エポケーと現象学的還元について。
フッサールの現象学における「エポケー」と「現象学的還元」は、彼の哲学的方法論の中核をなす概念です。エポケーは、日常的に私たちが持っている先入観や偏見を一時的に停止させることを意味し、これによって物事の本質的な特徴や構造を純粋な形で観察することが可能になります。一方、現象学的還元は、エポケーを行った後に、私たちの意識の中で事物がどのように構成されているかを探求するプロセスを指します。
エポケーは、ギリシャ語の「ἐποχή」に由来し、判断を停止するという意味があります。フッサールはこの概念を現象学の方法論として応用し、「現象学的エポケー」とも呼びました。これは、私たちが普段無意識のうちに信じている見方を一旦停止し、事物をより客観的に観察するための手法です。
現象学的還元は、エポケーによって得られた純粋な意識の状態から、事物の意味や存在の仕方を分析するための方法です。フッサールによれば、現象学的還元は「自然的態度の一般定立の徹底的変更」と定義され、これによって私たちは物の実在に対する確信を一時的に停止し、事物がどのように私たちの意識に現れるかを探求します。
これらのプロセスは、フッサールの主著『イデーン』などで詳細に説明されており、彼の現象学が後の多くの哲学者に与えた影響は計り知れません。エポケーと現象学的還元は、私たちが世界をどのように経験し、理解するかについて深い洞察を提供し、現代思想における重要な基盤となっています。フッサールの現象学に関するさらなる情報は、関連する文献やオンラインリソースで得ることができます。
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異論
エポケーですが、まず、「先入観や偏見」を一時的に停止させるわけですね、そこまではいいんです。そのあとで、「物事の本質的な特徴や構造を純粋な形で観察する」というのですが、そこで、不可避的に、別の「先入観や偏見」が入り込むと考えられるのです。
たとえば、天動説で考えると、観察事実を天動説で説明するためには、どんどん複雑で分かりにくい理論になってしまうわけです。これまでの理論と矛盾する新観測も得られるのですが、それでも、何とか修正して、まったく美しくない理論になってしまう。そこで、一旦、「天動説という偏見と先入観」を停止します。そして、「物事の本質的な特徴や構造を純粋な形で観察した」結果、地動説に至るというわけです。
この場合は、天動説という間違いから、地動説という正解に至る構図ですからいいのですが、パラダイムシフトの考えから言えば、多くの場合は、一つの偏見から、別の偏見を選択しているに過ぎないのではないかということです。
自然科学の営みは、ある程度、「積み重ねることによって、上に向かっている」というイメージがありますし、実際そうだと思うのですが、パラダイムシフトの指摘は、時を経過するにしたがって、真実に接近するという構図は正しくない、一つの偏見から、別の偏見に移行しているだけだというわけです。
自然科学以外の世界、哲学の内部での流行とか、文学の内部での流行とかは、まさに、一つの偏見から別の偏見に移行しているだけではないでしょうか。
そこで、現象学的エポケーと現象学的還元を考えてみると、現象学的エポケーまでは理念としてはよいと思います。精神病を魔女の仕業とか、DSM診断とかで切り取ることは偏見です。だからエポケーです。それは大事。そこまではいい、しかし、それでは人間には何も見えないのではないでしょうか。
偏見や先入観は、別の言い方をすれば、世界解釈の枠組みですから、それがなければ、世界を解釈することはできないわけです。偏見といわれて、価値減殺されないような、確実な世界解釈の枠組みを、世界の知性は求めてきましたが、そのような絶対的な枠組みを提案することはできないわけです。
色眼鏡を外せば、視力はゼロです。視力が欲しかったら、色眼鏡をかけなければならない。透明なメガネがいいと思われるが、どれが透明なメガネであるかは、現在を生きている我々には判断が難しい、フッサールはそれができると言いたいらしいが、そんなことを主張していること自体が、色眼鏡をかけている証拠である。
したがって、現象学的エポケーまでは可能であるとして、つまり、何も判断しない存在になるとして、それで満足するわけがありません。どうしても、現象学的還元を実現したいのですが、そのためにはどうしても、世界解釈の枠組みが必要になる。それは偏見と先入観である。見るためにはまたしても別の偏見を持たざるを得ないという仕組みになっていると考えられます。
見ることを停止したままでいれば、偏見と先入観からは離れていられます。しかし判断停止したままでどうしろというのでしょうか。仙人のように空中に漂い、かすみを食べているのでしょうか。
自分が何色の色眼鏡をかけているかは、当人には分からない。それは原理的にそうならざるを得ない。だから、現象学的還元を主張して実行するには、理屈を超えた超越的還元にならざるを得ない。超越的といえば何か物々ししいが、要するに、理由は分からないが、直感的に正解が分かってしまうということだ。
たとえば、複数の人が、異なる超越的還元による答えに至ったとして、その正誤についてどう判定できるだろうか。それが体験に根差すものであれば、体験の延長として実験を計画することができる。しかし超越は実験を拒むだろう。したがって、正誤の判定はできない。判断は停止したままになる。
そう考えると、ある意味では、ローレンツが回答した、進化論的プロセスで、正解なのかもしれない。しかしそれは絶対的な正しさという意味ではなく、当面役に立つという、プラグマティックなものである。ある特定の色眼鏡であっても、それが自然界を解釈するにあたり、最適の色眼鏡であれば、そのままでいいではないかという考えである。真実という保証はないが、役に立つんだから、とりあえずそれでいい。
以上のような行き止まりを何とかするとすれば、それが脳科学だろう。人間の脳はどのような偏見や先入観にとらわれやすいのか、脳の特性として知ること。それは、強いタイプの最終解決にはならないが、弱いタイプの暫定的解決にはなると思う。
この世界はどのようにできていてどのような法則が支配しているのだろうかと考える。そこから普通の意味でいう自然科学が発展する。しかしその一方で、物事がそのように見えて、測定すると何かの数字が得られるというのは、人間の脳が、そのようにできているからだ。脳の構造が異なれば、世界は別の見え方をするし、別の法則で記述できるのかもしれない。
人間は光の三原色と濃淡で世界を見ているが、ミドリガメは色覚細胞が4種類あって、それに応じて世界を認識しているらしい。それがどんなものか。人間の見ている世界とどう違うのについて、興味はあるが、よく知らない。同様に、時間把握や空間把握について、人間の把握と違う方法もあるのだろう。
仮に、話を簡単にするとして、客観的実在xがあるとする。それを人間が観察してyという結果を得たとする。その場合、xの属性のうち、人間の感覚器と脳が観察できるものだけを抽出してyという結果が得られている。人間には感覚できない何かの属性もあるのだろうし、xはyですべてだとは、とても言えない。yはxの一部分でしかない。xという全体があるのだが、その一側面を、yとして抽出しているに過ぎない。そして原理的に、人間はそれですべてだと思っているし、通常観察されるy以外の要素、zが私にはわかると言い張る人に対しては、トランスパーソナル的に、トランスした存在ととらえるか、伝統的精神医学的にプレの存在ととらえるかになってしまう。
大国の軍事施設では超能力実験も行われていて、そこではyを超えるzについて研究されているとする考えねあるが、現状で不安定で弱い結果しか生み出せていない。戦争するなら超能力よりもドローンの方が役に立つ。
話を元に戻すと、人間が見ているのはyである。xには行きつけない。どうせ分からないものなら、無視してもよいのではないかと考える人もいて、素朴実在論の中には、yがつまりはxなのだとする人もいるように思われる。そのような人たちは議論すると弱い。根拠が弱いから。しかし現実にはさしあたりy=xとみなすほかはないし、それで必要十分である。
xを実在と呼ぶのに対して、yを現象と呼ぶ。
自然科学は、素朴実在論的に、xのふるまいを客観的に考える。
しかし原理的に、人間はyしか分からないし、yには含まれないxの何かの要素があるとして、それを仮定しても、人間の知覚や脳処理では感覚できないものなのだから、あくまで仮想的なものでしかない。ミドリガメには見えているかもしれないと思うだけである。
また脱線するが、光が4原色から成立するとして、pcなとでそれを再見することはできる。しかし問題は、最終的な結果を見る人間の目は3原色であって、そこの制限はなかなか超えられないのである。例えば、眼球を通さず、皮膚の一部に信号を送り、そこから大脳の感覚野にもっていって、何かの処理をするとすれば、それが光の4原色による世界観察になるのかもしれない。あるいは、最終的に、脳の現在の視覚処理領域は3原色に対応するようにできてしまっているので、脳のどこか別の部分に、新しい視覚野を構成するか、あるいは、生まれたと同時に、4原色方式の信号を送り続け、視覚野の処理方式を変化させてしまうのがよいかもしれない。そのような人体実験は受け入れられないので実行されることもないだろう。