意識と麻酔

進化の過程でいつ意識が生じたのかという系統発生、赤ん坊がいつ意識をもつようになったのかという個体発生。それだけではない。

意識の発生は、もう一つ存在する。それは、「全身麻酔からの回復」である。動物がもっている「意識」は、麻酔によって強く抑制される。そのようにして抑制された意識は、麻酔の濃度が下がると、しだいに回復してくる。

全身麻酔の「導入」と「回復」は、非対称である。どういうことかというと、全身麻酔の導入から維持までの神経活動を連続的に観察すると、回復時の神経活動の変化は、導入時の逆再生ではないのだ。この違いは、単に体内の麻酔濃度の推移の違いによるものではない。回復時には、導入時とは異なる神経活動パターンが観察される。麻酔からの回復は、麻酔濃度が下がったことによる、受動的なプロセスではないのだ。

麻酔から目が覚めるとき、意識が朦朧とした(意識レベルが低い)状態を経て、徐々に元通りの「意識」が出現してくる。数億年の年月をかけて起こる系統発生や、数ヵ月かけて起こる個体発生と違って、分単位で意識が発生するのだ。麻酔科医でもあるジョージ・マシュールらは、麻酔からの回復が、意識の発生をリアルタイムで観察するのに良い手段だと唱えている。
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2008年にアメリカのグループから発表された論文では、麻酔状態からの回復プロセスに、オレキシンが関与していることが分かった。脳内のオレキシンが欠損すると、ナルコレプシーと呼ばれる睡眠発作が起こる。言い換えれば、オレキシンは、覚醒を維持するのに重要な分子だ。マウスの脳内でオレキシンをつくっている神経細胞のはたらきは、全身麻酔状態では強く抑制される。麻酔は、覚醒のシグナルを低下させるのだ。

ただ、オレキシンをつくる神経細胞を破壊しても、麻酔は通常通り作用する。麻酔の導入にはそこまで大きく関与しないのだ。その一方、オレキシンがないと、麻酔からの回復が遅れることが分かった。麻酔から目覚める際に、オレキシンが一定の役割を果たしているということだ。麻酔によって強く抑えられていたオレキシンの分泌が、麻酔の投与を止めることによって再開し、覚醒への回復を裏打ちしている。そして、おそらくは意識の出現にも関わっている。

全身麻酔は、動物の意識を完全に消失させる。意識の進化と発達を、一瞬にして巻き戻す魔法だ。そしてそれは、意識の謎を探求するための希少な手段でもある。

吸入麻酔薬が作用するのは、ヒトやマウスだけではない。鳥類に加え、魚や昆虫、線虫などありとあらゆる生物に対して作用する。ゾウリムシでさえ吸入麻酔薬に晒すと動かなくなって、外部からの刺激に反応しなくなる。興味深いことに、吸入麻酔薬は植物にだって作用する。オジギソウを麻酔薬に曝露させると、代謝が下がり、刺激に応じて葉を開閉させる反応が見られなくなる。そして麻酔の投与を止めると、再び反応性を示すようになるのだ。それを「覚醒」と呼ぶか、「意識」と呼ぶか──科学は未だ答えを出せていない。
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1998年12月25日、二人の男がある“賭け”をした。「意識のハード・プロブレム」を提起した哲学者のデイヴィッド・チャーマーズと、神経科学者のクリストフ・コッホだ。コッホは1980年代、神経科学の観点から意識の研究を始め、クリックの共同研究者でもあった。現在では、世界の神経科学をリードするアメリカのアレン脳科学研究所に籍を置く。

そんな二人の賭けとは、「意識を生み出す神経基盤が、25年以内に科学の力で明らかにされるか」というものだった。コッホは「25年後なら解明されているはずだ」、チャーマーズは「おそらく不可能だ」と言った。そして、勝者にワインを贈るという約束をしたのだった。

それから25年経った2023年6月、彼らは国際意識科学会で再会する。コッホは期限である12月まであと半年を残しているものの、意識のしくみは解明できなかったとして負けを認め、チャーマーズにポルトガル産のワインを手渡した。チャーマーズは、「私にとっては良い賭けだったが、コッホにとっては大胆な賭けだっただろう」と言い、笑顔を見せた。賭けに負けてしまったコッホだが、それでもまだ諦めてはいない。「さらに25年後なら、現実的だろう。2倍の賭けをしてもいい」と語った。

意識とは何か──未だ残された人類の謎である。それを生物学で解き明かすことが、クリックの夢であり、コッホの夢でもあるのだ。

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