プレとトランスの錯誤

先日、このブログを書いて、調べ物をしていて、ケン・ウィルバーの項目で、「プレとポストの錯誤」と紹介している部分があって、気になった。
昔の私の読書では、それは「プレとトランスの錯誤」と表現されていたように思う。しかし考えてみれば、プレに対応する言葉としてはポストの方がいいのかもしれないし、意味内容としてはたぶん、違いはないだろう。

人間の種としての発達を観察してみると、概ね、現代の先進国の精神としては、自然科学が知識の中心で、特にニュートン力学などの古典物理学が、現代人の精神の中核にあるといってよいだろう。(異論は大いにあると思うが、一応、考え方の紹介なので了承してほしい。)
それ以前といえば、何でも宗教的な解釈が優先されて、ヨーロッパでいえば、カトリック教会が、何が真実か、何が罪か、天国に行けるのは誰かを決めていた。免罪符を買えば、信者は地獄行きは免れ、教会は大建築を造営し、彫刻も絵画も独占できた。

免罪符を売るなどと言う行為をした教会がいまだに権威を保っていることが実に人間の脳の不完全さといい加減さを物語っていると思う。これは脳機能の問題である。

贖宥状とは、16世紀にカトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。免償符、贖宥符とも呼ばれる。 また、日本においては免罪符とも呼ばれ、「罪のゆるしを与える」意味で、責めや罪を免れるものや、行為そのものを指すこともある。しかし、「免罪符」という翻訳は誤訳であるとカトリックは表明している。 

というあたりからして反省していないし、最近では未成年者からの性的搾取問題で大揺れに揺れるかと思われたが、結局少しも変わらない。

それはそうとして、何でもかんでも神様が決めたことと考えるのが、過去だった。それを「プレ」と呼ぶ。

それに対して、「現在」を超えて、人間精神が本当に開花した状態があるはずだ。それを「トランス」と呼ぶ。トランスパーソナル心理学などの言葉はこうした超越を意味している。宗教的悟りとかと同類。瞑想や観想やcontemplationとかmeditationというあたりも近い。ピーク体験でもいい。別に何をしなくても、たとえば日常生活で仕事をしているときも、悟りのようなものに触れることはあるので、何か特別な仕掛けが必要なわけではない。

しかし「免罪符」のようなものを売りたい人たちはどこにでもいるので、その人たちは特別な仕組みが必要だと主張するのである。お疲れ様なことだ。そのようにして人生を無駄に過ごしているとは、せっかくの悟りが泣くではないか。彼らは最近では新宗教と自己啓発を売り物にしている。

要するに、「プレ」と「現在・普通の生活」と「トランス・ポスト・超越」を時間軸上に並べて考えることができる。

ところが、現在の人間は、自分たちの到達点が頂点であると思い込んでいるので、常識に反する超越的なことを言えば、インチキだとか、頭がおかしいだとか、詐欺師、洗脳されている、などと評価される。

せいぜい許されるのはキリスト教的隣人愛とかだろう。(私の立場としては、キリスト教的隣人愛でも十分に深いもので、人類が種として、隣人愛を現実のものとするためにはあと1万年くらいかかるか、あるいは脳神経細胞の数が現在の倍くらいにならないとどうにもならないだろうと思う。そして、この場合のトランスはそのさらに先のことを言っているので、理解されるのは難しい。)

トランス体験は内的なものであって、空中浮遊して見せて、みんなを驚かせて、超能力として信じさせるようなものとも全く無縁である。威張る人にはろくな人がいない。トランスすればするほど謙虚になって沈黙するのである。もう「完全」なのだから、それ以上欲することもない。

「現在の人々の精神」がプレとトランスを区別することは、難しい。むしろ、トランスだという人を信じないで、慎重に接することはよいことだと思う。簡単に信じるのはおろかである。しかしまた、プレとトランスを区別できなければ、賢者になることは難しい。

区別する方法があるわけでもないし、認定する人もいないし、認定機関もない、そうしたもののはずである。だから、自分はトランスを体験して、トランスを生きていると言い張る人がいたとしても、それはその人の勝手である。信じるのもだまされるのも勝手である。誰にもどうしようもない。

しかしたとえば日本ではオーム真理教とか事件があったし、現在も元統一教会の報道があったりして、驚いて、賢い人たちは、近づくこともしないし、論じることもしない。そのような傾向は、第二次世界大戦後の宗教嫌悪とも結合している。国家神道で命を奪われた人々がいるのだから、嫌悪するのも当然である。フランスはカトリック教会との離別を宣言して、かなり明確な(と、私から見れば見える。たとえばフランスの公共の場でのイスラム教者の服装の問題。)態度をとっている。共和国はいかなる宗教勢力よりも上位にある、それを受け入れた人間だけが共和国を形成する。

最近の知識人の態度としては、新興宗教にも古典宗教にも、関心を示さず、葬式宗教にとどめ、天皇制に関しては、憲法で規定している程度しか考えず、薄い関心しか示さず、強い否定もしないが、天皇制の周辺の人たちは現在でも結構有力な人たちもいるのだから、変な刺激はしたくないという、あいまいな無関心で通すことになるだろう。

たとえば昔は大学というアカデミックな場所で、人間の脳にとって、宗教は大事なものでしょうとか言うだけで、排除されたものだ。赤狩りのようなものだ。この事態をプレとトランスの錯誤と表現しても間違いではないと思う。トランスをプレとみなす錯誤である。脳を論じるなら細胞生物学でもやるのがよいのであって、それ以外の考察は黙殺されるのだ。

みんな要するに仕事が欲しいわけで、宗教や共産主義や天皇などは鬼門であった。

一方で、プレをトランスとみなす錯誤は一般大衆の中にまだまだ多い。これは人間の脳の中に遺伝的に根強く埋め込まれているとしか言いようがない。文化人類学で近代が相対化されて、西欧の考えばかり正しいわけじゃないし、未開民族の中にも、東洋の中にも、(おいおい、ここで並列なのかよ、まあ、いいけど)、西洋と同じだけの価値のある文化があり、とか何とか言って、プレもトランスもごちゃまぜである。確かに西欧主義をいったん相対化することは当然必要だ。それは一理ある。しかしだからといって、プレもトランスも同じといわれるのも納得できないではないか。

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ここまで言葉を費やしてきたものの、実は、トランスの内容については、個人の体験でしかないので、何とも確定的なことは言えない。各人によって微妙に違うかもしれないし、全然違うかもしれない。また、何をもって微妙というのか、何をもって全然というのか、そんなことも分からない。それなら賢い人は沈黙するだろう。

「ゴスロリは私にとっては恥ずかしいことで罪深いことで絶対に他人には知られてはいけないことで、だから絶対に秘密なんです」とゴスロリの神髄を語っていた人がいた。そうだろうと思う。神秘体験に関しても同様で、だからこそ神秘体験なのである。

原理的に言えば、自分の体験が何に属するのかは、誰にも決められないことだ。また決める必要もないことだ。

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そんなこんなで懐かしい「プレとトランスの錯誤」が「プレとポストの錯誤」という言葉で紹介されていたので書いてみた。

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