神が存在しないなら、何をしても自由で、許される、
という、ドストエフスキーの「罪と罰」的な問題があるが、
その議論は、紙が存在するかどうかで、結論が違ってしまい、
さらに、神が存在するかどうかはまだ最終的な結論が得られていないのだから、
人間の本質的な自由とか、罪の許しの問題も、先送りとなり、
では今どのように生きたらいいのかの問題も解決できなくなってしまう。
もう一つの考え方があって、パスカルなどが有名であるが、
神が存在することが前提で、生き方を考えるのではなく、
良い生き方をするためには、神の存在を前提としたほうがよい、
という発想をするのである。
この場合の「良い生き方」とは何かと、食いつくことも可能であろうが、
各人にとって「良い生き方」があるだろうから、それはそれでよいと思う。
客観的な真実としての、「良い生き方」があるとかどうかは、今は問題にしない。
各人にとっての「良い生き方」はあるだろうと思われる。
好みでよいし嗜好の問題と言ってよい。
他人に強要するものでもないし、他人を否定するものでもない。
良い生き方をするには、神の存在を前提にしたほうがよいと私は思う。
理不尽なことがあっても、神が最後の審判の時にすべてを明るみに出して、解決してくれると信じれば、
それだけで、私たちは、怨恨から解放される。他人の罪を追究することから解放される。
そうすれば、どれだけより良い人生を生きることができるだろうか。
今現在、あなたが人生の問題で、岐路に立っているとする。
その時、内心で、神と対話することができる。
神は不可知ではあるが、その人の思考の範囲内で、至高のものである。
アイディアを吟味するには、神ほど良い相手はいない。
自分と対面するときも、他者と対面するときも、それ以外で何か考えるときも、
神はすべてを見ていて、最終的にはすべてに対してふさわしい仕方で報いてくれると考えれば、
良い生き方につながるだろう。
良い生き方をしたほうがよいことは自明である。
そのように生きたほうが価値があると各人が信じる目ような生き方を良い生き方と定義しているからである。
良い生き方をするには、神がすべてを見ていて、最後は神がすべてを決算してくれると考えれば、生きる方針はとても簡単で確実になる。
したがって、神の存在を前提として考えたほうが利得が大きい。
だから神は存在すると一応考えたほうがよい。
得をするから、神の存在を前提とする。
それはそれで筋が通っているし、他人に迷惑をかけないし、何より、
良い生き方をする確実な方法なので、採用したほうがよいだろうと思われる。
神という日本語は重層的な意味があって困るのだが、
私の場合は、キリスト教的な神を意味している。
当然、ユダヤ教的な神と、イスラム教的な神、つまり、一神教の系統の神を意味している。
選民思想などいろいろあるが、気にしないでよい。
古代中国で言えば、「天」という概念がある。
至高のもので、全てを見ていて、全てを裁く。
天網恢恢疎にして漏らさず。
天命。
天声人語。
天職。
天道、是か非か。
などで、現在の日本語でも「天」の語感を知ることができる。
一神教のGodなど持ち出さなくても、これで十分だとも思う。