多くの人が今回、SNSを見て蒙を啓かれた思いをしたのだ。「YouTubeをみて真実を知った」というのが、典型的な彼らのコメントだ。これを見て、いわゆる「知識階級」の人たちは、「どうしてそんなフェイクに騙されるのか」と嘆いた。
低クオリティこそが、人々を引き込む。
例えば、ぼやけた写真のほうが人々の興味を引いて、個々人の判断の入り込む余地を与えるという。
感情を刺激する。
多くの「知識人」が「あんなものに騙されるなんて」と言ったが、「あんなもの」だからこそ、多くの人が真偽の最終判断を委ねられ、そこで自ら判断して、結果として信じていった。
低クオリティだから、信じるか信じないかは、見るものにゆだねられている。そこに、自分が能動的に判断したという体験が生まれるというのである。(なんとなくこじつけに近いと思うけれども)
内田樹などは、「なぜあんな人に騙されるかな、経歴を見ても、最近の発言を聞いても、とにかく、全体を判断すれば、大人になったら、それくらいは分かるでしょう」との趣旨を語る。しかし、そうではなかった。分からなかった。
それは仕組まれた能動性という仮説だが、それは仮説としては弱いと思う。自分で選んで自分で判断したと錯覚させるような仕組みの中で動いているだけだ。
一部では、「ニヒリスティックに、だってもう絶望しているんだから、社会がどうなろうと関係ないんですよ、この波に乗って、自分もpvを稼げばいいじゃないですか、アテンション・エコノミーなんですよ。」と言ったりして、その発言がまたpvを稼いだりする。
悪い道具である。
そこを知識人はリテラシーの問題という。しかし、その悪循環から抜け出すのは原理的に不可能ではないかと思う。
知識人は、あからさまに言えば、『あの人たちは頭が悪すぎる、どうしようもない、少しは賢くなれ』というだけだ。それではどうしようもない。
賢いとはどのような状態なのか経験したことがないし、今後も経験することはない。
一番わかりやすいたとえは、プロレスの興奮だろうと思う。トランプもT氏もプロレスラーみたいではないか。一方で、S氏はまったくそんな雰囲気はないのが好対照である。大群衆の興奮、SNSの大量繰り返し情報の興奮、いずれにしても興奮が人間の脳を支配している。
感情を刺激して、アドレナリンを放出させるのだろう。多くの人がアドレナリンに支配された。