病的ナルシシズムの場合、支配と被支配の人間関係の中で生きることが多い。
部下と上司、先輩と後輩など、ナルシシストにはぴったりの状況である。
部下も後輩も、下っ端も、ナルシシストはうまくこなせる。
彼らは、「上司、先輩はこうしてほしいだろう」とよく分かるので、うまくやってかわいがられる。
そして自然にナルシシズムが育ってゆく。
この部分は、「共感がない」ことと共存しないように思われる。これは、支配・被支配の「種族」内では分かりあえるが、それ以外とは共感欠如する、ということだろう。
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支配と被支配の関係には容易に性的関係が入り込む。
性関係の一部は確かに支配と被支配の延長であって、愛情とは異なるものであるが、
当事者同士は愛だと錯覚している。
愛情によってよりも、支配・被支配の感情によって、性的快感がもたらされる場合があり、ある種の強い病的なきずなが生まれる。
性の感覚の一部は単なる物理的な作用によるものであるから、支配・被支配の欲求によってもたらされた物理的刺激であっても、
愛情だと思い込むには十分である。
ナルキッソスのオート・エロチシズムに半ば近い面もある。
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病的ナルシシズムが自己肯定感の低さと表裏一体であるとの観察は一見不思議でもある。
一つには、病的ナルシシズムが要求する賞賛(自己愛備給 ナルシシスティック・サプライ)は多大なものとなり、通常の賞賛では足りなくなる。現実に相当に有能でなければ、そのような程度の賞賛は与えられない。したがって、常に、自己肯定感は低いままとなる。要求が高すぎて、満たされない。自分で自分をほめて安心しているだけでは済まないのが病的自己愛である。
ギリシャ神話のナルキッソスは他人に称賛を要求しただろうか?
もっとほめてほしいのに、実際には褒めてもらえない程度に、自分は無価値なのだと落胆するとすれば、その部分を自己肯定感の低さと評してもよいだろう。
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たとえば政治家では、自分だけは特別で、法律が適用されず、世間的な倫理も適用されないと思っている人もいる。自分は特別なのだから、自分の愛人になれたことは、相手にとって幸せなことなのだと思っていたりする。実際のところ、相手は不同意性交だと主張したりする。このあたりの現実認識のゆがみが、一貫して基底にある。妻はいつでも許してくれると主観的に認識している。確かに、周囲の人としても、共感しにくい。本人に共感が欠如しているだけでなく、周囲の人が共感できない。そうだとしても、そのような空気を感じ取れない。
彼らの周りには、特別な、支配・被支配の種族がいて、彼を取り囲んでいて、現実を覆い隠している。
特別だと思うから、薬物などもはまってしまう。ギャンブルもその傾向がある。浪費もする。女性議員が婚姻外関係をして暴かれる例もいくつもある。自分は特別だと思っていて性関係になるのだと思うが、考えてみれば、自分はその程度の価値しかないと思っていなければ、そのような関係はできないのではないかとも思える。自分が本当に価値のある人間であれば、それに値するまれな場合にはしか、関係は成立しないのではないかと空想するが、そういうものでもないのだろう。性的欲求は、他人を利用する、という方向に働いていて、自分は特別だから欲求を満足させてもいいのだという方ことに働く。自分は特別なのだから、かなり特別な場合でなければ関係は持ちないという方向にはいかないようで、そのあたりも、理解しにくい。都合がいいやつである。高貴な自分を守るという感覚はないのだろう。その方向は世捨て人であり、マスコミに報道されるような種族ではないのだろう。
例えば、ジャン・ポール・サルトル。もちろんナルシシストで好色は限度を超えていて、次から次に新しい餌食をあさり、伴侶であるボーボーアールも、むしろ積極的に加担していたと、一部では言われている。毛沢東も同じような逸話が残されていて、次々にむさぼるのであるが、4番目の妻である江青はそうした猟色に、楽しんで参加していたという。このような形で、ナルシシストの補助をする人たちが、さらに特別な権力を与えられる。無限の連鎖であることは明瞭である。
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健康な程度のひそかな自己愛は必要なものだしよいものである。しかし程度の問題なのか、質的な問題なのか、様々であろうが、問題がある場合もある。