脳内世界モデル

人間は、生きていて、行動して、感覚して、また行動する。
この時、過去の経験を蓄積して、脳内に世界モデルを作る。

例えば、ピッチャーならば、
この球場で、この風で、この天気、自分の体調、それらを考えると、どんな感じで投げたらいいのか、
自分の内部でシミュレーションする。
その時、脳内世界モデルのなかで投球してみて、こんな感じかなと検討をつける。
そして実際に投球する。
その結果を確認して、脳内世界モデルを訂正する。
そのあとで、再度シミュレーションして、次の投球をする。

まとめると、行動→感覚→脳内世界モデルの訂正→シミュレーション→行動、とループする。
こうして、脳内世界モデルは精密になる。

もちろん、世界モデルは一般的・抽象的ではなく、その人の生きている現実世界を転写したものになる。

この世界モデルが歪んでいたりすると、現実適応がうまくいかない。

そこで世界モデルを精密なものにしたいのだが、どのように訂正したらよいかと言えば、訂正するために要するエネルギーを最小にすると考えればよい。
完璧な世界モデルが出来上がっていれば、訂正の必要がないので、一番のエネルギー節約になる。

このように、体験を参考にして、世界モデルを訂正しつつ生きているのだが、それがうまくいかないことがある。そんなタイプの精神病もあるだろうという話。

パニック障害とかは分かりやすい。
予期不安は、シミュレーション段階での不安です。
治療は暴露することで、脳内世界モデルを訂正することです。
これはとても分かりやすい。

うつ病も、力いっぱい頑張らないといけないという世界モデルがあるから、
脳神経細胞がダウンするまで頑張ってしまう、そんな病気。
この場合の脳内世界モデルの訂正はどうすればよいのか、よく分からないが、
世間ではあれこれ言っている。

精神分析は意識と無意識を考えて、脳内世界モデルの一側面を説明していた。
認知行動療法はまた脳内世界モデルの別の一側面を説明しているように思う。
どちらも脳の働きの一面を模式図で表現していて、実態はあいまいだから、いろいろな人が独自の模式図で説明する。時間がたつとどんどん拡散する。大衆向けの簡易版も登場する。
脳神経細胞の作る脳回路という本物ではないから、いろいろな簡易版説明ができる。
言葉で言えば、比喩の仕方のようなもので時代に応じて流行の比喩が流布する。
精神分析で、無意識の領域にあったものを意識の領域に持ってくれば、それで解決する問題があるとかというのは、本格的に脳内世界モデルの訂正を目指したものではないから、本格的とは、私としては評価できない。
そうではなくて、問題が、過去にもあり、現在にもあり、さらに診察室でも起こっているとき、診察室で脳内世界モデルの訂正ができるなら、それが本格的治療であると私は思う。徹底操作の中で世界モデルの訂正が進行する。時間がかかるのは当然だ。
その点、認知行動療法は妥協的だ。何回かの治療で脳内世界モデルの訂正などできるはずがない。
ロジャースは世界モデルの作り直しのようなところがあって、案外深いところまで治療できる。しかしそれは、本格的ロジャース治療者と、週に一回、5年とか10年とかかけての話である。ロジャースのいいところは、治療者と患者との状況に応じて、深くも浅くもできることだ。
さらに妥協的なのはもっと最近になって、保険制度に順応して、安く、短期間で治ると自称する、いろいろなマイナー治療法である。数え上げればきりがない。それらは、脳内世界モデルの訂正などには触れず、表面的な適応状態を改善する。
それが悪いかと言えばそうでもない。まず表面的な適応を改善すれば、全体の体調に余裕が生まれ、症状を「水没」させることができる。水没作戦ができるのである。
烏帽子岩理論で言えば、岩を削るのは精神分析で、水没させるのは簡易精神療法である。簡易版でいいのも確かであって、経済的にもされでいいのだろうと思う。
マイナー精神療法の場合、ロジャース的な観点を盛り込むことで、工夫ができることも、一考に値する。

しかしながら、問題は、患者の理解がどうかということだ。一部の患者は、「こころの治療」をするという観念について理解を拒むから「病気」になっている側面がある。だからその姿勢を訂正するには時間がかかる。抵抗が強い。そして患者は簡易な治療を求めるので、薬やその他、電気とか磁気とかそのような、なにか心理的なもの以外での治療を望むようになる。治療を提供する側も、簡易な治療のほうが負担が少なくてよい面がある。心理療法家を志していないなら、それでよいのだろう。

もちろん、身体疾患というか、脳疾患としての側面がある病気も多く、シゾフレニー、躁うつ病、てんかん性精神病などは脳回路の問題だろう。しかし、それだけでは終わらない。トラウマのあとにPTSDが発生するが、シゾフレニーも躁うつ病もてんかんも、PTSDの原因としてのトラウマには十分な体験である。だから、精神的なケアは大切である。

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以下、散漫な話。
昔からある話は、夜尿症の例だ。
夜尿症の治療はどうするか。
精神分析では、さんざん分析的にやった結果、「夜尿はしても別にいいや、気にしない」と思えたら、治療終了。それまでに大人になっているし。
これは笑い話だけれど、世間的には分析をそんな風に嘲笑する。

抑圧モデルで考えると、性欲を抑圧しているから、ヒステリー症状が出る。だから抑圧しないで、性欲を開放すればよいと納得する。性欲は悪いことでも恥ずかしいことでもないと学習する。それも治療の一種なのかな。怪しいけれど。
まあ、それもそうですがね、話をすること、会食すること、握手すること、ダンスを踊ること、セックスをすること、のあいだに違いがあるのかと言われたらよく分からない。妊娠するしないはあるけれど、妊娠しなければ他と同じなのだろうか。
あるいは、妊娠しなくても、セックスは何か特別なものなのだろうか。つまり、多少抑圧したほうがよいものなのだろうか。

性欲についても、世間は「そんなのは治療じゃないだろう」と嘲笑する。欲情が禁じられている対象に欲情するが、それはいけないから、抑圧する。それで症状が出るとか。トンデモだと言われる。
例えば、兄嫁に対しての性欲が転換されて症状として現れているという心的事実を、無意識の領域から意識の領域に移行させたとして、それで治療が終わるものだろうか。また、現代社会において、「そんなことは思いもよらなかった」というようなうぶな人が今どきどれだけいるものだろうか。

むしろ、禁じられているから、魅力を感じる人もいるわけで。ローレルの葉っぱを噛んではいけないという禁忌があるから、噛んでしまうわけだ。そんな禁忌がなかったら、そんな葉っぱを噛んでみる気にもならないだろう。

光源氏は禁じられた性的冒険をしている。この人は政治的冒険はしないし、哲学的冒険や宗教的冒険、また実際の肉体的冒険などはしない。ただ性的冒険をしているだけ。ところが、天皇の子供がこのように性的冒険をしても、さして社会的問題にもならないという、鷹揚さというか、現実に即した寛大さがある。建前で悩むわけではない。個人的な悩みがあるだけ。西洋ではキリスト教聖書を基盤として建前と、実際の行動とがぶつかって、困った。困ったけれど解決はなく、どの世代でも建前は建前、実際は実際、というように生きてきた。そのような中では、シャルコーやフロイトの言うヒステリーは起きやすかったのだろう。日本的に言えば、煩悩から離れて解脱したいと願いながら、念仏してすぐ後に、煩悩的行為をする、それで悩みはない。

欲望が罪であると悩むのはおおむね寒い地域の人ではないかと思うがどうだろうか。
暑い地域の人は特段、欲望と罪を結び付けることなく、生きやすいように生きてきたのではないかと思う。
熱帯と寒帯では酵素活性などが違うのだろうか、脳の働きも違っていて、欲望と罪の関係も違うのだろう。
法律は西洋風だが現実の行動は現地風でいいのだろうと思う。

一方で、2024年現在、大統領選で、中絶法の扱いで議論がある。

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