能力主義社会の呪縛

共同通信社の配信で、能力主義社会の呪縛のシリーズがある。
その中の一つを切り抜き、再構成して紹介。
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職場にはさまざまな人がおり、その「能力」も千差万別だ。しかし経営者も労働者も「能力が高い人がよりよい処遇を受けるのは当然」と考えてしまうのはなぜだろう。

「各人は能力に応じて働き」というのはカール·マルクスが用いた言葉だが、その先には続きがある。「各人は必要に応じて受け取る」。だが、これを「能力に応じて受け取る」と誤って記憶している人は少なくない。

そもそも市場価値はその人の「能力」を的確に反映しているのだろうか。報酬や社会的地位が高くても中身のない「ブルシット·ジョブ」があふれる一方で、いかなる状況下でも社会生活を支える「エッセンシャルワーク」への処遇が相対的に悪いとすれば、資本主義と「能力」との関係はどのように整理すればよいのか。

2014年と16年、経済協力開発機構(OECD)の作業部会に参加する機会があった。OECDの基本的な考え方は「人は努力すれば教育で上昇できる」というものだ。教育に求められるのは雇用者のニーズに合った「能力」を提供できているかどうかであり、個人のスキルアップ、つまり「さらなる教育によって乗り越えさせる」というスタンスが明確だった。

しかし、個人にばかり目を向け、なぜ劣化した雇用状況については問わないのか。社会を改善しようとする発想が希薄で、強い違和感を覚えた。ちまたには、個々の「能力」次第で何でも乗り越えられるかのような幻想が広がっている。

時代のデフォルト(初期設定)は「個人で生き延びろ」なのだろう。そうした個人化された社会は「生産性の高さこそ能力」と位置づける資本主義と非常に相性がいい。

20世紀のフランスを代表する思想家ミシェル·フーコーは「規律権力」という概念を用いた。他者から「監視されているかもしれない」との感覚をつくり出すことで、自分で自分を「資本主義社会に都合のいいように」統治するよう仕向ける力を指す。

※規律権力 :フランスの思想家ミシェル·フーコーは著書「監獄の誕生」で、中世から近代にかけての刑罰の変容を分析。直接的な身体刑ではなく、「見られている」という感覚を人々に与え続けることで、監獄が支配に従順な主体を作り出す装置となっている点に着目。これによって囚人は自発的に従順な模範囚になる。「規律」を身に付けさせる訓練によって、監視者が不在でも模範囚を作り上げるこの方法は、軍隊や学校、工場などでも応用される。規律訓練は監獄に限らず、権力者が人々を効率的に統治する手段ともなっている。

人は学校や職場などあらゆる場所で管理され、自らを規律正しく従順な存在へとつくり上げてしまう。「きちんとしなさい」「できる子がいい子だ」という価値観を擦り込まれると、他者の目がなくてもそのように自分を律するようになる。今の世の中には「能力」を身に付け、効率的にお金を稼げる人間に価値があるという“倫理観”がまん延している。実はその「規律」こそが資本主義を強く支えている。

経営者が労働者を管理するのは当たり前だと思っている人は多いだろうから、経営側の論理に進んで従う。労働者の方から進んで従っている側面に、多くの人は気付いていない。

それはある種の自発的隷従なのだが、人は既存のシステムを疑うことなく、自発的に業績や結果に縛られるようになる。
その意味で、日本は世界で最も規律権力が機能している国かもしれない。経営者1人が何十億もの報酬をもらい、労働者が年収約300万円で働かされているとしたら、それは経営者の能力が高いからだろうか。多くの人は自分の「能力」が報酬や価値を決めていると自らを納得させるが、それはあくまで市場価値というフィルターを通した「能力」に過ぎない。日産や武田薬品。

利潤追求を目的とした経済活動は、社会を維持するために必要な育児や家事、介護といった無償のケア労働の存在があって初めて成り立っている。しかし、資本主義はそうした社会的再生産にまつわる労働を、さしたる能力を必要としない価値の低いものとして扱う。新型コロナウイルス禍であれほど感謝されたエッセンシャルワーカーの給与は、依然として低いままだ。

米国の政治学者、ナンシー·フレイザーらは共著「99%のためのフェミニズム宣言」にこう記している。「ガラスの天井(女性の社会進出を阻む壁の例え)を打ち破ろうとすることに興味はない。役員室を占拠する女性CEO(最高経営責任者)たちを称賛することはおろか、私たちはCE0と役員室自体を撤廃したいのだ」

もちろん、男性中心の世の中は改めなければならない。しかし、私たちは「能力」が高いとされるごく少数の女性たちが、出世階段を上る社会の実現を目指しているのだろうか。そうした男女の平等観は、市場中心の価値観がもたらしたものだ。一部の女性は「能力」を発揮し、男性と同じような地位に就くかもしれないが、それでは多くの女性も、人間全体も解放されることはない。

能力主義とは、分かりやすく言い換えれば「自己責任に基づく私有財産の獲得競争」だ。効率的に仕事をこなせる人間には価値があり、そうでない者は排除される。

このような社会は息苦しくてとても我慢できないと思った時、人々は「能力」による解放や逆転の可能性にしがみつく。しかしそのとき、能力主義神話はより強固に機能する。個人化された希望はあまりに微弱であり、分厚い鉄板のような絶望がすべてを覆っている。

本来、人は生きているだけでたいしたものではないか。自身に対する規律的なまなさしを緩められるよう、私たちの価値観をアップデートしたい。

しかしアップデートしようにも、どうしようもない。価値観は学校教育と自己教育によって形成される。学校教育は壊滅している。自己教育は、読書の習慣がなくなり、本屋は消滅し、著作家も消滅し、市民は動画サイトで時間をつぶす日々を送っている。小学校でプログラミング教育や英語教育が始まっている。道徳で愛国心が教えられている。曽野綾子はいまだに道徳の教材なのだろうか。

2024-10月、日本では衆議院選挙がプログラムされている。与党自民党の拙速ぶりが、マスコミの大翼賛姿勢にも関わらず顕著になっている。企業からの献金、何種類かの宗教団体との癒着。
政治家という仕事を興味があっても、こうした選挙で選ばれることに何の価値があるかと考えるだろう。反則し放題の悪役プロレスラーに、反則なしで勝たなければならないとしたら、それは無理だろう。反則は年ごとにエスカレートしている。安倍時代に与党は連勝したが、その連勝には秘密があった。
また、こんな選挙でどう選べばいいのか、絶望ばかりだと感じる有権者が多いだろう。
一方、アメリカでは大統領選挙が近づている。新大統領が決まるまでの間。イスラエルは攻撃をやめないだろうとの見方が出ている。

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