少子高齢化と「脳原則」「遺伝子原則」

文明が発達して環境が変化すると、昔は「遺伝子原則」だったのに、「脳原則」に変化する。

先進諸国では少子高齢化している。アメリカでは高学歴白人女性が出産したがらなくて、白人人口が維持できず、ヒスパニックやアジア系の人口が増えている。

文明が未発達ならば遺伝子原則が優先される。多産である。文明が発達してくると脳原則が遺伝子原則よりも優先される時代が来る。人権尊重とか男女平等とかの思想が浸透し、脳原則が優勢となり少子化となる。だからどうしようもない面はある。

遺伝子は、個人の生命存続と発展よりも、種としての存続と発展を実現するようにプログラムされている。これは当然のことで、個人の存続よりも種の存続を優先する遺伝子のほうが、世代を経過するにつれて、個人成功をめざす遺伝子よりも優勢になるからである。一種のトートロジー(同義反復)であるが真実である。

遺伝子原則からくる幸福観と脳原則からくる幸福観がぶつかっている。

もちろん、脳原則と遺伝子原則が両方満たされて幸せになれるのが一番良い。男性の場合、個人的に成功すれば、子供を50人くらい残したという例はある。両方満たされている例かも知れない。

徳川将軍とか、ヨーロッパの王とか、中国歴代王朝の皇帝とか、たまに、子供をたくさん産ませることが人生の目的になっていた人もいる。これは政治的な理由も大きいが、遺伝子はそのように機能しているという面もあるだろう。

しかし現代の競争社会は、遺伝子原則を抑圧して、脳原則を優先したほうが、個人の存続と発展には有利である。出産時期を遅らせることなどで対応しているが、限界がある。

種の存続は、血統主義とか、封建時代や明治時代の家族主義とか、男尊女卑とか、そのようなものに容易につながるので、理性の働く人は遺伝子原則よりも脳原則を優先する傾向にある。

カトリックの教義としては、避妊はしないで、自然に妊娠した場合にはすべて産むという主義もあったと思うが、それは種の存続とともにカトリックの存続に有利な教義である。

メリトクラシー(meritocracy)とは、能力や業績によって社会的地位が分配される近代社会の原理を指す概念で、実力主義や能力主義社会と翻訳される。遺伝子ではなく脳が評価されるシステムである。このシステムを採用している限りは、脳原則を優先することになる。つまり、子どもは後回しで、自分の成功を優先することになる。

仕事で業績を上げる幸福と、子孫を育てる幸福のどちらを選ぶかと言われると、子供時代から勉強したり習い事をしたりした努力を捨てられないなら、仕事の業績、つまり個人の成功のほうを選ぶだろう。過去の努力を捨てても気にしないなら、子孫繁栄の幸福を選ぶかもしれない。

子育てと仕事の成功をとりだして天秤にかけるのは極端で、間違っているかもしれない。

たとえば、家を持つ幸福は、子孫繁栄と強く結合しているかもしれない。一人でまたは夫婦だけで生きるなら、賃貸で便利な生活をするほうがいいかもしれない。現状では、分譲マンションや一戸建てを35年の長期ローンを組んで手に入れることを推進する広告の内容として、子孫繁栄の幸福を強調しているものはあまりないように思う。駅に近い、通勤に便利、資産価値が維持できるなど、個人の成功につながる部分の広告が多いのではないか。

不登校、いじめ、スマホ依存、発達障害など、子育ても大変だなあと思う現実もあるだろう。遺伝子主義を採用すれば、幸福は不安定になる、つまり、家族が幸せでない可能性も少なくないのである。離婚も多いし、ひとり親も多い。それよりは、現在の仕事を優先して継続していたほうがリスクは小さい。現代では、子供は大きな希望でもあるが、一方で、大きな不安でもある。結婚もそのような面がある。入籍しないで同居する場合もある。リスクを小さくしたいからである。複数回の出産と育児で20年くらいを費やす人生が不幸になるリスクと、個人の幸福に時間を費やして報われずに不幸になるリスクを比較すると、現代では個人の幸福を優先するほうがリスクが小さい。

現代では結婚も子育てもリスクが大きすぎる。昔は個人の成功を願っても、男尊女卑とか出身階級とか、社会の仕組みとして、個人の成功を許さない部分があり、また極端に言えば、寿命は短かったし、伝染病もあるし、飢餓もあるし、戦乱もあるし、個人の成功どころではなかった。そのことで遺伝子原則が強く発揮された。

親が子供の教育に熱心になるのは、子孫繁栄のためではなく、子供が個人の成功を実現できるように行動しているからではないか。子供が成功すれば親としても勲章になる。これは脳原則を生きていることだ。遺伝子原則に発する子育ては習い事や塾で夜9時まで忙しい子供時代を過ごさせることではないだろう。子供と一緒の時間を生きることこそが幸福なのである。そしてこの子がまた家庭をもってその子供と生きることが幸福なのである。

現代の「子供が大事」という言葉の中にも脳原則が侵食している様子が観察される。

昔のように大家族環境で子育てをする場合は、親の機能不全があっても、まあまあ補完できた。現在はそれができない。それは親にとっても、子供にとっても、不幸である。保育園を増やして、男性の育児休暇も増やしてと努力しているが、子供の食事、病気、睡眠などは核家族の親がみるしかない。しかしまた、現代では夫婦になったのに親と同居することは困難が多い。

キブツのような共同体は子育ての環境としては適していると言われることがある。

結婚して子育てしていないと一人前ではない、肩身が狭い、親や親せきがうるさい、そうしたことが昔は多かった。
パートナーが嫌になったら浮気をしていればいいし、お金があったら第二夫人のような形で維持することもできた。そのようにしても離婚はしないことも多かった。社会が離婚を認めなかった。あるいは家と家の結婚だったのだから、個人的な都合で離婚することは許されなかった。女性の側としては、他の男性の子供を出産して、それを秘密にして子育てすることも多かっただろう。最近は遺伝関係を調べる技術も向上しているので、いろいろと問題になることもある。5人子供がいるとして、平均して1人は夫の子供ではないとか。

もともと乱婚だったのだろうから、それは起こりうることであって、むしろ、そのほうが遺伝子の多様性を実現できて、優秀な子孫を残すこともできたのだろう。たとえば、遠くから旅人のような男性がやってきて、その人の体力や知力が好ましいものであったら、女性は妊娠してしまうことができる。男性は旅人であったほうが都合がいいだろう。近所の人だとあとあと複雑であるが、そのような色々複雑なのが人間の人生である。源氏物語の悩みもそのようなものもある。

家が断絶しないように、親戚の子供を養子に迎える家も普通だった。これは遺伝子原則を尊重していることになる。

アメリカなどで養子を育てるのはまた違う感覚のような気もするがよく分からない。

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