『核兵器禁止条約』の採択に尽力

特別インタビュー 国連事務次長・軍縮担当上級代表 中満 泉さん
「あきらめてはいけない」という気持ちをいかに奮い起こしていくかにかかっています

公開日 : 2023-06-14

2017年に日本人女性初の国連事務次長に就任した中満泉さん。国連の軍縮部門トップとして『核兵器禁止条約』の採択に尽力し、2018年には米フォーチュン誌『世界で最も偉大なリーダー50人』に選出されました。中満さんのキャリアの出発点はUNHCRでした。中満さんにUNHCR時代のご経験や国連におけるUNHCRとは、などお話を伺いました。

高校時代に観たマザー・テレサの映画が国連を目指すきっかけに
―― どんなお子さんでしたか?

海外のことにすごく興味がある子どもでした。父は公務員で転勤もありましたが、ごく普通の中流家庭で育ちました。

―― 海外に興味を持ったきっかけは?

子どもの頃からニュースを聞いて父親と話したり、弟や妹たちと『国際会議ごっこ』みたいなことをしていました。海外への興味はそういったごく日常のところから出てきたのかなと思います。それ以外は全くドメスティックな環境でした。帰国子女でもなく21歳になるまでパスポートすら持っていませんでした。

―― 国連を目指すきっかけは?

高校生の時マザー・テレサの映画を見て感動し、「人生に大きな目的があるのは素晴らしいな、国連のような大きな組織で人のため世界のためになる仕事をしたい」と思うようになりました。大学時代に国際法を勉強し、そういった知識をいちばん使えるのはUNHCRではないかと思いUNHCRを目指すようになりました。

危険でもUNHCRを辞めようと思ったことはない
―― UNHCR入職後わずか3年足らず20代で事務所長代行に。しかも配属先はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最前線でした。

(初任地の)トルコ時代、軍事基地で様々な国の軍関係者とUNHCRをつなぐ仕事に数か月従事しました。その経験が評価されてのことでしたが、ボスニアのサラエボに行った時はかなり驚かれました。内戦の最前線に小柄な若い女性が事務所長代行として行ったので。

本当に大変な環境で、攻撃がおさまるまで防空壕で一晩兵士達と一緒に過ごすということも。ある意味極限でしたので連帯感も生まれました。一歩離れた安全なところから色々言う訳ではなく同じ厳しい環境の中にいて、訓練も受けていない文民の私が頑張っているからこそ信頼関係が生まれたところもありました。

当時は例えば基本的なことですけれども、援助活動の現場に女性用のお手洗いが無かったりとか本当に大変でした。今は国連の中でもだいぶ変わりましたけれども、そういった面で当時は苦労しましたし、現地スタッフの女性に対する心無いハラスメントがあったりしました。そういうとき、私は結構徹底して戦いました。時には取っ組み合いの喧嘩になりそうなほど徹底して抵抗したりなんていうことも(笑)。

一方でそういう場で話を聞いてもらうためには「いかに仕事の内容で示していくか」ということが重要でした。ともかく信頼を勝ち得るためにはやはり中身がなければいけないと。

―― 中身というのは何でしょうか、例えば…。

中身というのはつまり私たち国連の人間は派遣されて、現場で様々日常出てくる問題を解決しなければいけないわけです。解決をするのに必要な適切なアドバイスであったり適切な行動をとっていくということですね。

例えばボスニアにいたときのことですが「ボスニア軍とセルビア軍が対峙している中で捕虜の交換をやる、それをサポートしてほしい」という要請が国連保護軍に届きました。

一見良い話のように思えます。しかしこれは捕虜でも軍人でも無く一般市民を、民族浄化※1を行うためにイスラム系住民とセルビア系の住民を強引に交換しようと、いう話だったのです。もしそこに国連保護軍が関与してしまうと、国連が民族浄化の片棒を担ぐということになってしまう。そういうことが軍の方々だとなかなかわからないところがありました。

※1:民族浄化…1990年代に起こったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では暴力によって「支配地域から他民族を強制的に追放する」という凄惨な民族浄化が行われた。

そこでそういったことを考えられる訓練を受けていて仕事にしている私のような人間が行って「いや、これはちょっと待ってください」と介入して、民族浄化への国連保護軍の関与を止めることができました。このように現場が本当に必要な解決方法をこちらから提示していくという、その積み重ねですね。

―― UNHCRの援助活動の現場では「規則」と「命」どちらを守るべきか日々悩まない職員はいない、という話をUNHCRの現場職員から聞いたことがあります。

私も現場では常に規則と命との間で悩んでいました。UNHCRにはもちろん規則はあるのだけれども、自分で考えることが大切でした。「その規則が守ろうとしている本質は何なのか」よく考えること。「規則の核となる部分をどのように本当の意味で実行していくか」ということ。

だから紙の上にある規則というのは、私も破ったことは何回もありますし、少なくとも当時のUNHCRは、現場の職員が命を守るために規則を破らざるを得なかった場合、上層部でも理解するような、そういう組織文化だったと思います。UNHCRでは本質のところで「人間を救う」ということが1番重視されていました。

―― 危険でもUNHCRを辞めなかったのはなぜでしょうか?

危険だから辞めたいと思ったことは無いです。すごくいい経験をさせてもらったと思います。現場でパニックに陥って抱えられて緊急避難した人を何人も見ていますが、私は危険なことがあるとアドレナリンが出るタイプなんです(笑)。

緒方さんから学んだ「自分の頭で考える」「人を中心に据えて考える」
―― 1991年、初任地のトルコで緒方貞子さんと初めて会われたのですよね。

そうですね。初めてお会いしたのは緒方さんが高等弁務官に就任された1991年のことでした。クルド難民危機が起こり、緒方さんは4月に初めての現場視察でイラン、トルコに入られたのですが、その際、私はトルコ側の緒方さんの訪問プログラムの調整と随行サポートを事務所長から命ぜられました。初めてお見掛けしたとき、緒方さんはたしか飛行場でトルコ軍のヘリコプターに乗り込まれるところでした。とても小柄な方なのですけれども、そのお姿はエネルギーに溢れていました。

緊急視察のため、緒方さんは分刻みのスケジュール。ゆっくりお話しする機会はありませんでしたが、印象に残っているのは、とにかく質問をたくさんされていたことですね。色々なことをすぐ質問なさる。それがすごく印象に残っています。

―― 緒方さんから教わったこととは。

UNHCRにいた当時、緒方さんから直接色々と伺ったこと、教えていただいたことは実は今もすごく役に立っていることがたくさんあります。特に今のように世界のパラダイムがシフト※2しているときですね、ポスト冷戦期が終わって、新しい形の冷戦期、対立期が始まったような時期になって緒方さんの言葉をよく思い出しています。緒方さん自身、冷戦が終わってポスト冷戦期に入るというパラダイムシフトの時期に、冷戦の後始末をするために国際社会でいろいろな活動、指導をされた方でしたので。

※2:パラダイムシフト…当たり前と思われていた考え・価値観が劇的に変化すること。

緒方さんがよく仰っていたのは「これだけ世の中が激変している中、官僚主義に陥っては絶対だめだ」ということ。「これまでこういう形でいろいろ対応していたので、この通りにやっていくのだ」というのがある意味、前例主義に基づいた官僚主義ですけれども「官僚主義では問題解決は絶対にできない。問題の本質を見極めて、どういう解決方法をすればいいのかということを自分の頭できちんと考えなければいけない」と。緒方さんは「UNHCRは問題の本質に向き合う組織にしなければいけない」ということを、常に仰っていましたね。

その言葉を思い出しながら私も今の仕事で「軍縮の議論はこういう形で進めていました」というような前例に基づく官僚主義的な議論が出てくるときには「いやそれはちょっとおかしいんじゃないの?本質をもうちょっと考えて、きちんと深く掘り下げてどのような解決方法が可能なのかを考えましょう」と言っています。これは本当に緒方さんからよく伺ったことです。

あともう1つ緒方さんから教えていただいたことを挙げるならば、やはり「人間を中心に据えて考える」ということですよね。「ともかく命を守ることを徹底する」と教えていただきました。緒方さんは「命があればそのあときちっとした人生を送る可能性もキープできるのだから」と仰っていました。

緒方さんはUNHCRを辞められた後『人間の安全保障』※3などを概念化するようなことをなさったわけですけれども、その中心にやっぱりあったのは「すべて人間を中心にして様々な政策、アプローチを考えていかなければいけない」という考えでした。これは今私が安全保障を取り扱う中で重視していつも考えていることです。

※3:人間の安全保障…人間の安全を脅かす脅威に取り組むための動的かつ実際的な政策枠組み。

紛争の根本解決をするような仕事に就きたいと思った
―― 中満さんは90年代末にUNHCRを離れて、その後子育てをしながら民間の国際機関や一橋大学で教授として勤務なさった時期を経て、2008年に約10年ぶりに国連に復職されました。復職先にPKOを選ばれた理由は?

国連に戻る時にPKOを選んだいちばん大きな理由は、人道支援というのはある意味、紛争の結果に対して人道支援を行って助けていく仕事ですが、今度は根本原因を解決していく仕事に就きたいなと思ったことでした。UNHCR時代にPKOに出向させてもらったのが非常に大きなポイントになりました。(PKOの)内部を自分の目で見ていましたので。

武器を規制するため国家間交渉を支える
―― 今の仕事『軍縮担当上級代表』について教えてください。

そうですね、かみ砕いていうと、軍縮というのはつまり安全保障なんですけれども、その分野での複数の加盟国の交渉を様々な形で支えるというか支援するような、そういう役割ですね。

軍縮というとたぶん日本ではすぐ頭に浮かぶのは当然のことながら核軍縮なんですけれども、もちろんその分野も非常に重要ですが、それ以外にも様々なことがあります。例えばつい最近(2022年)12月に生物兵器禁止条約の再検討会議があって、交渉がうまくいくようにそれも張り付いて様々なサポートを行いました。

そして目立つニュースにはならないですけれども、小型武器の規制をどうやって進めていくかということにも取り組んでいます。実は、アフリカ、中東などで未だに多くの人が犠牲になっているのは小型武器。紛争の中で市民の犠牲をどうやって減らしていくか、ということに小型武器は本当に直結している問題なのです。

通常兵器、小型武器、それに加えて最近すごく時間を割いて扱うようになったのが、新興技術や新興領域。サイバー空間の安全保障、宇宙の安全保障、AIによる自律型致死兵器システムなど。戦争の在り方ががらっと変わってしまいかねない新しい科学技術が兵器に悪用されていくことをどうやって防ぐか。どのような規制を今から合意していく必要があるのか。未来のための軍縮は(アントニオ・)グテーレス事務総長の中でも非常に優先順位の高い問題で、今、国連で議論を重ねています。

そのように幅広く安全保障、軍縮に関して加盟国の交渉をサポートする仕事に携わっています。現在のように世界が非常に分断された中で交渉がなかなかうまくいかないようなときに、国同士の間に立って橋渡しをしていく。「どのような形で話し合いにおける共通の基盤を見つけていったら良いのか」ということを一生懸命考えてそれを提示していきます。

そして単に会議のサポートをするだけではなくて「どのような形で武器の規制におけるオプションがあるのか」という情報を提示していって、交渉・議論の中身を方向付けしていくお手伝いをする仕事でもあります。

閣僚や軍の司令官など耳を傾けてもらうために「まず相手の話を聞く」
―― 政府同士や軍同士など、利害対立する、意見の異なる勢力間での交渉が非常に多いと思います。そのような難しい場面で解決に導くため心がけていることは。

相手に対して誠実であること。そして信頼関係を作っていくことに尽きます。

まず相手の言うことに耳を傾けて、なぜそう言っているのかできるだけ理解しようと努める。そして、聞いた後にはこちらが言うべきことを言う。国連は「国連憲章の価値観や原則」に基づいて活動する組織です。その価値観に基づいて言うべきことはきちっと言わなければなりません。ただそれを言う時には、なぜ私がそういうことを言うのかということも併せて説明する。そういった基本的なことが大切だと思っています。

日々そのような誠実なやりとりを積み重ねることによって、相手から「中満の言うことであれば一応聞いてやろう、聞くに値する」「中満は自分のためにやっているわけではなく、本当に国連としての中立性、不変不当性をキープしながら解決方法を何とか探るために努力しているんだ」という信頼が得られるのだと思います。

これはかつて携わったUNHCRの援助活動の現場でも、今の仕事における各国のハイレベルの相手との交渉でも変わらないことです。私は必要に応じてどの国とも話ができる関係をキープする努力をしていますし、それは国連の当然の仕事なんですよね。

そして傲慢であってはいけないですよね。例えばアフガニスタンで尽力された中村 哲さんのような、本当にいろいろなことをわかっていらっしゃる方というのはとても謙虚ですよね。人の話にしっかり耳を傾ける。そういった人間でありたいと思っています。高飛車で偉ぶっているような政治家はだめですよね(笑)。

―― 今の仕事において「本質を見極める」ために大切にされていることは何でしょうか。

軍縮というと会議をやっているだけのように思われるかもしれませんが、実際の課題は国、地域によってそれぞれ異なるわけですよね。(会議室の中で)実際の課題が見えなくなってしまうことへの問題意識はUNHCR時代からありましたので、その点はとても気を付けています。

国連の軍縮部門は地域事務所を3か所に持っています。なので地域事務所に常駐するスタッフから常にきちっとした報告が上がるような体制を維持することや、私自身が機会を作って現地を訪ねることを心がけています。「人間を中心に据える」ということと「現場主義」は直結すると思っています。

安全保障とは、兵器の数というようなことでは全く無くて。「いかに領土保全をするか」だけでは無くて「いかに人間を守っていくか」という視点が無ければいけないと思っています。

国連の重要な役割は「舞台裏」にある
―― 国連の存在意義を今どのように感じておられますか。

国連が無い世界はもっと大変なことになると思います。困難もありますが、国連には確実に重要な存在意義があります。今の分断された世界の中で国連の存在意義が強まっていると感じます。

例えばウクライナの緊急支援では約1500人の国連職員が活動しています。国連は他の組織とは比べ物にならないぐらい現場で活動しています。それに加えてメディアに出ない舞台裏で様々な交渉や検討を重ねています。

その成果のひとつが昨年の夏、国連が支援したウクライナ、ロシア、トルコの3か国による『ウクライナ産穀物輸出合意』でした。今、国連ではウクライナの戦争が終わった後どのような復興支援をしていくか、ウクライナの戦争が世界に与えるインパクトをいかに最小限にできるかといったことも話し合われています。

昔、ジョージタウンの大学院時代に国連事務総長室のジョニー・ピコさんから伺った「脚光を浴びて有名になりたい目立ちたい人は国連には向きません。国連のいちばん重要な役割は舞台裏にあります。様々な目に見えない努力が多いのです」という言葉を思い出します。グテーレス事務総長も強い意向として「これからも目立つためではなく結果を出すために仕事をしていくのだ」と仰っていますが、まさにそういう舞台裏の努力が必要な時代だと思います。

―― 中満さんはずっと国連で働いてこられました。国連で働くということをどう感じておられますか。

仕事はかなり長い時間を費やすものですから、国連で働けるのは非常に有難いことだと思っています。色々な意味で人類共通の利益を追求していく、そのために世界中からの同僚と協力しながらやっていくというのは、もう本当に仕事冥利に尽きるといいますか、有難い仕事だと思っています。

一方で、国連は本当に国益がぶつかり合う場でもあります。自分と全く異なる考え方や文化、背景を持っている人、或いは真っ向から対立する意見を持っている人も周りにたくさんいます。それを苦しいと思うか、面白いと思うかで、国連で働くことに対する向き不向きが決まるのだと思います。

私はそれを面白いと思う方で「ぐしゃぐしゃとしていて対立項がいっぱいある中で、いかに共通項を探していくのか」ということを「やりがいがある」と思う人間なんですよね。なので国連は私にとって非常に向いている仕事なのだと思います。

UNHCRは国連の中核組織 信頼度は非常に大きい
―― 国連の中でUNHCRはどのような存在ですか。

UNHCRは国連の中で非常に中核的な組織です。コフィー・アナン元事務総長も現在の国連トップであるグテーレス事務総長も元UNHCR。実は国連の幹部職員にはUNHCR出身がかなり多いです。UNHCRは現場で徹底的に人を鍛える組織。その中で生き残ることが出来た人が国連幹部になっていくというところでしょうか。

実際UNHCR職員は現場でいちばん困難なところにいます。他の援助機関は途上国でも首都が拠点だったりしますが、難民キャンプは国境付近に多くありますのでUNHCRはいちばん大変な場所に人を出しています。UNHCRは緊急事態に対応する体制を作るなどフレキシブルに時代の要請に対応できる組織だと思います。UNHCRに対する信頼度は国連の中でも非常に大きいです。

「あきらめてはいけない」と気持ちを奮い起こしていく
―― 増加し続ける難民数に「無力感を感じる」という声もいただきます。

私も1989年に国連に入ってから今ほど困難を感じる時代は無いです。無力感はよくわかります。ただその無力感と戦って「だけどあきらめてはいけない」という気持ちをいかに奮い起こしていくか。そこにかかっているとも思うのです。

それはやはり「ここで私たちのような人間が諦めるとますます悪くなる」というのが目に見えているからです。ある意味、世界は今瀬戸際に立っているところがあって、これを何とか逆行させて元に戻していくかというのは問題意識を持っている人間にかかっているのだと思います。

今SNSを見ると、本当に見るも耐えない聞くも堪えないような極端な言説が飛び交っているじゃないですか。やはりそういうことに負けてはいけない。今私たちが無力感で諦めてしまったら、本当に暗黒の時代に逆戻りしてしまうという、ある意味その瀬戸際感。だからこそやらなければならないということをいつも思っています。

無力感を感じた時、自分を奮い立たせてくれるのはUNHCR時代に現場で経験したことだったりします。人間は恐ろしいこと、本当に信じられないことをする一方で、強さやきらっと光る瞬間があるのです。

―― そういった「人間の強さ」を感じた瞬間を具体的に少し教えていただけますでしょうか。

たとえばUNHCRでボスニアに赴任していたときにトゥズラの避難所である老婦人に出会いました。激戦地のスレブレニツァから避難してきたその女性は、父親が第1次世界大戦、夫が第2次世界大戦、息子と孫がボスニア紛争で戦うという4世代にわたって家族を戦地に送り出すという苦難を味わってきた人でした。

私が日本から来たと知ると彼女はこう言ったんです。「国連がどんなものか知らないけれど、そんな遠くから私たちを助けにあなたみたいな人を連れてきてくれるなら、もしかすると未来はもう少しましなものになるかもしれないね。でも無理しちゃだめ、決して無理しないこと。戦争は本当に恐ろしいものだから」と。

その言葉を聞いて、あらためて国連憲章の前文「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い…」の意味を理解しましたし、この女性は自分自身が大変な困難に見舞われているにも関わらず、むしろ私のことを気遣ってくれるのだと、彼女の優しさに驚かされ、心を揺さぶられました。

また、UNHCRの事務所に来たクロアチア人男性のことも心に残っています。その人はボスニア紛争の中で隣に住んでいたイスラム系の友人を亡くしていたのですが、その亡くなった友人の妻と娘を自宅に命懸けでかくまっていました。というのも当時はクロアチアの軍事組織が民族浄化目的でイスラム系住民を見つけ出しては暴行したり命を奪うために街中を見回りしていたんですね。

その見回りがどんどん頻繁になってきて危険を感じたその男性は、友人の妻と娘をなんとか助けてほしいとUNHCRにやってきたのです。UNHCRはそういった個人の避難に対して施設的にも規則的にも支援できない状況だったのですが、私たちは「戦時下に自らの危険を顧みずに隣人を助けたこの人の勇気になんとかして報いたい」と思い、いろいろな手を尽くして母娘をなんとか安全な避難所まで送り届けることができました。

そういった本当に普通の難民のおばあさんの言葉だったり、普通の市民の男性が命懸けで隣人をかくまったりする姿を目にしたときに「素晴らしい強さを持っているのも人間なのだ」と感じました。

今も仕事をするとき、そういったUNHCR時代の経験を思い返すと「ここで諦めてはいけない。ああいうこともあったじゃないか。そういう力を結集すれば何とかなるだろう」と気持ちが奮い立ちます。

各々が「できること」をやるそれが世界を変えていく
―― 日本から難民を支えている支援者の皆様にメッセージをお願いします。

大変な時代ですから本当に皆で力を合わせなければいけないと思っています。ご支援はUNHCRの難民援助活動にとって大きな力です。心より感謝申し上げます。

あとは難民問題だけでなく日本社会にもある様々な差別などに対して「声を上げる」こと。それから気候変動などに対して身の回りで「自分のできることをやっていく」こと。それが大切ではないでしょうか。人間社会は何百年もかけて少しずつ進歩していて、それは小さな声や行動が広がっていった結果だと思います。私たち1人ひとりにそういうことが求められている時代だと思います。

(2023年2月28日・オンライン取材 / 聞き手・構成:国連UNHCR協会)

------

被爆者は平和の構築者

2025-1-6

昨年12月10日、オスロで行われた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)へのノーベル平和賞授賞式に参列させていただいた。被団協の方々は、1945年8月から今までのさまざまな出来事、多くの人々のことを心に浮かべ感無量で式に臨まれたと思う。
悪化する国際安全保障環境の下で、核兵器を二度と使わない「核のタフー」を必ず守り、この受賞を軍拡から対話·外交·軍縮に舵を切り直すための機会にすべきことは既に何度も発信してきた。本稿では、少し掘り下げて今回の平和賞を歴史認識、記憶継承や和解という大きな文脈から考えてみたい。

▽傷を癒やす努力

実は和解や記憶継承という概念が平和への努力の中で重要になったのは比較的最近だ。現在の国際法秩序の起点とも言えるウエストファリア条約(1648年)の第2条では、一切の戦争被害について「互いに永久に忘却、大赦、赦免」されると合意された。戦争は戦場で行われ、一般市民が攻撃対象となり大きな被害に遭う状況ではなかったからでもある。
毒ガス弾や機関銃といった新兵器や航空機の利用などで、未曽有の犠牲者を出した第1次大戦はこの状況を一転させた。忘却や恩赦ではなく戦争責任を追及し、責任者を処罰する考え方が出現、第2次大戦後のニュルンベルク法廷や東京裁判を経て、今の国際刑事裁判所に引き継がれている。
これは紛争解決の中での法的責任に関わることで、市民レベルでの記憶の継承、共有や和解に必ずしも直結するとは言えない。国家間の合意と被害を受けた市民の間の隙間を埋め、被害者の戦争の傷を癒やす努力がなされるようになった。
謝罪や遺憾の意の表明は、国内での多大な政治的努力を要する公式の謝罪から、犠牲者慰霊碑などへの献花により哀悼を示す行動まで、いくつもの形で示される。先の大戦で大きな過ちを犯した日本にとって、長年にわたり特に重要な課題だ。
賠償や補償も重要な行為だが、戦争の被害者への実質的な損害補塡というより、戦争の国家責任や被害者への連帯の表示など象徴的な意味合いが強いことが多い。
記憶の継承は過去の悲劇を正確に伝え、将来の紛争や人権侵害を防ぐため、記念日の制定から記念碑建立まで世界各地でさまざまな形で行われている。以前は戦勝記念碑など「偉業」の記憶が多かったが、現在はホロコーストの博物館やルワンダのジェノサイド博物館のように「負の歴史」の展示が重視されるようになった。言うまでもなく広島と長崎の原爆資料館の果たす役割は大きい。
実務者として紛争現場で暴力の被害を受けた人々と直接向き合った経験から、被害者に安易に赦しや和解を求めるのがいかに理不尽であるかを目の当たりにしてきた。
暴力の傷を癒やし和解に至るには当事国間の行為を超えて、双方の市民の間で怒りや不信感を超えるための幅広く長い交流、歩み寄りと対話の積み重ねが必要となる。双方が人類共通の悲劇として捉え、両者の間で共有される記憶をより良い将来をつくるための基盤とすることが重要だと、和解を研究する専門家は指摘する。

▽変わる原爆観

長年の被爆体験の共有により、米国での原爆投下への評価も変化している。米ローパーセンターの世論調査によれば、1945年11月に33·5%の人が広島、長崎への原爆投下は正しかったとしたが、2015年には283·5%、24年には19·4%に下がった。
デモンストレーションを目的とした海上などでの投下を含め、一切の原爆投下をすべきでなかったとする人の割合はこの間、4·3%から14·4%、36·7%に上がった。近年は特にZ世代の若者層に原爆投下を間違いだったと考える人が増えているという。被爆者はその活動により被害者からサバイバー、そして平和の構築者となった。
田中熙巳代表委員は受賞スピーチで「戦争であってもこんな殺し方はしてはならない」「誰でも加害者にも被害者にもなり得る」と述べた。人類が核兵器という究極の大量破壊兵器を持ち、「自衛」の名の下で国際人道法違反が続く今こそ、心に刻むべきメッセージである。未来に向けて平和への行動を引き継ぐ私たちがいま一度真剣に、誠実に向き合うべき「戦争と平和」の課題が多々あるのだと痛感した日であった。

タイトルとURLをコピーしました