哲学でいう「間主観性」とは何か-2

哲学でいう「間主観性」とは何か。

ときどき間主観性という言葉が出てきて、それぞれの立場によってかなり意味内容が違っている感じがして、少し調べてみた。

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哲学における「間主観性」の概念は、主観性や客観性とは異なる第三の視点を提供する重要な考え方です。


間主観性の定義と特徴


間主観性とは、広義には複数の主観が共同的・相互的に形成する主観のあり方を指します。この概念は、個人の主観性だけでなく、他者との相互作用を通じて形成される共通の理解や経験を重視します。


主な特徴として:
・複数の主観の共同性を前提とする
・客観的世界の成り立ちを説明する試み
・個人の孤立した主観性ではなく、他者との関係性を重視

歴史的背景

間主観性の概念は20世紀に入り、現象学の文脈で発展しました。
・フッサール:現象学の創始者として、間主観性を「超越論的間主観性」として捉え、客観的世界の構成を説明しようとしました。
・メルロ=ポンティ:間主観性を「間身体性」として再解釈し、身体を通じた他者との関係性を強調しました。


間主観性の意義

・主観と客観の橋渡し:純粋な主観主義でも客観主義でもない、第三の視点を提供します。
・共通世界の構築:個々の主観が互いに影響し合いながら、共通の意味や理解を形成する過程を説明します。
・他者理解の基盤:自己と他者が互いを理解し合う可能性の基礎となります。

批判と課題

・間主観性の概念には、他者性の問題や共通理解の限界など、いくつかの批判や課題が指摘されています。これらの課題は、現代哲学における重要な議論の対象となっています。
・間主観性は、個人の主観と客観的世界の間に位置する概念として、現代哲学や社会思想に大きな影響を与え続けています。

関連


フッサールの間主観性とヘーゲルの見解の違いは何
間主観性が現象学に与えた具体的な影響は
メルロ=ポンティが間主観性をどう解釈したか
間主観性がコミュニケーションに与える影響は
間主観性が他者経験にどう関与するか
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フッサールとヘーゲルの間主観性に関する見解には、いくつかの重要な違いがあります。

アプローチの違い

  1. フッサールの現象学的アプローチ
  • フッサールは、間主観性を現象学的還元を通じて分析しました[1]。
  • 個々の主観の意識体験から出発し、他者理解や共通世界の構成を説明しようとしました。
  1. ヘーゲルの弁証法的アプローチ
  • ヘーゲルは、精神の自己展開の過程として間主観性を捉えました。
  • 自己意識と他者意識の相互承認の弁証法的過程を重視しました。

主観性の位置づけ

  • フッサール: 超越論的主観性を基盤とし、そこから間主観性を導き出そうとしました[3]。
  • ヘーゲル: 主観性そのものが間主観的関係の中で形成されると考えました。

他者理解の方法

  • フッサール: 「感情移入」の概念を用いて、他者理解のプロセスを説明しようとしました[1]。
  • ヘーゲル: 承認の闘争を通じて、自己と他者が相互に認識し合うプロセスを描きました。

歴史性と社会性の扱い

  • フッサール: 晩年には「世代的」間主観性の概念を導入し、社会文化的・歴史的な条件の解明を試みました[3]。
  • ヘーゲル: 最初から歴史と社会を精神の自己実現の場として捉え、より包括的な視点を持っていました。

言語の役割

  • フッサール: 言語の役割を認識していましたが、主に意識の分析に焦点を当てました[3]。
  • ヘーゲル: 言語を精神の具体化として重視し、間主観性の形成において中心的な役割を与えました。

結論

フッサールの間主観性論は、個々の主観の意識体験から出発し、現象学的方法を通じて他者理解と共通世界の構成を説明しようとしました。一方、ヘーゲルは、自己意識と他者意識の弁証法的な相互作用を通じて間主観性を捉え、より広い歴史的・社会的文脈の中でこの概念を展開しました。両者のアプローチは、間主観性の異なる側面を照らし出し、現代哲学における重要な議論の基礎を形成しています。

Citations:
[1] https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784480094483
[2] https://1000ya.isis.ne.jp/1712.html
[3] http://www2.kansai-u.ac.jp/tetsugak/2018/%E5%85%83%E6%98%8Epdf.pdf
[4] https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480095749/
[5] https://www.amazon.co.jp/%E9%96%93%E4%B8%BB%E8%A6%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6-%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%96%B9%E6%B3%95-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88-%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4480094482
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フッサールとハイデガーの間主観性に関する見解には、いくつかの重要な違いがあります。

アプローチの違い

  • フッサール: 現象学的還元を通じて、個々の主観の意識体験から出発し、他者理解や共通世界の構成を説明しようとしました[1]。
  • ハイデガー: 存在そのものを研究することを目的とし、対象をその文脈から理解することが必要だと考えました[3]。

主観と対象の関係

  • フッサール: 主観と対象を明確に区別し、意識の志向性を重視しました[3]。
  • ハイデガー: 主観と対象の区別を批判し、存在するものはその存在自体が主観と対象を包含していると主張しました[3]。

現象学的還元の扱い

  • フッサール: 現象学的還元を重視し、これを通じて世界を記述しようとしました[1]。
  • ハイデガー: 現象学的還元が対象をその文脈から切り離し、真の意味を歪める可能性があると批判しました[3]。

時間論

  • フッサール: 時間を「内的観照」として捉え、意識の中で形成されるものと考えました[3]。
  • ハイデガー: 時間を存在そのものの不可避的な側面として捉え、存在にとって不可欠な条件だと主張しました[3]。

概念の発展

フッサールの「志向性」(Intention)という概念に対し、ハイデガーは「気遣い」(Sorge)という概念を提唱しました。これは、主体と対象の区別を超えて、人間の存在そのものの在り方を表現しようとしたものです[3]。

結論

フッサールが主観性や意識の分析を重視したのに対し、ハイデガーは存在そのものの探求に焦点を当てました。この違いは、間主観性の理解や現象学の方法論に大きな影響を与え、現代哲学における重要な議論の基礎となっています。

Citations:
[1] https://1000ya.isis.ne.jp/1712.html
[2] https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784480094483
[3] https://note.com/ryu2net/n/n0c1752b0f9b9
[4] https://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~tsina/kuses/08.01shinagawa03.pdf
[5] http://www2.kansai-u.ac.jp/tetsugak/2018/%E5%85%83%E6%98%8Epdf.pdf
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フッサールの超越論的主観性は、現象学的還元を通じて到達される意識の純粋な在り方を指します。この概念は、フッサールの現象学の中核をなす重要な要素です。

超越論的主観性の特徴

  1. 純粋意識: 日常的な自然的態度を括弧に入れ(現象学的還元)、純粋な意識体験のみを考察の対象とします。
  2. 志向性: 意識は常に何かについての意識であるという志向性の原理に基づいています。
  3. 世界構成の源: 超越論的主観性は、世界の意味や妥当性を構成する源泉とされます。
  4. 間主観性の基盤: 個々の超越論的主観性が相互に関係し合うことで、間主観的な世界理解が可能になります。

超越論的主観性の役割

  • 客観的世界の基礎: 超越論的主観性は、客観的世界の意味や存在の根拠となります[1]。
  • 経験の基盤: すべての経験や認識の可能性の条件として機能します。
  • 本質直観の場: 個別的な経験を超えて、事象の本質を直観する場となります[1]。

批判と課題

フッサールの超越論的主観性の概念は、以下のような批判や課題に直面しています:

  1. 独我論的傾向: 個人の意識に過度に焦点を当てているという批判があります[5]。
  2. 他者理解の問題: 他者の意識をどのように理解し、共通の世界を構成するかという課題があります。
  3. 生活世界との関係: 後期フッサールは、超越論的主観性と具体的な生活世界との関係を探求しました[2]。

フッサールの超越論的主観性は、現象学的方法を通じて世界の意味や妥当性を解明しようとする試みであり、現代哲学に大きな影響を与えています。しかし、その概念は様々な批判や解釈の対象となり、現在も哲学的議論の中心にあります。

Citations:
[1] https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space12/12_12nakamura.pdf
[2] https://glim-re.repo.nii.ac.jp/record/1763/files/tetsugakukaishi_22_75_85.pdf
[3] https://note.com/ryu2net/n/n0c1752b0f9b9
[4] https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784480094483
[5] https://1000ya.isis.ne.jp/1712.html
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フッサールの超越論的主観性の概念は、他の哲学者たちによって様々な形で受け止められ、批判や発展が行われました。

ハイデガーの批判と展開

ハイデガーは、フッサールの弟子でありながら、超越論的主観性の概念に対して批判的な立場をとりました。

  • ハイデガーは、フッサールの主観と対象の明確な区別を批判し、存在そのものがこれらを包含していると主張しました[3]。
  • 現象学的還元についても、対象をその文脈から切り離すことで真の意味が歪められる可能性があると指摘しました[3]。
  • ハイデガーは、フッサールの「志向性」(Intention)の概念を批判的に発展させ、「気遣い」(Sorge)という独自の概念を提唱しました[3]。

独我論批判

フッサールの超越論的主観性は、しばしば独我論的傾向があるという批判を受けました。

  • 一部の批評家は、フッサールの現象学がデカルト的な自我を現象学的な自己に置き換えているにすぎないと批判しました[1]。
  • この批判に対して、フッサール自身は現象学的還元が自己にも他者にも適用可能であると考えていました[1]。

間主観性への展開

晩年のフッサールは、独我論批判に応える形で「間主観性」(Intersubjektivität)の解明に向かいました。

  • 間主観性の概念は、個々の主観が世界の意味を積み重ねていくことで成立するものとされました[1]。
  • この展開は、他者理解や共通世界の構成に関する問題に取り組む試みでした。

相互主観性と独我論の関係

一部の研究者は、フッサールの相互主観性概念を独我論を回避するための矯正手段として解釈しています[2]。

  • この解釈では、相互主観性が「完璧な自我論」という意味での独我論を避けるために導入されたと考えられています。

結論

フッサールの超越論的主観性の概念は、他の哲学者たちによって批判的に受け止められながらも、現代哲学における重要な議論の出発点となりました。ハイデガーによる批判的発展や、独我論批判への応答としての間主観性の概念など、フッサールの思想は様々な形で哲学的議論を刺激し、発展させる役割を果たしました。

Citations:
[1] https://1000ya.isis.ne.jp/1712.html
[2] http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.3_2005/fukumitsu.pdf
[3] https://note.com/ryu2net/n/n0c1752b0f9b9
[4] https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784480094483
[5] https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space12/12_12nakamura.pdf
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フッサールが超越論的主観性を提唱した背景には、以下のような要因があります:

  1. デカルト的懐疑の徹底化:
    フッサールは、デカルトの懐疑を不徹底だと考えました。デカルトが主観と客観の区別を維持し、客観的世界の存在を前提としていたのに対し、フッサールはより徹底した懐疑を追求しようとしました[2][4]。
  2. 意識中心主義の追求:
    フッサールは、世界や他者を私の意識(純粋意識)の内部で超越論的に構成されるものとして捉える「意識中心主義」の立場を取りました[3]。
  3. 明証性の追求:
    フッサールは、哲学的探究において絶対的な確実性や明証性を求めていました。超越論的主観性の概念は、この明証性を見出すための試みでした[4]。
  4. 自然的態度と自然主義的態度への批判:
    フッサールは、日常的な自然的態度や科学的な自然主義的態度を批判し、それらを括弧に入れる(現象学的還元)ことで、純粋な意識体験を考察しようとしました[4]。
  5. 客観的意味形成の根源的な場の探求:
    フッサールは、超越論的主観性をあらゆる客観的意味形成と妥当性の根源的な場として捉えていました[5]。
  6. 独我論的視点の採用:
    フッサールは、独我論的主観(モナド)的な自我がものやことを現象としてしか捉えられないという立場を取り、これを現象学の基本的立場としました[4]。

これらの背景から、フッサールは超越論的主観性の概念を提唱し、純粋意識の分析を通じて世界の意味や妥当性を解明しようとしたのです。この試みは、後の現象学的研究や哲学的議論に大きな影響を与えることになりました。

Citations:
[1] http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.3_2005/fukumitsu.pdf
[2] https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/5078/files/KJ00002451720.pdf
[3] https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/360/files/KU-0010-20150323-44.pdf
[4] https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space12/12_12nakamura.pdf
[5] https://glim-re.repo.nii.ac.jp/record/1763/files/tetsugakukaishi_22_75_85.pdf
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現象学的還元は、現象学の創始者であるエドムンド・フッサールが提唱した重要な概念です。この概念は現象学の中心的な方法論であり、私たちの意識と世界の関係を理解するための鍵となるものです。

現象学的還元の本質

現象学的還元は、日常的な「自然的態度」を一時的に中断し、意識の働きそのものに注目する方法です[1]。この過程は以下の特徴を持ちます:

  1. 判断中止(エポケー): 世界の客観的存在を一時的に括弧に入れ、判断を保留します[2]。
  2. 純粋意識への注目: 意識を世界内の一事実としてではなく、意味形成の絶対的な場として捉えます[2]。
  3. 志向性の分析: 意識が対象をどのように捉え、意味を形成するかを詳細に分析します[2]。

現象学的還元の目的

この方法論には以下のような目的があります:

  • 意識体験の純粋な記述: 先入観や理論的前提を排除し、意識体験をありのままに記述することを目指します[1]。
  • 意味形成過程の解明: 対象がどのようにして意味を持つものとして認識されるかを明らかにします[2]。
  • 人間科学の基礎づけ: 実証主義的方法の限界を超え、人間諸科学に「意味」のカテゴリーを回復させることを目指します[2]。

現象学的還元の影響

現象学的還元は哲学だけでなく、心理学、社会学、教育学など、さまざまな分野に影響を与えました[3]。この方法は、私たちの日常的な世界理解や認識のプロセスを新たな視点から捉え直す機会を提供します。

現象学的還元は、単なる抽象的な哲学的概念ではなく、私たちの日常生活や思考のあり方にも適用できる実践的なツールとしても捉えられています[1]。この方法を通じて、私たちは自分の意識の働きや世界との関わり方をより深く理解することができるのです。

Citations:
[1] http://www.osamuhasegawa.com/phenomenology/
[2] https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6%E7%9A%84%E9%82%84%E5%85%83-60675
[3] https://gshi.si.aoyama.ac.jp/hiblog/suzuki/?p=433
[4] https://researchmap.jp/takaaki-matsui/published_papers/19266118/attachment_file.pdf
[5] https://www.weblio.jp/content/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6%E7%9A%84%E9%82%84%E5%85%83
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フッサールの「エポケー」は、現象学の中核をなす重要な概念で、以下のような特徴を持ちます:

エポケーの意味

エポケーとは、ギリシャ語で「停止する」という意味を持ち、日本語では「判断停止」や「判断中止」と訳されることが多いです[1][3]。

エポケーの目的と方法

  1. 自然的態度の中断: 日常的に私たちが無意識のうちに持っている世界観や前提を一時的に括弧に入れます[1][2]。
  2. 判断の保留: 目の前の対象が実在するかどうかについての判断を一時的に停止します[2]。
  3. 純粋意識への注目: 対象そのものではなく、意識の働きや体験の流れに焦点を当てます[1][2]。

エポケーの具体的プロセス

フッサールは『イデーンI』で、エポケーを以下のように表現しています[3]:

  • 定立を「作用の外に置く」
  • 定立を「遮断する」
  • 定立を「カッコに入れる」
  • 定立を「判断中止する」

これらの表現は、私たちが通常行っている対象の存在や性質についての判断(定立)を一時的に停止することを意味します。

エポケーの目的

エポケーの目的は、先入観や理論的前提を排除し、意識体験をありのままに記述することです。これにより、人間の認識過程や意味形成の仕組みを純粋に分析することが可能になります[1][2]。

エポケーは、単なる懐疑ではなく、世界や対象の存在を否定するものでもありません。むしろ、私たちの意識と世界との関係を新たな視点から捉え直すための方法論的ツールとして機能します。

Citations:
[1] https://tetsugaku-chan.com/entry/Husserl
[2] https://diamond.jp/articles/-/328085
[3] https://naruhoudou.com/aboutepoche/
[4] https://kokoro.racoo.co.jp/magazine/2022/05/08/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC/
[5] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC
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フッサールの「エポケー」を実践する具体例をいくつか挙げてみましょう。

日常生活での実践

  1. 物事を見る時の新しい視点
    普段何気なく見ている対象を、初めて見るかのように観察してみます。例えば、コーヒーカップを見る時、その形状、色、質感などを、既存の「カップ」という概念を一旦脇に置いて、純粋に目の前にある現象として捉えます[1]。
  2. 感情の観察
    怒りや喜びなどの感情を体験する時、その感情に対する判断を停止し、感情そのものの体験を観察します。「この怒りは正当か」といった評価を括弧に入れ、感情の現れ方そのものに注目します。

専門的な場面での実践

  1. 心理カウンセリング
    クライアントの話を聞く際、診断名や既存の理論的枠組みを一時的に括弧に入れ、クライアントの体験をありのままに理解しようとします[2]。
  2. 科学研究
    実験結果を解釈する際、既存の理論や仮説を一旦脇に置き、データそのものが示す現象に注目します。これにより、新しい発見や洞察が得られる可能性が高まります。

ビジネスでの応用

  1. 商品開発
    既存の商品カテゴリーや市場の常識を一時的に括弧に入れ、顧客の真のニーズや体験そのものに注目します。これにより、革新的な製品やサービスの創出につながる可能性があります[4]。
  2. 組織の問題解決
    組織の問題に直面した際、既存の組織構造や慣習に関する前提を一時的に保留し、問題の現象そのものを観察します。これにより、新しい解決策や組織のあり方が見えてくる可能性があります。

エポケーを実践することで、私たちは日常的な先入観や固定観念から解放され、物事を新鮮な目で見ることができます。これは単に哲学的な概念にとどまらず、創造性や問題解決能力の向上にも寄与する実践的なツールとなり得るのです[1][4]。

Citations:
[1] https://tetsugaku-chan.com/entry/Husserl
[2] https://kokoro.racoo.co.jp/magazine/2022/05/08/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC/
[3] https://naruhoudou.com/aboutepoche/
[4] https://gkp-koushiki.gakken.jp/2017/05/19/20007/
[5] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC
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フッサールの「エポケー」を心理学的に解析すると、以下のような側面が浮かび上がります:

認知的側面

  1. 認知的柔軟性
    エポケーは、既存の思考パターンや信念を一時的に保留する能力を必要とします。これは認知的柔軟性の一形態であり、新しい視点や解釈を受け入れる準備状態を作り出します[1]。
  2. メタ認知
    エポケーを実践するには、自分の思考プロセスを客観的に観察し、分析する能力が必要です。これはメタ認知の一種で、自己の認知過程を意識的に監視し、制御する能力を示しています[5]。

情動的側面

  1. 情動調整
    日常的な判断や先入観を保留することは、時として不安や不確実性を引き起こす可能性があります。エポケーを実践するには、これらの感情を適切に調整する能力が必要となります。
  2. 開放性
    新しい体験や視点に対して心を開く姿勢は、エポケーの実践に不可欠です。これは、パーソナリティ特性の一つである「開放性」と関連しています。

注意の側面

  1. 選択的注意
    エポケーは、特定の思考や判断を意識的に「括弧に入れる」ことを要求します。これは選択的注意の一形態であり、特定の情報に注意を向けたり、逆に抑制したりする能力を示しています。
  2. マインドフルネス
    現象をありのままに観察するエポケーの姿勢は、マインドフルネスの実践と類似しています。両者とも、現在の瞬間に非判断的に注意を向けることを重視します[2]。

実践的応用

心理療法の文脈では、エポケーの概念は以下のように応用されています:

  1. クライアント中心療法
    セラピストが自身の先入観や判断を保留し、クライアントの体験世界をありのままに理解しようとする姿勢に反映されています[5]。
  2. 認知行動療法
    自動思考や信念を一時的に保留し、より適応的な思考パターンを探索する過程にエポケーの要素が見られます。
  3. マインドフルネス・ベースの介入
    思考や感情を判断せずに観察する実践は、エポケーの現代的応用と言えます。

エポケーの実践は、単なる哲学的概念ではなく、心理学的にも重要な意味を持つ認知プロセスであり、心理療法や個人の成長に寄与する可能性を秘めています。

Citations:
[1] https://tetsugaku-chan.com/entry/Husserl
[2] https://note.com/rafatestu7mdaj/n/n940d4a1acd25
[3] https://kokoro.racoo.co.jp/magazine/2022/05/08/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC/
[4] https://core.ac.uk/download/pdf/80560880.pdf
[5] http://yamatake.chu.jp/03phi/1phi_a/1.html
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メルロ=ポンティの間主観性に関する解釈は、従来の主観性の概念を再構築することを目指したものです。彼の考えでは、間主観性は単なる個人間の相互作用ではなく、より根本的な構造を持っています。

身体性と知覚

メルロ=ポンティは、間主観性の基盤を身体性に置いています。彼によれば、主体とは意識や精神である以前に、まず身体であり、身体が知覚の真の主体となります[1]。この身体的な知覚を通じて、我々は他者と世界を共有する実存の地盤を得るのです。

言語と意味

言語もまた、メルロ=ポンティの間主観性理解において重要な役割を果たします。

  • 言葉と意味の密接な結びつきを強調
  • 言語を身体的所作の一つとして捉える
  • 実存の様式と言葉の意味の連続性を主張[1]

これらの考えは、言語を通じた間主観的な意味の共有と創造の可能性を示唆しています。

時間性と主観性

メルロ=ポンティは、時間性を主観性の根底に据えています。彼は「時間は誰かである」と述べ、時間の諸次元が相互に確認し合い、主観性そのものを表出していると考えました[5]。この時間性の概念は、間主観性の動的な性質を理解する上で重要です。

知覚の現象学における間主観性

『知覚の現象学』において、メルロ=ポンティは間主観性を以下のように描いています:

  • 他者の言葉を通して自分の思考を発見する経験
  • 個人による他者たちへの同一化のプロセス[2]

これらの観点は、間主観性が単なる個人間の関係ではなく、より根源的な存在の様式であることを示しています。

メルロ=ポンティの間主観性解釈は、身体、言語、時間性を統合した複雑な構造を持ち、従来の主観-客観の二元論を超えた新たな理解を提示しています。

Citations:
[1] https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2002/174.html
[2] https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199844/1/hes_23_67.pdf
[3] https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/35613/files/NCk_19_007.pdf
[4] https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/2003942/files/nueduca6901_04.pdf
[5] https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/48002/1/35_37-55.pdf

メルロ=ポンティの主観性概念は、身体と言語の関係にどう結びつけられているのか
メルロ=ポンティがソシュールを批判した理由は何か
メルロ=ポンティの「間主観性」という概念は具体的にどのような場面で現れるのか
メルロ=ポンティの言語論における「語は意味をもつ」という命題の意義は何か
メルロ=ポンティの「脱自」の構造とは具体的に何を指しているのか

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メルロ=ポンティの言語論における「語は意味をもつ」という命題の意義は、以下の点にあります:
従来の言語論の克服
この命題は、経験主義的言語論と主知主義的言語論の両方を乗り越えるための鍵となります。
経験主義的言語論:言葉の内面的意味を見逃す
主知主義的言語論:意味を言葉から独立した思考の産物とする
メルロ=ポンティは、これらの立場がともに「語は意味をもつ」という事実を認めていないと指摘し、この命題を認めることで両者を一挙に乗り越えられると主張しました。
言語経験の本質的把握
この命題は、我々の日常的な言語経験をより適切に捉えるものです。メルロ=ポンティは、以下のような経験を例に挙げています:
他人の言葉を通して自分の思考を発見する経験
語る主体が言葉の意味の源泉であること
これらの経験は、語が単なる記号や思考の外的表現ではなく、それ自体が意味を持つことを示しています。
間主観性の基盤
「語は意味をもつ」という命題は、メルロ=ポンティの言語論において間主観性の概念と密接に結びついています。言葉を通じて他者と意味を共有し、相互理解が可能になるという考えは、彼の間主観性理論の核心部分を形成しています。
言語と身体性の結合
メルロ=ポンティは、言葉を身体的所作の一つとして捉えています。「語は意味をもつ」という命題は、言語と身体性を結びつけ、言葉を単なる記号や思考の道具ではなく、身体化された意味の表現として理解することを可能にします。
この命題を通じて、メルロ=ポンティは言語を生きられた経験の一部として位置づけ、言葉と意味の不可分な関係を強調しています。これにより、言語を通じた間主観的な意味の共有と創造の可能性を示唆し、言語理解に新たな視点をもたらしたのです。
関連
メルロ=ポンティの「語は意味をもつ」という命題は、他の言語論家とどう比較されるのか
メルロ=ポンティが語の意味を説明する際に使用する具体的な例は何か
メルロ=ポンティの言語論における「語る主体」の概念はどう解釈されるのか
メルロ=ポンティの言語論は現代の言語学にどのように影響を与えているのか
メルロ=ポンティの「語は意味をもつ」という命題が具体的にどのように社会に影響を与えるのか

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超越論的直観とはなにか

超越論的直観は、カントの認識論において重要な概念ですが、実際にはカントが拒絶した概念です。以下にその詳細を説明します。


カントの認識論における直観


カントの認識論では、直観は一般的に以下のように理解されています:
経験的直観: これは感覚を通じて得られる個別的な表象です。
純粋直観: 時間と空間という形式を持つ、経験に先立つ直観です。


しかし、「超越論的直観」という概念は、カントの体系の中では特殊な位置を占めています。
超越論的直観の特徴
超越論的直観は、以下の特徴を持つと考えられます:
知的直観: カントが拒絶した概念であり、感性に依存せずに対象を直接的に認識する能力を指します。
非経験的: 経験や感覚に依存せず、純粋に知性によって対象を把握する方法です。
直接的認識: 概念や推論を介さずに、対象の本質を直接的に把握する能力を意味します。


カントの立場
カントは超越論的直観の概念を以下のように扱いました:
拒絶: カントは人間の認識能力にこのような直観は存在しないと考えました。
神の属性: 超越論的直観は、むしろ神のような全知の存在にのみ可能な認識方法とされました。
人間認識の限界: カントは、人間の認識は常に感性と悟性の協働によってのみ成立すると主張しました。


超越論的哲学との関係
超越論的直観の概念は、カントの超越論的哲学の文脈で理解する必要があります:
認識の条件: 超越論的哲学は、認識を可能にする主観の側の先天的条件を探求します。
経験の枠組み: カテゴリーや純粋直観といった概念が、経験の可能性の条件として提示されます。
直観の限界: 超越論的認識の対象(純粋悟性概念、統覚など)は直観の対象とはなり得ないとされます。


このように、超越論的直観はカントの認識論において重要な概念ですが、それは人間には不可能な認識方法として位置づけられ、むしろ人間認識の限界を示す役割を果たしています。


関連
カントの「超越論的直観」と「経験的直観」の違いは何
超越論的直観が認識にどう寄与するの
超越論的直観が拒絶される理由は
超越論的直観が純粋理性批判にどのように登場するの
超越論的直観と統覚の関係は

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最近何度か同じテーマで書いているのだが、精神科医療の記録としてどのようにカルテを描けばいいのかという問題。もっといい考えはないかと思って書いている。

フッサールは、彼の作品、特に「アイデア I」(1913 年)の中で、外界についての仮定を取り除き、純粋な主観的経験に焦点を当てる「現象学的還元」のアイデアを導入しました。

というあたりに関係する。

(1)外界についての仮定を取り除き、純粋な主観的経験に焦点を当てるなどと言うのだが、それはどのようにして可能なのだろうか。
それが可能ならばありがたい、ぜひそうしたい。

たとえばカルテの中に書く言葉として、特定の流派的な言葉は書かないほうがいい。100年たったら役に立たないから。例えば、生気悲哀(vitale Traurigkeit)
という言葉は使わないほうがよい。鏡自己対象転移なんていう言葉も使わないほうがいい。100年後の精神科医はこの世から消えた言葉も収録している電子辞書を引かなければならなくなる。

そんなふうに思うのは、今、先輩方の書いたカルテを読んでみると、文章を読んで、2024年の診断でいうならこれだなとか考えることができるようなカルテと、そうではなくて、カルテを書いた人の頭の中には最初にその人が良く勉強した概念があって、どうもそれを思い出して書いているらしいと思われるものもないではない。実際に厳密にそのような症例を書いているのかもしれないが、多少は学説に引きずられているかもしれないと思ったりする。そんなことにならないように、特定の学説に引きずられないで、読むことの頭の中の理論に自由に流れ込んでゆくような記述がしたい。

そのような記述を昔の精神科医は現象学的記述と呼んでいるので、調べてみると、どうも、現象学の学者さんたちは、先入観や偏見のない記述があればいいなという感じで、現象学的記述という言葉を使っているらしい。実際書いたものを見せてよといっても、患者さんの言葉をそのまま書くとか、単純な話だったりする。勝手な要約をしたり、勝手な解釈をしたりしない。するときは、自分勝手な解釈だと分かるように、書いておく。

それならいっそ、録音を残す、ビデオを残す、あるいは音声から文字起こしをして、それをカルテに書いておく。患者の表出とか行動は、患者の言葉自体では表現できないから、観察者の言葉で書いておく。

例えば、患者さんがレゴでわけのわからないものを作ったときに、「患者さんはレゴでお城のようなものを作ろうとしたが、あまりうまくできなかった」と書いているのでは、その場にいない人にはよく分からない。だから、実際のレゴの並びがどのようであったかを描けばよい。つまりは、患者さんの言葉をそのまま書けばいいのだが、そのまま書くという単純なことがとても難しい。国会や裁判所の速記者のように書く?つまりいまならビデオで記録しておくということになるのか。それを現象学的記録というか?観察者が書く場合は、観察者の頭の中身゛どうしても影響してしまうから、ビデオがいい。しかし、何をどのように質問しているのか、そして答えるとして、それはその当時の社会の様子からして、どのような意味のものであったか、そのような問題もある。つまりビデオだけでは不足である。そのころ、その地域で、その観察者とその患者の間での言葉の内容はこんな風であったと、かなり説明しなくては分からないこともあるのではないだろうか。

たとえば明治時代の家という制度がどのように人の意識に影響を与えていたか。例えば、1945年当時の戦争からの解放がどのように人の気分に影響を与えていたか。結局よく分からないし、分かった気になっていても、間違いだったりもする。

今自分に見えているのはいったい何だろう。どう記録したらいいのだろう。それはつまり、どう理解するかということで、どういう理論に拠って立っているかという話になる。そういうことではなく、そうした理論や時代や地域から離脱して独立したカルテにしたいのに、それがなかなか難しいのだ。

これまで使ってきた例え話でいえば、人間は生まれたらすぐに、何色かの眼鏡をかけないと世界が見えないとする、そしてその色眼鏡をずっとかけていると、自分が色眼鏡をかけていることを忘れる。長く生きていると、いくつかの色眼鏡を経験することになるから、物事を相対化して考えられるようになる。緑眼鏡ならこんなふう、黄眼鏡ならこんなふう、などと知ることができる。すると当然、色眼鏡ではない、透明メガネで見たらどうなのか、そして裸眼で見たらどうなるのか。そのような問題になる。

一つは、そうした色眼鏡の一部は、人間の身体や脳に刻印された構造である。もう一つは、生後受容した言語の刻印である。それを取り除くとか裸眼で見るとか、どうすればいいのだろう。

ビデオで撮影するほかに、心理テストを何種類か、定期的に思考して記録しておく方法もある。しかしまた、この心理検査が、何をどのように測定して、それをどのように記録しているのか、いろいろと問題はある。測定者はどんなつもりで、被験者はどんなつもりで、というのも結局問題になる。

人間に思考があり、言葉があり限り、外界についての仮定を取り除きというのも難しい。

物事を認識するということは、必ず特定の色眼鏡で見るしかないらしい。

(1)は観察者の記録の仕方の問題だ。

(2)こちらは患者が自分の内部状態についてどのように言葉で語ることができるかということだ。

例えば、軽いめまいがすると感じたとして、めまいというのだから、くらくらしたり、ぐるぐるしたり、ふわふわしたりするのだろうが、その言葉で、自分の内的体験と合っているのかどうか、なかなか難しい。

自分の外部についてならば、事故があったとき、自分の側の信号は黄色だった、相手の信号は赤だったと言ったとして、世間が黄色といっているものを参考にして、こういう場合には黄色というのだという知識と合わせるようにして、黄色と表現している。

しかし自分の内部状況について、たとえばめまい、頭痛などについて他人がめまいと表現している内部状態と、詳細に比較検討することは出ない。

とはいうものの、人間の構造や機能が広く共有されているから、かなり杜撰な話をしていても、あまり不都合なことにはならない。あるいはまた、全然違うことを話していたとしても、杜撰な精神は、それを気にしない。

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とりあえず、ここまでで、二重に困難があり、解決方法も分からない。

分からないけれども、困らない。なぜなら、進化論的に説明できるから。

例えば、数学の基礎論で、数とはなにかとか、加法とは何かとか、なるほど難しい議論もあり、集合論から初めて無矛盾のままで構成してゆこうとして、失敗したりしている。かなり最初のほうで、全部の集合の集合と空集合の関係という、分かりやすい矛盾が提示される。それでも、公理から組上げる努力をしたらしいが、それが成功でも失敗でも、日常生活で、ジャガイモ3個買ってきてと言えば、何の誤解もなく了解できる。リンゴは4個あったけど、パパが1個食べたから、残りは3つだよとか。

そうしたことは進化論的に脳の仕組みが選択されてきたのだろうと思われる。

たとえば、いしころを投げた時の軌道と、地球が公転する軌道などについて、数学が見事な力を―発揮する。そして現在では、その延長として、数学が予言するなら、多分その通りなんだろうということで、量子力学の解釈の一つを形成したりもしている。

なぜ数学は、人間がまだ観測したこともないような事柄について予言して成功するのだろう。

これは数学というある種の形式が、自然界を脳内に転写するにあたり、非常に精密に機能したということなのだろう。

そして、我々が日常生活で経験しないような微細な世界についても、数学で記述すると多分こんな感じというので、量子力学が数学で記述される。でも、なぜそんなことが信じられるのだろうか。我々の数学には、適応可能範囲というものがあるのではないか。別の数学が記述に適しているのではないか。しかしそのような心配をよそに、数学は成功し続けている。人間の期待に応え続けてきた。しかもたいして修行することもなく、成果を享受できるのである。

このようなことが生じるのは、我々人間の脳の感覚や情報処理がこのような数学の形式を要請しているからであって、観測していないことを予言してしまうのも、結局人間はそのようにしか観測できないからだとの意見もあるだろう。

数学は自然界の法則を抽出しているのではなくて、つまり理論の正しさを抽出しているのではなくて、人間の脳の癖を抽出しているだけなのかもしれないという疑問もある。しかしそれも進化論で説明できる。

人間の脳は、自然界の法則を正確に予測できるように進化した。そりほうが生存確率が高くなり、子孫を残す確率が高くなる。だから、人間の脳と自然の法則は、数学の正しさという地点で一致点を見いだす。

偶然でもなんでもなくて、進化論の必然結果である。

この辺りのことをカントがドイツ語で簡潔に書いて、コンラート・ローレンツがドイツ語で簡潔に答えている。

数学がなぜ正しいとのかと同じように、なぜ主観的な感覚の延長で他人を解釈しても、だいたいうまくいくのかも答えられる。すべての人間の目が二つだと検証したわけでもないし、例外もあるだろうけれども、我々が通常、目は二つあると仮定して話を進めて特に問題ないように思う。自己や病気はいつでもあるけれども、基本の設計図としては、そのように考えてよい。

間主観性の問題について言えば、もともと、人が持つ主観は、他人の持つであろう主観と、どのように似ていてどのように違うのか、そんなことを考えると、身動きが取れなくなる。

自然科学で採用するような、単純な素朴実在論で充分だと考えれば、主観はそれぞれの人間が持っていて、だいたい似たようなものであり、それは証明できないが経験的に問題はないと思われる。

しかし哲学の人たちは厳密が好きなので、複数の主観が関係を持つとき、単純に、自分のような主観がたくさんあると拡張して考えていいはずがないというわけだ。

主観は相手を無数の客観物の一部と考えるので、同様に、相手から自分は客観物の一つと見られているはずだ。正確な意味で主観と主観が向き合っているのでもないだろう。主観以外は全部客観物なのである。そこにどのような関係ができたとしても、対称的ではないだろう。しかしそれは我々が常識的に抱く主観がたくさん寄り集まって社会ができるという考えと違うように思う。

そこで哲学系の人たちは次の手を繰り出す。よくある手であって、むしろ伝統的なものである。

主観と主観が最初に存在して、そのあとで関係ができるのではない。

関係が最初に実在して、その両端のものとして、主観が二つできる。

だから自分の主観は世界にとって特殊なものではない。

これは二者に限らず無数に拡張していいのであって、社会関係というものがまず実在する。そして関与するたくさんの末端の人がそれぞれに主観を持っている。そうなると、社会関係が実在して、各主観はそこから分離されたものとして、力弱く存在する。

原初にあるものは関係であって、個々は関係の端っこにあるものにすぎない。

こうした伝統的な考えは昔からよくあるので、いろいろな大同小異の思考もあるものだろうと思う。

システム論とかと言われるものの一部はこうしたものがあるだろう。

ここで重要なのは、関係が原初で、主観や個は二次的なものであるのだから、病気を考えるときも、まず関係が壊れているとみるべきである。個々の主観としては損傷も欠損もないとしても、関係が壊れているという状態は世の中にたくさんあるので、これはうまい考えではないだろうか。

個々人には欠損はなく、社会のほうに問題があるとする思考方法は、個々人の責任を免除してくれるものだ。一種の免罪符であるから、一定の人気はある。ではどんな社会なら幸せなのかと言えば、結局、戦争をして元気な若者が死に、元気でない若者と高齢者が残り、戦争で奪った財宝を享受する。

そこには一人一人が自分の内面と向き合い、超越してゆく態度などは見られない。


超越論とかも好きそうなので言っておくと、つまりは、理由は分からないが突然正解が分かってしまうことだ。分からないと言うに等しいのだけれども、超越という用語を使えば、説明を省略していいことになっているらしい。

一方で、これとは違って、トランスパーソナルで言うトランスには意味内容がある。

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またこれは言語の支配性とかかわっている。

人間は、生まれた時には、具体的な言語を持たない。具体的な言語を与えられれば学習する回路は脳に備わっている。言語という全体が、個人の生前にも死後にも存在していて、個人を超越する。

これを言語と言ってもいいし、他者の総体と言ってもいい。そこから逃走できる個体は、言語の総体からは理解を拒絶される存在だろう。

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