対象関係論から、私の考えている、精神内界の世界内モデルの形成とその病理について考察。
内在化(Internalization)により対象(Object)が形成される。
たとえば母親とか父親、兄、妹などが、様々な経験や空想により、内在化して、対象となる。
対象はのちに、現実に出会う様々な人物や出来事に際して、参照されて、ときに投影(Projection)が起こり、外部の存在をありのままに見るのではなく、自分の内的対象の性質を外部存在にもあるものともなしてしまう。見えてしまうのだから、仕方がないけれども、現実を生きる上では困ったことになることもある。
ここまではとても分かる。
対象関係論でよく問題になるのは分裂(Splitting)である。外部の対象について、完全に良いか完全に悪いかの二分法で認識すること。
母親の例で言えば、普通、母親は、良い面もあり、悪い面もあるものであって、内的Objectとしても、多面的な側面を持つ。しかしなぜか、内的対象が完全によいものとなったり、完全に悪いものとなったりして、それに応じて、外部の対象をも、完全によいとか、完全に悪いとか、評価するようになる。それに応じて外的存在に対しての本人の言動も変化するので、評価の激変に驚くことになる。理由も分からずに振り回されることになる。
観察事項としてはよく分かる。そのようなことはしばしば起こる。
非常にほめて尊敬して、あるいはかわいがって、all goodであったものが、突然all badに変化する。非難して貶めるようになる。
そのような逆転は周囲にとっては迷惑なことで、簡単に逃げられるならそのほうがよい。しかし人間の社会ではそのように簡単に離れることができない場合もある。夫婦と親子とか会社の同僚など。その場合には性格障害として対処することが多い。
それに対しての治療法は工夫はされていて、提案もあるが、確実な方法はない。
Splittingの原因は何かについての説も、明確な説明はないと思う。いろいろな説はある。
簡単に説明するなら、精神状態が悪化すると、内的対象を見る際に視野狭窄におちいり、良い面しか見えなくなる、あるいは悪い面しか見えくなる。精神状態がよければ、内的対象に対して、良い面も悪い面もあると把握できるのだが、悪化すると部分しか見えなくなり、部分を全体と見てしまう。そのことから、外部存在について、投影Projectionをして、all good とか all bad と評価してしまう。
そうなんだろうと思うけれども、それは、精神状態の悪化と内的対象についての視野狭窄が、ほぼ同意義となるだけで、あまり説明になっていない。これが、背景にシゾフレニーとかバイポーラーがあるというなら、そのことからくる精神状態の悪化があり、結果として視野狭窄が起こり、と説明はできそうだ。しかし性格障害だけがある場合に、うまく説明はできない。
境界型と昔から言われてきたものについて、何と何の境界なのかとの議論がある。境界型では、状態がよいときは正常域、あるいは神経症域にあり、悪化すると精神病水準になると説明されることがある。その区別は、どのような防衛機制を使っているかによる。現実把握がうまくできないような防衛機制を使っていれば、精神病水準である。現実把握は保たれているなら、神経症水準である。
この説明では、精神病水準となったとき、現実把握が不良となり、視野狭窄が起こり、内的対象の部分だけを見て、外部に投影する、といった説明になり、私はその説明が観察によく合っていると思う。
そのように考えると、
(1)内的世界が歪んでいるでいる場合
(2)内的世界に歪みはないが、視野狭窄が起こり、全体を見ることができない場合
の二つが考えられる。
治療としては、(1)内的世界のゆがみを訂正する、と、(2)視野狭窄を訂正するの二つが考えられる。
結論としては、どちらも難しい。
内的世界が歪んでいる場合であるが、よく考えてみると、簡単に判断はできない。客観的基準がありそうだけれども、あくまで相対的なものでしかない。
その人が生きてきた歴史の全体から考えれば、また知能や性格や環境を総合すると、その人なりに、そのような世界構成になるしかないと判断すべきなのかもしれない。だから、それを否定するものではない。しかし、そのような内的世界が、現在のその人の環境や人生を生きるにあたって、生きにくいものであるかもしれない。
だから、良い悪いではなく、少し訂正したほうが、生きやすいのではないかという程度の提案である。どちらが実用でですか。どちらが役に立ちますかという提案である。プラグマティズムである。
世界が間違っている。こんな成果に対しては、私は入場券を返したいとの気持ちも、そうだろうと思う。
しかしそれでも、一考の余地はあるだろうと思う。