知識と知恵 そして孔子

知識は人を助ける。知恵は人を変える。

最近では知識はネット空間にも大量に存在する。しかし、嘘も多いし、知識の体裁をとったコマーシャルも多い。
知識をどう使うかについての、知恵を育てることが大切である。

論語の最初に、「学びて時にこれを習ふ、また説ばしからずや。」とある。
また、「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆し。」とある。

実際には割り切れるわけではないが、
「学ぶ」は知識の方面だろう。先人から学んでもいいし、自分の経験から学んでもいい。
「習う」は知恵の方面かもしれない。「習う」は習熟して体得する、のような脳の学習の意味が強いかとも思うが、ここでは知恵の方面の意味を考える。

知識に比較して、人の身について、人格に浸透していったとき、知恵になる。

知識に接したら、知恵になるまで習熟しなさいという教えである。

知恵は、応用的知性だ。

例えば、陶芸の先達から、陶芸を学んだとする。
そうしたら、あとは繰り返し習熟して、自分のものにする。
技術が定着するとともに、人格も成長する。
知識が人格に影響を与えるとき、知恵になる。

学びて思はざれば則ち罔し、これは盲信である。
思ひて学ばざれば則ち殆し、これは妄想である。
いずれも、検証が欠けている。

知識を知ったら、それを検証して、自分としてそれを選択するか捨てるかを決める。
何か思いついたら、先人の教えと比較して検証してみる、そうしなければ、妄想は妄想のままとなる。

「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆し」は、他人の考えも、自分の考えも、検証しなさいということだ。
そして検証の最も洗練された方式が自然科学における実験と検証である。

「学びて時にこれを習ふ、また説ばしからずや。」
先人の言葉や自分の経験から知識を学び、それが知恵になるまで、習熟しなさい。
知識は人格に浸透し、知恵になる。

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