量子力学と脳

量子力学の初めのころの話として、二重スリット実験が有名だ
いまでも様々に紹介されるし、
今でも疑問があると言い続ける人もいる
私も疑問を抱く一人だ

二重スリットの穴の近くに測定器を置いて、光子がどちらの穴を通ったか、測定すると、
干渉跡が消えて、光子は粒子的な働きをすると、粗雑な言い方をされることもある

しかし、細かく言うと、測定器が測定するときに、光子にどのような影響を与えるのか、何も影響を与えることなく記録可能なのか?
それは通常不可能だといわれるが、工夫するとできるのかもしれない、そうだとして、波動的振る舞いから粒子的振る舞いに変化するのは、観測者が測定器を見た時か、あるいは測定器を確認することなく結果を確認しても起こるのか、あるいは結果を確認しないで1万年後くらいに観察した時はどうなるのか、あるいはまったく何も観察しないときはどうなるのか(例の猫)、など細かい検討が必要だなどとも言われる

その延長として、人間つまり物理学者が観察するのと、理解のない子供が観察するのと、犬や猫が観察するのと、違いがあるかとか、盲目の人が映像を音に変換したりして観察するとどうかとか、ミジンコが水溶液のphを感じることを利用して、ミジンコが観察したらどうなるのかとか、測定器問題とか観測問題は微妙な問題がある

もともとが予想を超えた事柄だ。不思議はたくさんある。感覚的に納得できない部分が大きい。

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もともと、脳は、狩りをしたり、自分の命を守ったり、集団内でうまくやっていけるように、また子孫をうまく残せるように、などの用途に役立つように進化してきた。その中で物質を観察することができるようになったし、数学を生み出して、数学はその法則性をどんどん延長して、人間が感覚できない領域にまで拡張していった。

その結果として、たとえば多次元空間での円(r^2=1)を考えることができて、二次元なら円で、三次元なら球で、四次元以上に拡張することができる。ところが人間は四次元の球を感覚することが難しい。四次元の球を三次元に投影したものが球であるとか、四次元の球を立体で切ったときの切り口が球であるとか、言葉では言えるし、数式でも表現できるが、感覚するのは難しい。

これと同じように、光子なら光子の本当の姿には人間は到達できない。人間の感覚器でとらえられる部分は知ることができるが、それ以外の様子については知ることができない。たとえば電磁波についても、目が知覚することができるのは限られた波長であって、可視光以外の部分は目では見えず、測定できるだけ、あるいは数学の計算によって、算出されるだけ。しかしその数学による延長・拡大の効果は画期的大成功で、観測を工夫してやっと各側できた数値は、計算通りのものなのだから、信じるしかない。

しかしそのことも、世界の本質に触れているのかとか、そんな話になると、何とも言えない。人間はたまたま六感で世界を認識し、それを数学的に表現して、拡張外延して、様々な可能性を考えたところ、実際の実験結果とうまく一致したりして、成功してきた。だから数学とその操作を信じている。

シュレディンガー方程式はエネルギー成分など、個別の性質を総合的に表現したもので、人間が知覚・測定できる範囲で、エネルギーとか運動量とかを算出できているが、それは物質の存在のきわめて一部の性質であり、しかも、人間が観察するという「作用」を及ぼした時の「反作用」みたいなものが観測値として出現するだけで、半分は観察者の性質であるとも言えそうだ。

シュレディンガー方程式の絶対値の二乗が存在確率だというが、二乗するときに当然のように普通の方程式を扱うような仕方で演算しているのだが、そんなことをしてよい根拠がどこにあるのだろうか。量子を扱うときには別の数学を使う必要があるかもしれないとは考えないのだろうか。例えば、重ね合わせが起きた時に(a+b)^2=a^2+b^2+2abと展開して、aの存在確率と、bの存在確率の独立部分は確保され、しかも、2abの部分で、可能性同士が関係しあって、つまり干渉しあって、これが波の性質を現しているなんて、なんて粗雑な話なんだろうとも思うが、全体としては、そのように話を進めて構わないと歴史的に検証されているのだから、それでいいのだろう。ますます不思議な、数学の威力である。

所詮は人間の脳が作り出したものだと言えるのだが、それはあくまで物質世界の本質部分をとらえているということだろうか。

本質部分というと言いすぎかもしれない。
末端のつまらない性質なのかもしれないが、しかし、人間が観察して検証できるのはそのあたりしかないので、そこから始めることになるが、それにしても、不思議なことだ。

波動性と粒子性の話に戻ると、物質はそのようふるまいをするというよりも、人間の観察の仕方でやれば、そのような二重性を観察できると言った方が正しい。客観的な性質というよりは、人間と物質のかかわりの中では、そのような性質が観測されるということで、物質の性質というよりは、半分は脳の特性といった方がいい。

だから、人間の脳はなぜ量子力学的な働きをしているのかと問うのが、量子力学問題の半分を占めているように思う。

そのうえで、よく言われるのが、そのように物質系を観測して試行しているのは脳であって、それ自体、他者の脳に観察される対象である物質である、そこに問題はないのか、ということだ。

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このあたりもうまく表現できないな。

こんなことを言いたいのではなかったと思うのだが。余計なことばかり書いている。

もっと短くいった方がいい。

他人に説明しなくていいから、自分で後で読んだときに思い出せるようなものでいい。

それにはきっかけと、結論、そしてその間をつなぐ飛び石の配置。それだけを書いておけばいい。

蝙蝠が超音波を発射してその反射波を知覚して、対象物の運動を知覚している。そのようなイメージ。

んー、また違うことを書いている。

もともとの発想はそうではなかった。

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中学一年生の一部の人は自然に、a(b+c)=ab+ac と考えるが、一部の人は、a(b+c)=ab+c と考えるようで、aは一回使ったから終わりだとかいう。このあたりは向き不向きということなのだろうけれども、今から思うと、そのような数学があってもよいのだろう。数学も一つではない。

こういうことがうまくできる人が社会の中で人間らしく生きられると決まってはいないのだから、このことを重く見るわけではない。

ただ、人間の脳の進化の方向としては、そちらの方向だろうと思う。

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最近の説明で、二重スリットもシュレディンガーの猫も、「量子もつれ」で説明しているものがあった。いや、違うだろうと思いつつ、眺めていた。

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