日本社会精神医学会 編 『社会精神医学』
西園昌久「わが国における現時点での社会精神医学の到達点」
社会精神医学は実践の医学である。かつてカントが「理論なき行為は暴力であり、行為なき理論は空虚である」と述べたとされるが、これは現代社会における社会精神医学にも当てはまる。今日、社会変動やグローバリゼーションの進展により、個人の価値観、家族のあり方、集団と個人の関係性が大きく変化している。また、個人が自己責任だけで生き抜くことはますます困難になっている。精神障害の予防、治療、リハビリテーションにおいては、社会精神医学的な視点とその実践が不可欠である。
本書は、日本社会精神医学会が総力を挙げて編纂した教科書である。教科書といっても、学生向けというよりは、現時点での社会精神医学の到達点を示すことを主眼としている。50名に及ぶ各専門分野の執筆者陣がこの分野の厚みと広がりを示している。
「序」によれば、今から40年前に懸田克躬、加藤正明の共編による『社会精神医学』が刊行されたことが言及されている。これは、当時まだ理論と実践が確立されていなかった時期における啓蒙書であった。それに対して本書は、この40年間にわたる精神医学・精神科医療の社会的変動、停滞や混乱、そして再建と進歩の過程を踏まえて到達した内容となっている。
本書はB5判、480頁に及ぶ大著である。構成は以下の通りである。
- 社会精神医学とは何か
- 社会精神医学の役割
- 社会精神医学研究とその成果
- ライフサイクルと社会精神医学
- 現代社会の特性と社会精神医学
- 精神保健サービスの提供と学術基盤
- 社会精神医学と近接領域
- 社会精神医学の課題と展望
- 日本社会精神医学会の歴史
これらの章に沿って、各項目ごとに詳細に記述されている。個々の内容についてすべてを紹介する余裕はないが、読者の興味を引くテーマが多く取り上げられており、社会精神医学を超えて精神医学そのものの本質を考えさせる内容となっている。特筆すべきは、欧米のみならずアジア各国の精神科医療についても言及されている点である。
若干の意見を述べるならば、今日の精神医学は神経科学の発展に伴い、生物学的精神医学が主流となっている。この状況に対し、社会精神医学はどのように対応していくべきかが問われている。WHOヨーロッパ事務局のRutz W(2003)は、うつ病、攻撃性、自己破壊行動、自殺、暴力、破壊的スタイルといった障害が先進国で多発している現状を指摘し、劇的な社会変化が脳の発達と機能に影響を与えていると述べている。彼は、社会精神医学も従来の社会的次元だけにとどまらず、神経科学の新たな知見を取り入れた新しいパラダイムへと発展すべきであると主張している。
生物学的精神医学が優位なわが国において、社会精神医学の次の目標は生物─心理─社会的モデルの発展であると考えられる。もう一つの課題として挙げられるのは、近代化したはずの日本社会に今なお根強く残り、人々の自由な判断を拘束している「ムラ意識」の解明である。
参考文献 Rutz W: Rethinking mental health; a European WHO perspective. World Psychiatry 2(2): 125-127, 2003
(福岡大学精神医学名誉教授)
精神医学 2009 年 8 月
B5 480 頁 2009 定 価11,550 円 (本 体11,000 円+税) 医学書院