定式で表 明される。ただし,「人間即神也」が現に成 就するのは,死後の生を待ち望む「終末論的 意識」(GS202)という場面でしかないので ある。実際,洗礼教団のマンダ教徒は,こう した終末論的意識をたえず堅持し,洗礼と祈 祷を日々勤めなければならない。その勤めは, 極度の危機意識の下での,死(タナトス)の 訓練――生の極限的な高揚を伴った――訓練 である。そうした禁欲を持しておれば,マン ダ教徒は救いに預かれるであろう。だが,マ ンダ教は「人間即神也」という定式で二世界 説を克服しているようにみえるけれども,し かしながら自・他の分裂,ひいては存在者一 般の分裂を惹き起こす「罪責」の発生に対し て,決して無傷ではありえない。端的にいえ ば,マンダ教のユダヤ教に対する「怨恨 (Ressentiment)」(GS228)のゆえに,旧約の 神が創ったこの世界は,ましてや被造物―― そもそも「欲動」に苦しむ存在者――は救い に預かれはしない。マンダ教は,否そもそもグノーシズムは,神が人間に「育て,守れ」 (『創世記』2-15)と託した被造物の世界を顧 みることはないし,またパウロが記した「被 造物のすべてのうめき,産みの苦しみ」 (『ローマ書簡』8.19-22)に対して共感を抱 くこともない。それどころか,善悪二元論的 な世界像を容認する結果を招いて,被造物の 世界すなわち悪に満ちた世界に対して,正義 の御旗を掲げて,聖戦を起こしかねないので ある。
結論
ナルシシズムの精神病理は,ギリシアのも のであれ,グノーシズムのものであれ,エロ スとタナトスの極限的な合致を求めるあまり に,自・他の関係性を超越した「或る一なる もの」という幻想を抱いて,それに固執しか ねない。ひいては,「一者」から「多」への 下降ばかりか,「多」から「一者」へのあり うべき上昇をも示唆するのがプラトニズムで あるが,善と悪との両世界の断絶という悪し き意味でのプラトニズムの温床となりかねな い。
註 本文での引用記号は,以下の書物を指示し ている。引用のさい,本文において引用記号 の後に頁数を記した。 F S.Freud, Studienausgabe, Fischer-Verlag,
1975. ND L . A . S a l o m é , N a r z i s s m u s a l s
Doppelrichtung, in: Imago, 1921. E L . A . S a l o m é , D i e E r o t i k , N e u
heraussgegeben von E. Pfeiffer, München 1979.
IEP H.Kohut, Introspektion, Empathie und Psychoanakyse, Frankfurt 1977, S.42-8.
ZP H.Kohut, Die Zukunft der Psychoanakyse,
2.Aufl., Frankfurt 1985. N Bėla Grundberger, Le narcissisme, Paris
1971. GS H.Jonas, Gnosis und spätantiker Geist,
Göttingen, 1934. 1 )パスカルは,新約聖書の「ヨハネ第一の手紙」 (第 2章16節)やアウグスティヌスの『告白』 第10巻第30章に依拠して,ラテン語(libido)を 用いて,生の欲動として,「肉欲(concupiscence de la chair),眼欲(concupiscence des yeux),所 有の驕り(orgueil de la vie),すなわち感じよう とする欲動(libido sentiendi),知ろうとする欲 動(libido sciendi),支配しようとする欲動(libido dominicandi)」を挙げている(Pascal, Pensée, Brunschvicg n.458)。「肉欲」は,性欲ばかりか 身体諸器官に依る欲動であり,「眼欲」は,例 えば禍々しい出来事をも見てみたいといった好 奇心のような精神的な欲動であり,「所有の驕 り」は,支配欲や権力欲や,それを誇示したい といった欲動である。「欲動」は「邪欲」とも 称せられる。 2)サロメは,リルケの詩「ナルシス(Narziss)」 (Rilke,G. W. 2 , Insel-Verlag 1957, S.56)を彼女 のナルシシズム論の下敷きにしている。その詩 (塚越敏訳)は,こう詠われている(塚越 敏,『リ ルケの文学世界』,理想社 1969年刊,434頁参照)。 「ナルシスは逝った。彼の美しさからは
とめどなく ⁄ 彼の本質にちかいものが立ち のぼっていた ⁄ ヘリオトロープの香のよう に 濃密に。だが ⁄ 彼 ⁄には 自分をみるよ うにと定め定められていた。
彼は愛した,自分からでていって また入 りこんできたものを,⁄ そしてもう 彼は 開かれた風のなかにはふくまれていなかっ た。⁄ うっとりと さまざまな形姿の円周 をとじて ⁄ 自分を放棄した彼は もはや存 在することができなかった」(斜線 は筆者 による改行を意味する)
なお,サロメのナルシシズム論を自らの理論 展開の基礎に据えているのは,B・グランベル ジェ(N 40)。ナルシシズムの病理学説の包括 的研究は,アメリカの精神分析学者,C.F.Alford, Narcissism, Vale Univ. Press 1988, p.21-71参照。 3)サロメやグランベルジェのいう「自体愛」の
ナルシシズムは,《対象関係がまず在って,そ の対象関係からの退行がナルシシズムの精神病 理だ》という,ウィーン出身の英国の精神分析 家M・クライン(Klein 1882-1960)以後の対象 関係理論に抵触するとみなされている。またス イスの精神科医M・ボス(Boss 1903-1990)は, フロイトが乳児の「自体愛」のような一次的ナ ルシシズムの仮説の誤りを洩らしていたと記し ている(『精神分析と現存在分析論』,みすず書 房 1962年刊,30頁参照)。しかしながら「自体愛」 は,誕生直後の乳児が母親への依存において初 めて全一感情に浸れるのであるから,没・対象 関係では決してない。 4)C.F. Alford, a.a.O., p.2参照。 5)『白い人』で描かれた,斜視で貧相なリヨン 大学学生は,少年時代から「自分の 加虐本能」 を感じており,アラビアのアデンに旅行した時 に,野性的なアラビア少年を犯して加虐の愉悦 を味わったし,少年の方は「被虐の悦び」に浸っ ていた(『遠藤周作文学全集 6 』,新潮社 1999 年刊,42-43頁参照[新潮文庫『白い人・黄色い 人』,18-20頁])。 6)M・ボス,『性的倒錯』,みすず書房 1957年刊, 165頁以下参照。 7)存在と所有の関係について示唆を受けたのは, 木村敏,『自己・間・時間』,弘文堂 1971年刊, 132頁以下参照。 8)フロイトのこうした「代理」作用については,
P・リクール,『フロイトを読む』,新曜社, 1982年刊,145頁参照。 9)ヴァレリー,『カイエ』第 6巻,428頁,筑摩 書房刊。興味深いことに,ニーチェが,生殖と 豊穣の神々を祭るギリシアの自然宗教と,多神 教の偶像崇拝を戒める一神教的・道徳的なキリ スト教との対比という枠組みで,「プリアプス (Priap))」を論じている。Nietzsche, Kritische Studienausgabe 11, S.100参照。プリアプスの両性 具有説については,K・ケレーニー,『ギリシア の神話――神々の時代』,中公文庫,217頁以下 参照。 10)ファロスと生活史の関係は,木村敏,「精神 医学における現象学の意味」,『現象学年報』 2, 北斗出版,1987年刊,21頁参照。ファロスに象 徴される「自我理想」の不在による生活史的な 存在体制の形成については,L・ビンスワンガー,『現象学的人間学』,みすず書房,1967年刊, 88頁参照。 11)J・J・ルソーの語るナルシシズム的なあり方 としての永遠の現在については,木村敏,『時 間と自己』,中公新書,165-166頁参照。M・ハ イデガーは,「現在の恒常状態(nunc stans)と いう意味での伝統的な永遠概念」について言及 し て い る(M. Heidegger, Sein und Zeit, S.427, Anm.1)。J・スタロバンスキー(Starobinski 1920-2019)は,ルソーが迫害妄想のパラノイア を患っていたがゆえに,迫害から逃れる願望を 抱いていたし,理論的な思考の主題と観念が迫 害妄想の観念的な相関物となづけられるような ものとして展開していると指摘している。J・ス タロバンスキー,『ルソー 透明と障害』,みすず 書房 1973年刊,324頁 -330頁参照。興味深いこ とに,ルソーは,1752年12月18日にコメディ・ フランセーズで上演された『喜劇 ナルシス, またの名,おのれに恋する男』(佐々木康之訳, 白水社刊,『ルソー全集』第11巻所収)という 作品を創作しているが,それはルソーの自己戯 画化であったか? 12)木村によれば,「祭りのさなか」は,「後の祭り」 と「先走り」の間にある。鬱病に特有の罪責, 心気,貧困妄想等にみられる「取り返しがつか ない」事態は「後の 祭り」であり,分裂病者 の妄想は,つねに予感に満ちた不安の情態性に あって,不確かな未来に向かっているので「先 走り」である。木村敏,『時間と自己』,中公新書, 161頁。 13)G.Bataille, L’ ėrotisme, paris 1957, p.304.だがバ タイユは,ヴァールの指摘する連続の不可能を 認めたうえで,瞬時の可能性に賭ける。 14) ブランケンブルク,『自明性の喪失』,みすず 書房,1978年刊,172頁と205頁。
15)講談社学術文庫,大貫隆訳・著『グノーシス の神話』所収の訳文参照,215頁。以下,本文 において,ヨナスの著書の頁数の後に,大貫の 訳文頁数を[]に挿入。 16)岩波書店刊『プラトン全集』第12巻,『ティ マイオス』(種山恭子訳),28A,29B。 17)シュペングラーは,文明史上の形態学的推移 を示すために「仮晶」の概念を用いた。『西洋 の没落』第 2巻,2001年,五月書房刊,155頁 参照。 18)中央公論社刊,田中美知太郎監修『プロティ ノス全集』(水地宗明,田之頭安彦訳),第 1巻 8[同書295頁]および13[同書240頁]を参照。 プロティノスはその論述にあたって,「たしか に或る物語に謎めいた言葉で述べられていたと 思うが」というふうに,オウィディウスの「ナ ルシス神話」に示唆している(強調筆者,同書 295頁参照)。 なお,魂が下降し冥府に住みついた事態は死 んだも同然なのに対し,魂の上昇の可能性につ いても,新プラトン主義者のプロティノスは述 べている。「いわば肉眼を閉じて,そのかわりに, 万人がもちながらわずかな人しか用いない別の 眼(つまり心眼)をめざめさせるべきである」 (同書296頁参照)。 19)大貫隆,上掲書,311頁参照。また,大貫隆,『グ ノーシス「妬み」の政治学』,2008年 岩波書店刊, 27および33頁参照。
本稿の第一章は,拙著「ナルシシズム―― その隠喩性と時間性」(新田義弘編『他者の 現象学 Ⅱ』,1992年 北斗出版刊,所収)を加 筆修正したもの,第二章は新たに書下ろした もの。
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ナルシシズムとは何ですか?
ナルシシズムは、自己への愛着や関心を指す言葉ですが、本稿では、単なる自己愛とは異なる、より複雑な概念として議論されています。ナルシス神話に由来し、泉に映る自分の姿に恋焦がれて死んでしまったナルシスの物語を通して、自己の鏡像への執着と、本来の自己(Selbst)を見出せない苦悩が示されます。ナルシシズムは、自己の確たる所有感の欠如、言い換えれば生命感情の乏しさに根源があり、自己解体へと向かう可能性を孕んでいます。精神分析学においては、乳幼児期の自・他融合状態と関連付けられ、成長の過程で失われる全能感や一体感を再獲得しようとする欲動として捉えられます。
精神分析学におけるナルシシズム論の主要な論者は誰ですか?彼らはナルシシズムをどのように捉えていますか?
精神分析学におけるナルシシズム論の主要な論者として、ルー・アンドレアス・サロメ、ジークムント・フロイト、ベラ・グランベルジェ、ハインツ・コフートらが挙げられます。
- サロメは、ナルシシズムを自己陶酔と自己抑鬱の間を揺れ動く「ナルシシズムの両面性」として捉え、乳児の母親との一体感である「始原的な融合状態」をナルシシズムの根源と考えました。フロイトの定義する自我形成後の「自己愛」とは異なり、より根源的な状態を重視しました。
- フロイトは、ナルシシズムを性的欲動(リビドー)が他者ではなく自己に向かう状態と定義し、自我が発達した後に生じると考えました。乳児期の自・他の区別がない自己充足である「自体愛(アウトリビドー)」とは必ずしも同義ではないとしました。しかし、喪失された一次的ナルシシズムを「自我理想」として再獲得しようとする努力も指摘しました。
- グランベルジェは、サロメの考えを受け継ぎ、胎児や乳児のナルシシズム的なあり方を母親との一体感を表す「大海感情」という隠喩で表現しました。また、「自我理想」を喪失されたナルシシズムの投影であるとし、子供が自分を測る目安となる「真のオイディプス」と名付けました。
- コフートは、幼児の対人関係における他者(自己対象)が、幼児自身の鏡像としての役割を果たすと考えました。歪みのない鏡像は自己信頼を生み出すとし、「自我理想」を両親のイメージの中に幼児自身の像を造り出す鏡像という意味で「自己対象」と名付けました。
「自我理想」とは何ですか?それはナルシシズムとどのように関連していますか?
「自我理想」とは、喪失されたナルシシズム的状態の投影であり、ナルシシズムを損なう精神的外傷に対する防御メカニズムとして機能すると考えられます。フロイトによれば、幼児期の自己の理想であったナルシシズムが失われた後、それを再獲得しようとする激しい努力が生じ、「自我理想」はその代理として眼前に投影されます。グランベルジェは、「自我理想」を子供が自分を測る目安となる存在、追求してやまない存在であるとし「真のオイディプス」と名付けました。コフートは、「自我理想」を自己を映し出す他者(自己対象)の中に形成される自己の理想像として捉え、喪失されたナルシシズムの投影や転移であるとしました。いずれにせよ、「自我理想」は、失われた全能感や自・他融合感を部分的に補償し、自己の安定性を保つために重要な役割を果たします。
ナルシシズムは常に病的なものですか?病的なナルシシズムはどのような特徴を持ちますか?
ナルシシズムは必ずしも病的なものではありません。胎児や乳児期の自・他融合状態は正常な発達段階であり、成長と共に喪失されます。しかし、喪われるべきナルシシズムの「代理」(自我理想)を見つけることに失敗した場合、ナルシシズムは病的な「人格障害」となる可能性があります。病的なナルシシズムの特徴として、対象への関心が乏しく、他者を自己の尊大さを映す鏡としてしか見なせない精神現象が挙げられます。他者との関係が貧弱なため、客観的な自己評価を下すことができず、自己誇大妄想や自己卑下、性的倒錯などの症状を呈することもあります。
ファロスはナルシシズムにおいてどのような意味を持ちますか?
ファロスは、ナルシシズム的願望の充足を象徴する身体的な隠喩として重要な意味を持ちます。第一に、性器であるペニスと同様に「性器的」体制を象徴しますが、より深くには「性器前的」な根源的ナルシシズムを代理的に表象する象徴と考えられます。性的な違いを超えて、ナルシシズム的な全一感や自・他融合感といった情態を指し示すのです。グランベルジェは、所有欲に基づいた病的なナルシシズムの象徴として「歪んだファロス」を、自己の全能感や自・他融合感を象徴する「完全なファロス」を区別しました。ファロスは、不在であるナルシシズムを代理的に現前化するものであり、それ自体としては無をその組成としています。
グノーシズムにおけるナルシシズム論は、ギリシア神話や精神分析学のそれとどのように異なりますか?
グノーシズムにおけるナルシシズム論は、ギリシア神話や精神分析学とは異なる独自の視点を持っています。ギリシア神話のナルシス物語は、自己愛の悲劇として描かれますが、グノーシズムでは、宇宙創成神ブタヒルの自己の鏡像への関わりが、悪の根源となる「欲動」と結びつけられます。神々の系譜の中で、自己の像に恋焦がれるモチーフは共通するものの、その内容は宇宙論的な意味合いを持ちます。精神分析学が個人の心理発達におけるナルシシズムを扱うのに対し、グノーシズムは、ナルシシズム的モチーフを宇宙の根源的な分裂や人間の置かれた苦境を説明する枠組みの中で捉えます。自己の像への執着は、光の世界からの堕落や、闇の世界への囚われと関連付けられ、救済は自己の本質(霊)を認識し、この世からの脱出を目指す知識(グノーシス)によって達成されると考えられます。
グノーシズムにおける「闇の世界」と「光の国」とは何を指しますか?人間の救済はどのように達成されると考えられていますか?
グノーシズムにおける「光の国」は、混じりけのない全き光に満ちた、静謐で永遠の善の国を指します。一方、「闇の世界」は、光の国から隔絶した、混乱と喧騒に満ちた、いわば死の世界であり、「邪悪」な世界とされます。「黒い水」の象徴するこの闇の世界に、人間は意図せず「投げ込まれた」存在として苦悩します。人間の救済は、この闇の世界からの覚醒、すなわち自己の本質である「霊」が世界よりも高い神性の出自であり、光の国を家郷とすることを認識する「グノーシス」(知識)によって達成されると考えられます。使者マンダ・ダイエーの呼びかけを聞き、それに聴き従うことが、この覚醒への道であり、救済へと繋がります。グノーシズムは、「人間即神也」という定式で示されるように、自己の神性を認識することを目指しますが、それは死後の生において成就される終末論的な意識においてのみ現実化するとされます。
ナルシシズム論は、現代社会においてどのような意義を持つと考えられますか?
ナルシシズム論は、現代社会における自己中心性、承認欲求、人間関係の希薄さ、情報過多による自己像の不安定さなど、様々な現象を理解する上で重要な視点を提供します。自己愛と他者への関心のバランスの重要性、健全な自己肯定感の育成、共感性の欠如がもたらす問題、SNSなどにおける自己表象のあり方など、現代社会が抱える課題とナルシシズムの概念を結びつけて考えることができます。また、文化や社会構造が個人のナルシシズム形成に与える影響を考察することで、より良い人間関係や社会のあり方を模索する手がかりとなるでしょう。グノーシズムにおけるナルシシズム論のように、自己と世界の根源的な関係性を問い直す視点は、現代人が抱える孤独や疎外感を理解する上でも示唆に富んでいます。