現代の人々の短歌を読んでみると、密度が濃いものと、読みやすくてイメージがくっきりとしたものと、二つに分かれる感じがする。
密度が濃いものは現代音楽とか抽象絵画のような感じだ。
もう少し水で薄めて飲み込みやすくしてほしいと思う。
でも、専門の人にとっては、この言葉とイメージのブロック積みが大事なのだろう。
読みやすいものは俵万智とかの感じだ。
最近では全自動わんこがよかった。
イメージがくっきりしている。
これを思いついたのかと共感できる。
新聞の歌壇もあるがよく分からない。各紙毎週掲載しているから大変な量だと思う。
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ある若い人は源氏物語の中の短歌を自分の短歌の中に挟んで配置して構成していたが、
平安時代の和歌は圧倒的に優美で音楽にあふれていると思う。
漢詩の場合は、日本語独自の読み下しであって、作者が意識した音楽ではない。それなのによい音楽になっている。不思議なものだ。
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ぼーっと読んでいるとよく分からない、イメージがぱっとわかないような短歌もたくさんある。
専門家の仕事はそういうものなのか。そうなのだろう。
例えば、NHKスペシャルで華々しく紹介されて、日本音楽界で称賛された人がいた。交響曲第一番を発表して褒められたのだが、実はゴーストライターがいて、その人は現代音楽家で、インタビューで、だいたいこんな感じのことを言ったような気がしている。プロなんだから、ベートーベンみたいなものを書けと言われればあんな感じで書けるんですよ、難しくない、でも現代音楽はそんな簡単にはいかないんですよ。
ということは、我々が聴いているベートーベンとかそんなものは何なのだろう。
勿論、現代音楽に大いに意味があるのだろうが、普段聴こうとは思わない。バッハとかモーツァルトを聞くけれども、ということは、現代音楽は、誰のための、なんなのだろう。
難しい短歌を読んでみて、そんなことを思った。
絵画でも同じようなもので、やっぱり印象派が人気があるし、自分でも見て心地よい。一方で、現代芸術の分野はあって、解説をしゃべり続けたり、自分でも何か感じたり考えたりするわけだ。一言でいうと難しい。ぱっと心地よい印象が形成されない。
文芸も音楽も、絵画も、どうして難しくなるのだろうか。あと100年もして、未来の人々の耳には、モーツァルトのように心地よく響くのだろうか。
いっそのこと、文芸をやる人は、J-popの歌詞でも書いたらいいのではないだろうか。コマーシャルで使う言葉を考えたほうがいいのではないだろうか。コピーライターでいいのではないか。キャッチ・コピーでよい。
和歌というくらいだから、漢詩と対になっているのかな。歌ですよね。歌だけど、音楽と結合していないし、踊りと結合していない。それも納得できない。
漢詩というのだから、和詩なのではないだろうか。歌というのだから、やはり節とリズムをつけて歌うものではないだろうか。カラオケで歌うものが他であるべきではないのだろうか。
伝えたいから書くんでしょう?だったらなぜこんなに分かりにくいものを書くの?
それは誰に伝えたいか、誰に褒められたいかが問題なのだろうか。
短歌会などがあって、歌会というんですかね、そんな場所で、その字余りがいいとか、そのリズムは崩れているとか、イメージがどうだとか、ああだとか、そういうのを目指して書くのだろうか。それなら、確かに、こんな感じになるかなと思う。
一般人とは少し離れてしまう。現代音楽のようなことをやっている感じだ。それはそれでいいのかな。
専門家向けにはこうだけど、一般向けにはこうですよ、とできないものだろうか。濃すぎると、味わうにも難しいので、一般人向けに、薄くして、飲みやすくしてくれればいいのに。印象派のようなきれいな絵でいいじゃないかという人に向けて、こういうイメージなんですよと、出してくれればいいのに。
浮かんだインスピレーションがあるわけでしょう。それを、あまり加工しないで、出してくれればいいと思うんですよ。
その最初のインスピレーションを変形したり、わざとグロテスクにしたり、それは芸術的手法というもので、それはそれでいいものだと思うけれども、それはあまり楽しくないし、興味がないという人の場合に、何かもっと分かりやすく、大事な発想とか、始まりの言葉とか、そういうのが知りたい。
「あ、思いついた!」という瞬間を、追体験できるような、そんな芸術がもっとあってもいいと思うんです。
現代の最先端は、その最初の思い付きを、プロの手つきで、様々に加工して、プロにしか分からないような複雑でグロテスクで固くて、味わうのも難しいようなものになっているのだろう。それはそれで芸術家の仕事だ。