採録 いやはや こういうもののほうが商売になるんですね 人々の誤解や無理解を利用している。でも消費者としてお金を出してくれそうな人たちはそのゾーンにいる。学校も同じ。
――――――――
19世紀から20世紀への転換期、「無意識」という新たな心の領域を探求し、人類の知に大きな地殻変動を引き起こした人物がいる。ジークムント・フロイト(1856-1939)。精神分析と呼ばれる実践・理論の創始者だ。その彼の永遠の代表作ともいえる名著が「夢判断」(1900)である。人々の「心の病」に寄り添い、その原因を解明しようと探求を続けた「心の医師」フロイトは、果たしてこの著作で何を明らかにしたのか。「夢判断」を現代の視点から読み解くことで、私たちにとって「無意識」とは何か、それはいかなる働きをもつものなのか、心の病はなぜ発症するのか、それをどのように治療することが可能なのかといった問いを扱うとともに、人間にとって「心とは何か」「自分とは何者なのか」といった根源的な問題を深く考察する。
フロイトは、人間は誰しも「心の秘密」をもっているという。そのせいで自分でもわからないうちに心や体の調子が悪くなり、不幸に見舞われてしまう。「心の秘密」に気づくことで、「心の病」は治療できるというのだ。「心の秘密」のありかこそ「無意識」にほかならない。では、そこに辿り着くためにはどうしたらよいのか。彼が試行錯誤の果てに見出した方法は極めてシンプルだ。人は自由に「話すこと」によって「心の秘密」を取り戻すことができると考えた。これが「自由連想法」という方法である。
この「自由連想法」の重要な素材としてフロイトは「夢」を扱う。夢は、ふだん意識に現れない無意識の思考や願望をさまざまに偽装しつつ表現している。患者は、精神分析家に向けて夢を話すことで、その夢の背後にある抑圧された表象に導かれていく。それらの表象のなかには、病の原因にかかわるものがあり、それらを取り戻すこと、意識の領域に組み入れ直すことで、人は心の苦しみから解放されうるのだ。夢の意味を解読していく作業は、無意識が決して非合理なものでもたんなる情動の場でもなく、複合的だが一貫した論理に基づいて働くメカニズムであり、それは「メタ心理学」という新たな理論の可能性を開いた。
こうした探求の果てに、フロイトは後年、「生の欲動」と「死の欲動」を対立させる欲動二元論を思考の軸に置くようになる。そこでは、両欲動の葛藤の観点から、自我・エス・超自我から成る心の力動が考察し直されるのである。「死の欲動」の概念は、フロイトの死後、十分に発展させられたとはいいがたいが、フロイトがこの欲動に見いだした三つの様相は、「自死」「(他者への)暴力」「(アルコールや薬物への)依存」といった現代的な心の問題を一貫した論理で考察する可能性を与えてくれる。
番組では、精神分析を長年にわたってを研究してきた立木康介さんを指南役として招き、フロイト「夢判断」を分り易く解説。フロイトの後期思想も交えながら現代につなげて解釈するとともに、この著作が描き出す「心」の形(構造)に光を当てる。
第1回 無意識の発見と精神分析
『夢判断』とは、人間の「無意識」をひとつの論理的構造体として初めて体系的に記述した書物である。世紀転換期のヨーロッパでは、身体的な原因をもたない心の病すなわち神経症を、医学が持て余していた。フロイトはこれらの病の原因が「無意識」にあることを見いだし、精神分析という新たな治療実践を発明する。同時に、フロイトは自らの夢を素材とする「自己分析」を行うことで、無意識を解明するための「王道」としての夢分析の方法を確立し、『夢判断』においてその理論を体系化した。第一回は、『夢判断』でフロイトが確立した理論の骨格に迫っていく。
第2回 夢形成のメカニズム
フロイトによれば、夢とはひとつの願望充足であると同時に、その充足を偽装して表現する歪曲のプロセスである。夢は、日々の生活で得られるさまざまな印象を素材として利用しながら、願望充足を求める無意識の思考すなわち「潜在思考」を加工し、夢の表面的な内容である「顕在内容」を紡ぎ出す。こうした「夢作業」を支える複合的なメカニズムを、フロイトは「圧縮」「移動」「視覚化」「象徴表現」「二次加工」として分類整理し、実例とともに提示する。これはそのまま、無意識の論理の探求でもある。第二回は、『夢判断』によって解き明かされた「無意識の論理」とは何かに迫る。
第3回 エディプス・コンプレクスの発見
フロイトが自らの夢の分析から取り出すことができたのは、一般的な夢理論だけではなかった。後世、広く人口に膾炙するようになる「エディプス・コンプレクス」もまた、彼の自己分析がもたらした偉大な発見であり、フロイトはこれを個人の無意識的な「心の生活」の中核に位置づけた。このことは自ずと、無意識における「愛」と「セクシュアリティ」の重要性へと読者を導く。そもそも、彼が発明した精神分析という実践自体が、患者が分析家に抱く「愛」を動的な原理として活用するものだった。なぜなら、神経症という心の病は、幼児期の愛情生活の破綻に起源をもつからである。第三回は「エディプス・コンプレックス」とは何かを解明する
第4回 無意識の彼岸へ
フロイトは『夢判断』後半で、無意識が大きな役割を演じる「心の中の葛藤」についての理論を展開。心を一つの装置になぞらえた「メタ心理学」を構想する。「快原理」「現実原理」という二つのプロセスから、より克明に「心の中の葛藤」を説明していく。更に晩年、彼は「生の欲動」と「死の欲動」を対立させる欲動二元論の導入によって、それまで説明できなかった「自死」「(他者への)暴力」「(アルコールや薬物への)依存」を解明する手掛かりを得た。第四回は、「夢判断」後半で展開される理論と、晩年のフロイト思想の根幹に迫ることで、彼の理論が、心の問題に迫る上でどんな可能性をもたらしたのかを明らかにする。
おぞましきものから眼を背けない
番組制作を続けていると、ときどき奇跡的な瞬間が訪れる。ずっと胸にかかえていた、もやもやとしていた「問い」が明確な輪郭をもって立ち現れる瞬間だ。フロイト「夢判断」のシリーズ第三回の後半、その「時」は訪れた。
立木「忘れてはならないのは、エディプス・コンプレックスっておぞましいものですよね。実際にそれがあからさまに夢に出てきたときって、ぞっとするほどおぞましいものです。それはなぜかというと、無意識というものはそういうものだからです。無意識は、不意に出てきたおもちゃ箱をのぞいて、あぁなんか懐かしいなあとか言っているようなものじゃないんです。だから精神分析というのは、おぞましさの海の中を、樹海の中をはいずり回るようなプロセスなわけです。そこを突き抜けたときに、そういったおぞましいものに二度と振り回されないようになるのかもしれない」
ーーーーーーーーーーーー
伊集院「だからこそ深いところに押し込めて、鍵も捨てちゃっているわけですもんね。だけど、いよいよ廃棄物の上に建っているおうちが、この揺れだと家が壊れちゃうぞってことになったときに、後回しにして埋めていったものを掘らなきゃいけない時も苦しいというのは、わかるような気がします」
立木「すごくうまいことをおっしゃいますね。見事な喩えです」
これだ! …と思った。私がフロイトの思想から眼を背けながらも、いつか立ち向かわなければならないと思い続けてきた理由は。
フロイトとの出会いは、小此木啓吾さんという研究者の著作だった。たしか「人類の知的遺産」というシリーズの一冊だったように思う。1980年代半ば、大学三年生の頃だ。心惹かれつつも、どこか肝心なところがオブラートに包まれているようで…。わかりやすい入門書だったが物足りなかった。より深く知りたいと思って、最前線の研究書に手を出した。ジャック・ラカンの著作群だ。さっぱり歯が立たなかった。そうこうしているうちに、ポスト構造主義という、これまた現代思想の最前線の代表的著作「アンチ・オイディプス」という、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの手になる大著が翻訳された。集中講義に訳者の市倉宏祐さんがいらっしゃり、「アンチ・オイディプス」の思想を見事にわかりやすく解説してくださった。この本の主眼の一つがフロイトによるエディプスの三角形の徹底批判だということも習った。感化されやすい私は、「フロイトはもう古いな」と勝手に思い込み、フロイトの著作を手に取るのをやめてしまったのだった。
その後も、心のどこかで、フロイトのことは、胸に引っかかり続けてきたのだと思う。現代思想や哲学を学んでいると、必ずフロイトという巨人の影がかいまみられるからだ。短い論文が新訳されるたびに手にとって読んでみた。面白く読んだ。だが、肝心の「夢判断」は避け続けていた。なぜだろう……今にして思えば、それは、ある種の恐れからではなかったかと思う。そう、自分の中にある「おぞましきもの」から眼をそらし続けていたのだ。それこそ「無意識」による忌避だったかもしれない。
「100分de名著」のプロデューサーに2014年に就任する。フロイトの名前が常に頭の中によぎり続ける。だが、やはり私はどこかで避け続けてきた、ずっと……。だが、いよいよ、逃げられなくなってくる。横行するテロリズム、頻発する戦争、SNS上に氾濫する憎悪の情念…人間はなぜかくも「おぞましきもの」から逃れられないのか。そればかりではない。身近な人間関係の中にも、こうした「闇」や「悪」が渦巻いている。そして、何よりも……それがはびこっているのは自分自身の内部ではないか。そう感じた私は、「とうとうフロイトを読むときがやってきた」と自覚した。
オーストリアの作家、シュテファン・ツヴァイクは、「星の時間」という言葉を使って、こんなことを書いている。
「芸術家の創造において成就される本質的、永続的なものは、霊感によるわずかな、稀な時間のなかでのみ実現する。同様に、歴史のなかでも崇高な、忘れがたい瞬間というものは稀である。……無数の人間が存在してこそ一人の天才が現われ出るのであり、坦々たる時間が流れ去るからこそ、やがて本当に歴史的な、人類の星の時間というべきひとときが現われ出るのである。」
まさにフロイトという巨人の到来を表現したような言葉だ。私自身も「星の時間」に導かれるかのごとく「夢判断」を手に取った。星の時間は連鎖する。読み進めるものの、第七章の「夢事象の心理学」の難解さにたじろいでいた私に、絶好の補助線を与えてくれた一冊の本に出合えた。「精神分析の名著 – フロイトから土居健郎まで」。考えられうる限りの最高の著者を集め、わかりやすさの中に深みに誘うような難解さもちりばめられた、好奇心を刺激する著作。その編著者が今回の講師、立木康介さんだったのである。
幸運なことに、共通の知人がいた。編集者の互盛央さんだ。トークイベントへの参加をきっかけに知り合いになった互さんは、現代思想に非常に明るい編集者であり、しかもソシュール等を中心に研究して専門書を執筆する在野の研究者でもある。最近も「連合の系譜」というライフワークの一つともいえる大著を上梓されたばかりだ。彼に、立木さんのお人柄や研究内容も含めて訊ねてみたところ、太鼓判を押してくれ、紹介してくだささることに。
かくて、立木さんとお会いすることになる。初回の取材から刺激されることばかりだったが、ここでは詳細に触れない(実は、そこで話し合ったことがほぼ番組内容に反映しているので、今さらここで敷衍する必要もないからだ)。ただ、大きく膝を打ったことを一つだけ申し述べておく。少し私なりの編集が入るが、以下のような言葉を発してくださったのだ。
「無意識は決して非合理なものでも単なる情動の場でもなく、複合的だが一貫した論理に基づいて働くメカニズムであり、それは『メタ心理学』という新たな理論の可能性を開いた。それこそがフロイトの最大の功績だ」と。
フロイトは、今も変わらず誤解にさらされている。フロイトは、理性に対する反理性、合理に対する非合理、秩序に対する混沌として、「無意識」なる概念を生み出したという誤解だ。ここに大きな違和感を感じ続けてきた。だが、なまなかな解説書では、いつもこんな風にフロイトは位置付けられるのだ。
そうではない。彼の代表作「夢判断」は、人間の「無意識」をひとつの論理的構造体として初めて体系的に記述した書物なのだ。反理性、非合理、混沌として「無意識」をとらえたわけでない。そこに一貫して働く理法、秩序を見出すことこそ、フロイトが成し遂げようとしたことなのだ。この発言をきいて、私の問題意識もはっきりと輪郭を結ぶことができた。
そして、冒頭で紹介した対話が立木さんと伊集院さんの間で開花することになる。この対話を締めくくるように立木さんは次のように語ってくれた。
「フロイトは「ヒステリー研究」の中で、こう言っているんです。精神分析は、神経症の患者さんに約束できるのは、神経症の運命的な惨めさをありふれた不幸に変えることだ、と」
ことは「神経症」という個別の症例に限らないだろう。私たちは、自分の意志ではどうすることもできない「闇」「おぞましきもの」に翻弄される存在だ。その「闇」を単なる混沌や非合理として退けるのではなく、それが働くメカニズム、論理に眼をこらし、耳を澄ますこと。そこへのアプローチとして自らの「夢」を問い続けること。それこそが、自分の中の「闇」をありふれた不幸に変える手立てになるのだ。
今回の番組とテキストが、そのための手がかりなれば、企画者としてこれ以上の喜びはない。