患者が、自分の真実を認めようとするとき、それを妨害するものがある。
例えば、羞恥心、恐怖、プライド、政治的正しさ、社会的適合など。
これらの妨害の多層構造を、徐々に解きほぐす。
心(感情)と無意識の自己が、目覚めた理想的な自己と交わることができるようにする。
自分自身の多様な側面を受け入れることができるようになれば、柔軟性が生まれる。
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理性の下層にある感情や無意識を抑圧して幸せになるわけではない。
それらが手を取り合って適正に交流することが幸せである。
妨害しているのは羞恥心やプライドなど、子供のころのしつけに由来するものであることが多い。
道徳心、超自我、公共心などもそうだ。それは大事だが、それだけではない。
時と場所を選んで、もう少し開放してもよいと思われる場合も多い。
しかし感情や無意識が暴走するようなら、幸せではない。
たとえば傲慢な人は、
生活の中で、自分の傲慢さを反省する機会はいくらでもあるのに、
反省が働かないように、ゆがんだ形で現実を解釈してしまう。
反省の機会は、謙譲り側に連れてゆく機会とはならずに、
自分の傲慢さを強固にする機会になってしまう。
反省や学習が妨げられている。
なぜだろうと思うが、偶然に、そのような心の仕組みが出来上がってしまえば、
傲慢さは時とともに強固になる一方である。
罠にかかっているような状態だ。
傲慢さを反省しない人生もありだとは思う。
それはそれでよい。
謙遜になることはいいことだと思われるが、それでも、それなりにつらいこともあるだろう。
傲慢のままでいることも、選択肢の一つだと思う。
柔軟ではないといえばそれはそうだ。
一般的な判断として、謙遜であることは世界を広げてくれるし認識を広くしてくれる。
柔軟であることはいいことだ。
しかし特殊な場合として、傲慢を貫くほうが楽だという人もいるだろう。
不思議な感じではある。
