ジークムント・フロイトは絶好のタイミングで登場して中欧の思想家たちの一世代全体に影響を与えました。アーサー・ケストナーからマネス・シュぺルバーにいたるまで、若者時代のマルクス主義への傾倒から抜け出すための論理的な足がかりとは、心理学でした。それぞれの好みに従ってフロイト派、アドラー派、ユング派などありましたが。マルクス主義そのものとおなじように―マルクス主義についても後で論じますが―、ウィーンの心理学は世界を脱神話化し、普遍的なひな型にあてはめて行動や決断を解釈する、包括的な物語を見つける方法を提供してくれました。そしてまたおそらく、世界をいかにして変えるか(といっても一度に人間一人ずつしか変えられませんが)についての、比較的に野心的な理論も、提示したのでしょう。
結局、心理学というものは、この点ではマルクス主義とユダヤ・キリスト教の伝統と明確に類似しているわけですが、自己欺瞞、必然的な受苦、没落、そしてその後につづいてやってくる自己意識、自己に対する知、克己と究極的な回復へといたる物語を提示してくれるものだったのです。わたしは世紀転換期あたりに生まれた中欧人たちの回顧録を読んで、同時代に分析や「説明」、あの新たな学問分野のさまざまな概念(神経症、抑圧など)が大流行したことについて、いかに多くの人たちが(とりわけユダヤ人が)コメントしているかに驚いています。この、表面的な説明の深層を掘り下げることへの、神秘の扉をこじあけることへの、それが説明している対象によって否定されるがゆえになおさら真実に迫るような物語を見つけることへの魅了―たしかにこれは、マルクス主義の手続きに不気味にもよく似ています。
もうひとつの類似性があります。フロイト主義からは、マルクス主義からとおなじように、三部構成の楽観的な物語を抽出することができます。私有財産がわたしたちの本性を破壊してしまった世界にわたしたちは生まれた、という代わりに、精神分析では、わたしたちはなんらかの原罪が犯され(もしくは犯されず)、父が殺害され(または殺害されず)、母は姦淫された(またはされなかった)世界へと生まれた、ということになります。しかしわたしたちは、そういったことについて罪の意識を抱くような世界に生まれてきているのであり、わたしたちは本来わたしたちが手にするはずだった本性を―それはおそらく純粋に理論的なものですが―奪われているということになります。わたしたちは、家族の構造を理解し、セラピーを受ければ、そのような「自然の=本来の」状態に還ることができる、と。しかしマルクスに言えることが、フロイトにもあてはまります。つまり、実際にそのようなユートピアに到達できるとして、それがどのようなものなのかがちょっとはっきりしないのです。
マルクス主義の物語と同様に、フロイトの物語においては、過程が正しいものでありさえすればまちがいなくよい結果が得られるのだ、という信念をゆるぎなくもつことが、決定的に重要視されます。言いかえると、もし初期の傷や葛藤を正しく理解し、それを克服すれば、必然的に約束の地に到達できるということです。そして、この成功の保証それ自体が、そこに到達するための努力を正当化するに十分なものなのです。マルクス自身の言葉で言えば、未来という料理をつくるための手引き書に載せるレシピを書くことは彼の本分ではなく、彼はただ、わたしたちが今日の原材料を正しく利用しさえすれば、未来の料理手引き書は生まれるだろうと約束しただけなのです。
みすず書房、トニー・ジャット、河野真太郎訳『20世紀を考える』P59-61
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フロイトはドストエフスキーにその「父親殺し」の理論を適用し、論文を発表している。その影響は大きく、現在でも読まれ、引用されている。
しかし現在、研究が進み、ドストエフスキーにおける「父親殺し」理論の適用は誤りであることが証明されている。なぜ誤っていると証明されているのにこの説が未だに力を持ち続けているのか。
それは「フロイトが語る物語の魅力」にある。
その物語が本当に正しいか正しくないかは問題ではなく、人を惹きつける面白い物語であるかどうかがフロイト理論が影響を持つ大きなポイントである。
だからこそフロイト理論はなくならない。今なお様々な形で語られる。
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