報道の言葉はこれでよいのだろうか

・TBS報道特集では大手マスコミの立場で、意義ある報道を発信していて評価が高い。
・この動画は、というか、この動画のない録音ファイルは、主な報道プロダクトではなく、付随的な「記者ノート」「現場のコメント」の様な意義づけだと思う。しかしだからこそ、各記者の意識のありよう、さらには無意識のありようが照射されて、露呈される。立派な仕事で称賛に値するが、それでも、一言意見がある。

うぬぼれが、余計な敬語を言わせて、その敬語に自ら酔っている。

・この動画の中で、尊敬語、丁寧語、謙譲語などが不安定に使われている。気にしすぎてもよくないが。推定無罪の原則もあると考えても、だからといって敬語は必要ない。「誰についても、ニュートラルな言葉を使う」、これがよいと思う。疑惑の渦中にある人物に尊敬語、丁寧語、謙譲語とは、聞いていて気分が落ちこむ。

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・報道の言葉について再度考慮が必要ではないか。貶める言葉は必要ないが、敬語も必要ない。新聞の表現は中立の言葉ですでに確立されているのだから、それに則って表現したほうがよい。それが当たり前で当然で常識である。登場人物についてなぜ敬語を使うのか、理解できない。全く理解できない。

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・そのあたりから、過剰に邪推すると、
●主語となっている登場人物と放送局の関係、
●またその人物と放送局職員との人間関係、
●そして主語となっている人物の背景にいる人物への配慮
(ここまでは例えば、斎藤、牛タンクラブ、維新議員数名、N国関係、立花、折田、自民党市議会議員、維新市議会議員、背後に控える人物としては安倍、中川、菅、高市などのラインから始まって、その周辺、橋下、松井、吉村など維新周辺)、
●主語と放送局を結び付けた人物への配慮など(今回でいえば、民間人A氏、片山との面談をアレンジしてAしに繋いだ人物、疑惑を取りざたされている衆議院議員、さらにはその議員の対抗馬になる立場の首長退職者)、
以上の、どれかの点で完全に中立ではないから、おかしな言葉遣いになってしまうのではないか。完成原稿を読む形ならば「中立新聞用語」でできるのだろうけれども、アドリブも多い発言の中では、そうした人間関係が浮かび上がってしまうのではないだろうか。マスコミ組織としてはその人物の糾弾に動いているが、記者個人としては、敬語でも使っておきたいような恩義もあるのだとでも言いたいような、そんな腐った言い訳めいた仕事を、われわれは見せられているのではないか。「無意識の敬語で、無意識に登場人物と自分との個人的な関係の誇示」を見せられているのではないか。話題になっている人は、ほめられたものではないが、それでも有名人であり、権力者である。その人々に対しての個人的な関係があることを誇示するような気味の悪さが、無意識の敬語にはある。そんな自分を特別だと思っている、劣悪な意識が発話者にある。

・大放送局は、どうしても、大物政治家への配慮がにじんでしまう。港区千代田区あたりではお互いに顔見知りなのである。悪く言えば忖度することになってしまう。なぜ「すっきりした中立の新聞言葉」で語ることができないのか。「無意識の敬語だ」とまではいわないが、少なくとも私は、違和感を感じる。気分が悪くなる。こうした種類の報道によって遷延させられている私のうつ状態はさらに悪化する。

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