儒教と老荘思想は昔から車の両輪である

お釈迦様は、悟りに至ろうとして、苦行を試みたが、それではダメだとの意見です。
苦行すればよいというものではない。

儒教と老荘思想は昔から車の両輪である。

社会の中で、表立っての活動の仕方としては、やはり儒教的な精神がよい。
それが社会的存在である。

しかし一方で、世捨て人の感覚や、生死の意味の感覚など、老荘的な感覚がなければ、世間を生きるにはつらすぎる。

勿論、幸福な人は、表向きの社会的存在としての感覚だけでよいのだろう。
しかし人間の人生にはいろいろなことが起こる。
生死を見つめたり、人生を振り返ったり、そんな場面があり、
所詮はそんなものだ、悩んでも結論が出るものでもない、人生はこんなものだ、
あるがままでよい。隠遁してもよい。引くことも必要だ。マイペースでいい。

社会人として勇ましく生きる心だけでうまく生きられるものではない。

厳しい社会の中で緊張して生きている様子を、隠棲者の立場から見つめなおして、
どうなっても、死んでしまえば、同じようなものだ、自分にとっても宇宙にとっても、変わりはない、
そのように心を切り替えられたら、少しは良い。

だからこそ、昔から、老荘思想もあり、仏教的世界もある。

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