ある記事を読むと、
ある評論家が「インターネットの生配信や動画によって、投稿者がユーザーを巻き込む形で快感を得ている」といった趣旨の発言をし、配信者が犯罪やイジメを助長していると主張。インターネットのsnsや動画投稿を擁護する立場の人が「それってあなたの感想ですよね」とあきれてみせた。
というようなことが書いてある。
確かに、ネットが犯罪やいじめを助長しているとの主張には、エビデンスがないと批判することができるのだろう。エビデンスが弱い限りは無罪だと主張するのだろう。
典型的な逃げの論法。門前払い。説得するのではなく、へこませて、この人には共感を期待しても無駄なのだと失望させる。
しかしどうだろうか。
その場面では多分、問題がありそうだすね、なにか解決の糸口はありませんか、ヒントはないですか、という発言だったのだろう。それに対して、証拠がないなら推定無罪だというようなもので、議論を拒否している。
多分、匿名ネットを廃止して、発信者の責任を明確に問えるような仕組みを作ろうというように議論の道筋を描いていたと思う。発言するたびに、マイナンバーカードと顔認証で発信者を確認しつつ出なければネット熊う間に書き込みができない仕組みにすれば、解決しそうである。なりすましを防止する必要があるが、なりすましをされた方も「うっかり」では済まない、犯罪の一種ですよと認知する一般世論を形成すればいいのだろう。
「あの人たちは頭が悪い。だから、疑似餌に食いついてしまう。分からないからしょうがない。」というような話にして、人気を集める。しかしそうした言動自体が疑似餌であって、結局大衆はそのような疑似餌に食いついている。
疑似餌に食いつくのは頭が悪いという疑似餌を使って、簡単に大衆を釣る。そういう商売がいつまで続くものかと思う。
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それはそうとして、観想や直感というものは、間違うこともあるが、証拠集めを飛び越して、健全な判断をすることもある。だから感想や直感は大切なのだ。
裁判ならば、裁判官は感想や直感で判断してはいけないだろう。しかし人間同士が話すとき、論理操作だけではなく、それぞれの立場での直感を聞きたいと、私なら思う。それが人間の脳の高次機能だからだ。
単なる感想という場合、論理よりも劣るレベルの話だとの感覚があるのだろう。確かに、支配者アメリカ軍産複合体に操作されているマスコミ、そのマスコミに操作されている大衆、そのような構図で見れば、単なる感想は、大衆操作の結果としての、論理よりも低次元のものということになるのだろう。
しかし人間の脳は、論理よりも早く精密に、真実を言い当てる場合があるのであって、それを尊重しない人はかなり損をしていると思われる。
理屈は分からないが何となく絶対そう思う、という直感の価値を信じない人生はつまらないだろう、たぶん。
アインシュタインは論理と数学で結論にたどり着いたのではなく、まず直感があって、それを証明するために数学が使えたというのが実態であると言われている。その直感はアインシュタインの晩年には間違っていたらしく、神様はやはりサイコロを振るらしいと最近では言われている。しかし本当にそうかなと私は思う。アインシュタインの直観なら、尊重してもいいと思う。そのような直観が、アインシュタインの脳の最高次機能であると思う。
古代の呪術的思考→啓蒙主義・理性主義・近代→その後どうなるか
という流れで考えると、理性で解決できない部分はすべて古代の思考であるとするのが近代であったが、
そうではなく、古代の思想の中にも、理性よりも劣る部分と、理性に優る部分とがあることを区別して考えようというのが最近の傾向だろうと思う。
証拠主義とか実験的自然科学主義とかは、確かに有効だし、尊重されるべきだ。しかし、それを超越する脳機能があるのではないかとする考えもあるのであって、軽率に判断しないほうがいい。
理性以外の部分で、あなたの感覚や直感はどういっていますか、と聞きたいでしょう。
相手がアインシュタインなら当然そうですが、そうでなくても、それぞれの人によって、いい直感があるかもしれない。