実存メモ04 

実存メモ04
理論が人間を歪めることを警戒する
「本物の経験」こそが重要であり、人間の体験を既存の理論にはめ込むと、その経験の本来の意味が失われてしまう。
「既存の理論」にあてはめるのは、当然、愚かなことである。

しかし、個別の理論ではなく、そもそもの論理的思考や合理的思考を信じられないとき、何を信頼したらよいのか、分からなくなる。

論理は信頼できると2000年間信じられてきた。しかし、論理にも限界があると指摘された。そうなのかもしれない。

・不完全性定理(ゲーデルの不完全性定理)
・ラッセルのパラドックス・・・数学と論理の基礎に潜む矛盾の可能性を示し、厳密な論理体系をあきらめた。
・決定不能問題(アラン・チューリング)・・論理的推論や計算にも限界があること
・クワインの不可知論的批判・・「論理的真理も経験的事実に依存しており、完全に独立した論理体系は存在しない」と主張した(「ドゥエム=クワイン仮説」)。どんな論理も絶対的ではなく、人間の経験や解釈に依存することを強調。
・非古典論理の登場(従来のアリストテレス以来の二値論理(真か偽か)だけでは現実を記述できない状況があると指摘。)・・直観主義論理:証明できない命題は「真とも偽とも言えない」とし、排中律を否定。多値論理:「真」と「偽」以外の値(例えば「未定」)を認める。パラコンシステント論理:矛盾を許容する論理体系。

「論理によって世界のすべてを説明できる」という考え方は疑問視されている。
では何を信じたらよいのか。

感覚は間違う。思考は間違う。個人の経験は信頼できない。嘘つきも多い。詐欺師がたくさんいる。

生命は、準備完了であることを確認してから発生したのではなく、生まれ出てしまってから、様々なことを学習している。承認しがたい事態が発生しているが、そんなことは知らされずに生まれてきて、解決できないままで、死んでゆく。

こんなことが問題の中心点だとは思わずに生きている人も多いだろうし、実際、明日の食料とか、人間と人間の争いとか、人間が生きていること自体が一番の環境破壊だとか、そのような視点に比較すれば、子供じみた、ないものねだりに似たことかもしれない。寝言に近いかもしれない。

悩んでも悩まなくても、結果はあまり変わらないかもしれない。
悩んだ人の一部は精神的に衰弱するだろう。
悩んだ人の一部は、何かの決意に至るかもしれない。そうしたとして、それがよい解決かどうかは保証はないのであるが。保証があるなら、もっと広く浸透するだろう。
悩まない人は、それなりに、円満に人生を終わっているかもしれない。食べて、産んで、育てて、一生を終われば、生命としてはそれで円満ではないか。自意識など余計なおまけだともいえる。

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